唐突ですが、「風の谷のナウシカ」の原版のなかで、
「オーム(王蟲)が科学者によって創造されたとしても、高貴な魂はオーム自身のものだ。」
とナウシカが語るくだりがあるのですが(記憶では)
自分自身を振り返って見るに、
「自分」という存在は自分以外の「他人」の存在によって成り立っているワケで、
いわば「自分」とは「他人」集まりである「社会」によって
産み出された「存在」とも解釈出来るのでは?
確かに「社会」があるから今の自分がある。
「社会」があるから「仕事」にありつき「生活」することが出来る。
「社会」があるから「仕事」がなくても「生活保護」や、
他人の「援助」を受けることが出来る。
人間は一人では弱い存在。
だから「社会」という共同生活単位が必要になる。
で、昔の人は行動範囲も狭かったので、「社会」の範囲も狭かったのでしょうが、
文明の進歩とともに「社会」の範囲もどんどんひろがっって
20世紀初頭には「国家」というレベルにまで
「社会」が拡張されたように思うのですよ。
民族、文化の最大公約数としての「社会」=「国家」
という体制の中で100年が過ぎ、
その間にも文明は加速度的に進歩したのにかかわらず
「社会」の単位は「国家」のまま固定されているわけです。
(もちろん異文化、異人種に対する拒否反応は動物的に自然な反応ですが。)
「国」とはなんなんでしょうか?
「愛国心」について問われるなら、まず真っ先に思い浮かべるのは
自分の家族であり、日本の表情豊かな四季の自然であったり、
幼い頃遊びまわった自分の家の近所であったり・・・
「永田町」や「国会議事堂」や「政治家センセイの顔」
でないことだけは確かです。
それでイイと思うんですよね。ワタシ的には。
イラクで戦死した多くの兵士も、最後に思い浮かべるのは「母親」の顔であったり、
よく釣りに行った「近所の川」だったり・・・ね。
自分の国の国旗を思い浮かべながら死ぬ兵士なんてホンの一握りじゃないでしょうか?
(まったくいないとは言いきれません。)
前置き?が長くなりましたが、現在
「麻生」さんと「福田」さんが総裁選で争っていますが、
「テロ対策特別措置法」に関するお二人のコメントで共通しているのが
「国際社会から必要とされている。」
という認識です。
この場合の「国際社会」とはイラクの国民も含まれているのでしょうか?
もとよりアメリカの国民も支持しているのでしょか?
<記事>
2007/09/16-09:23 米首都で数千人が反戦デモ=150人を拘束
【ワシントン15日時事】米国の首都ワシントンで15日、イラク戦争の即時終結を訴える反戦デモがホワイトハウス前と議会前で繰り広げられ、数千人が参加した。米メディアによると、議会前では規制のバリケードを突破しようとしたデモ参加者約150人が警官隊に拘束された。反戦デモに対抗するイラク駐留米軍支持のデモも行われ、週末のワシントンはイラク戦争をめぐる賛否の渦に巻き込まれた。
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007091600019&m=rss (時事通信)
</記事>
どうやら彼ら(政治家)の言う「国家」、「国際社会」とは、「国民」を含まない
「戦略」の「カケヒキ」のための「道具」にしか過ぎないのかも。
ワタシは思うのですよ。「国」を見るのではなく、「人」を見なければならないと。
「某国が攻めて来る」とか、
「日本が乗っ取られる」とか、
まことしやかに言う人がありますが、
例えば、「北朝鮮の一般の国民」が
日本に攻め込もうと本気で考えているのでしょうか?
「アメリカの一般の国民」が「イラクの一般の国民」の
窮状を望んでいるのでしょうか?
いま、「社会」の規模はいやおう無く拡大しています。
中国に原発が増えれば「放射能物質」は
確実に日本にまで飛来します。
もとより中国国内でも大問題となるでしょう。
中国政府の「方針」で「中国国民」は甚大な被害をこうむるワケですが、
残念ながら中国国民には政府の方針に反旗を翻す
力が与えられていないのが現状なのでしょう。
しかるに日本国民は先の参議院選挙で
自らの意思を政府に突きつける事ができました。
「政治家は、あくまでも国民の代理人なのだ!」・・・と。
このことは、世界中の「国家」という枠に囚われた庶民にも同様に言えることで、
まず国民どうし、庶民どうしの相互理解、協調が無くしては、
この「世界」という「大きな社会」=共同生活単位が
成り立たないように思うわけです。はい。
で、
我々は「国家」などではなく、「我々は、我々なのだ!」
と表題に戻るわけです。
にしても、こんなにいろいろ考えさせてくれる「風の谷のナウシカ(原版)」って・・・
奥が深いわぁ~。
でわっ!