「情熱(強い意志)は人(他人)を動かす。」と言われますが、
見方を変えれば、動かされる人の「意思」の弱さもあるんじゃないの?
で、各人の「意思」の強さ、弱さは何によるのか?となると、
各人の「信念」からでは?
じゃ、「信念」は何によるのか?となると、おそらく「学習」からなのでは?
1+1=2はである。とまず教えられ、誰もその事を疑いません。
実社会においても1個のリンゴ+1個のリンゴ=2個のリンゴですから。
つまり「信念」の基礎は「学習」と「実証」の蓄積のように思えます。
(なかには「学習」だけで「実証」のない危なっかしい「信念」もありますが・・・)
「学習」と「実証」の蓄積によって「信念」が形成されたとしても
それが「学習」と「実証」の蓄積であるが故に個人差があり、
各人において「信念」の強さ、種類にも差が生じるのは当然ですよね?
つまり、農民には農民の、職人には職人の、商人には商人の「信念」があります。
各々が勝手に生活を営む分には個人的な「信念」だけで不都合ないのですが
人が集まり社会が形成されると、様々な「信念」が混在する状態になり、
何というか、その「信念」のカオス状態を何とかするために、
「信念」を包括するための「ルール」がないと
「信念」どうしの軋轢が生じてしまうでしょう。
「宗教」による解決法も考えられますが、
「神」や「仏」の概念にしても、突き詰めれば宗教家の個人的体験の展開形。
個人の経験則から来る「信念」の一形態であり、
社会や世界を統合する共通の「信念」にはなり得えない様に思えるのです。
(力ずくでなら別ですが・・・)
であるならば、何が「ルール」として有効であるか?と考えるに、
ヤッパリ、基本である「学習」に立ち返るのが一番ベストなのではないかと。
昔と違い、今は誰もが自由に情報を手に入れることができます。
インターネットに接続すれば、自分の知りたい情報を即座に手に入れられます。
しかも、インターネット上の情報は、農民だろうと、職人だろうと、商人だろうと、
全ての人にとって公平に伝達されます。
つまり社会全体の、「学習」による知識のすり合わせができれば
ある程度「信念」の格差是正?がなされ、「だまされにくい社会」になる?
ニートや引きこもりの若者の中から次の日本をリードする人材が現れるかも?
というようなことを以前書き込んだのですが、
そのときは自分でもただ漠然とした思いつきでしかありませんでした。
が、ハッキリ見えてきたことは、「学習」する時間の大切さです。
悲しいかな大人になると「学習」に費やす時間は確実に減少します。
仕事と生活に忙殺される毎日なのですから当然です。
しかし「学習」を放棄するということは、確実に
「だまされやすくなっている」
ともいえます。
お父さん、お母さんは家族を養わなければならないので仕方ないのですが、
ニートと呼ばれる若者たちにはとりあえず時間があり余るほどあるわけで、
彼らがその時間を有効活用して社会的な問題について「学習」を深めれば
将来、社会が根本的に変革する可能性だってあり得ます。
ニートや引きこもりの若者を社会問題としてのみ捉え
社会復帰?してもらおうといろいろな政策が考えられていますが
お父さん、お母さん、ここは焦らず暖かく見守ってあげてはいかがでしょうか?
大体、社会復帰するっていったって、その社会がいい社会じゃなければ
社会に復帰する気も失せるというもの・・・
「労働」することで「だまされやすく」なり、
「だまされる」ことで「不当な労働」を強いられる。
のであれば、自業自得の悪循環(今風に言えば「自己責任」でしょうか・・・)。
なんで唐突にこんな話になるかというと、伊丹万作氏の言葉が
ズッと自分の中で引っかかっているんですよねぇ・・・
「だまされる方も悪い!」
そもそも、人は「真実」を知ることを欲しますが、
同時に「真実」を知ることを恐れます。
だまされている限り「だまされた」と責任逃れができますが、
「真実」を知るということは、「責任を負う」
という煩わしさを引き受けることでもあり
その不都合な「真実」を受け入れる度量と覚悟が無い限り
この先何度でも人(日本人?)は自ら進んで「だまされ」るのでしょう。
(恋人の浮気を認めたがらない女のようなものですかネ?違うか?・・・)
でわっ!