2008年10月30日木曜日

「バカの壁」再読 第三夜

「バカの壁」 第八章 一元論を超えてより

<抜粋>

実の経済

 もう一つ、昔からあるのが実の経済。これは明らかに、例えば、実際に物資が動いたりするのにコストがかかって、そのコストの対価として払われている金がある。ところが、実体経済に一番大きながあるのはどこかというと、金というのは、政府が自在に印刷できる点です。要するに兌換券ではなくなったために、現物との関係が今、切れている。そのため、完全に信用経済になっている。

 『貨幣論』(筑摩書房)のなかで岩井克人氏は、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかにない」と書いています。金には何らかの価値の根拠があるわけではない。その金が何で通用するかというと、私が使った一万円を貰った相手が同じ一万円として使えるという思い込み、でしかない、ということです。次に、その一万円を受け取った人が相変わらず一万円として使えると思っているという、「と思っている構造」の中で通用している。これは実は裏付けがない。だから、別な言い方をすれば、紙幣の発行には限度がない。「と思っている構造」が成立する以上は幾ら刷ってもいい。

 こういう状況で、考えておかなくてはならないのは、日本政府なり、世界中なりが、経済統計のみを問題にしているということです。経済統計というのもは非常に不健康な部分を持っている。なぜなら現在のように紙幣が自由に印刷できるという状況だと、統計そのものが「花見酒経済」になっているからです。

 樽が真ん中にあって、八つぁんと担いでいて、八つぁんが熊さんに十文渡して一杯飲む。次には熊さんが八つぁんに十文渡して飲む。そうすると、樽酒はどんどん減っていく。この八つぁんと熊さんの金のやりとりは、実は経済統計を極めて単純化したものです。経済はちゃんと動いている。にもかかわず、ひたすら目の前の酒が減っている。これを経済的な発展と捉えていいのか。

 仮に兌換券という考え方が正しいとすれば、最終的な兌換券の根拠となるのは何か。それはエネルギーになるのではないか。例えば、一定量の石油に対して一ドルというふうにドルを設定すると、それが恐らくは最も合理的な兌換券なのです。

 石油の絶対量に比例していますから、石油が切れたらアウトだということはわかっている。石油だけじゃなくて、原発一基当たりでも何でもいい

 要するに都市生活、つまり経済というものは、エネルギーがない限り成り立たない。これは大前提です。すると、一エネルギー単位が実は一基本貨幣単位だというのは、実体経済のモデルとして考えられるのではないか。

<抜粋>


ま、ワタシも都市生活者のひとりなワケで・・・

でわっ!