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カスタマーレビュー
ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論
流石だとは思いますが, 2009/7/11
By OH - レビューをすべて見る
どうも理想の天皇像、あるべき天皇像を設定し、それを通し都合よく歴史を解釈し「物語」を創っているように思えてなりません。 国民には「物語」が必要であると彼は別著でいっているので確信犯なのかもしれませんが。
まず「記紀」及び古代天皇に関するものと明治以降の天皇に関する記述が多い。
明治以降の天皇制については問題提起される事がしばしばですが、彼は「記紀」に天皇本来の理想形を見出し、明治以降の天皇が如何にそれに合致しているのかを言い訳がましく述べているようにみえて仕方がない。
それ自体に異論はないが、平安期から江戸期の天皇についての記述が余りに少ないのはバランスを欠いたものであろう。
何か古代からいきなり近代に天皇像が直結してしまうイメージ。その間の国家体制を否定しているかの如きの印象を受ける。
これでは武家政権を否定し「神武創業に還る」と宣言した明治維新政府と同じスタンスではないか?
彼らにとって「天皇の伝統」以外は建国に遡ってまでも否定されなければならない対象だったのである。
また「祭祀王」についての解釈も「神道」の最高権威であるかの記述であるが、それも疑問である。
「神道」(こう言っていいものか微妙であるが)は当然「記紀」以前よりあるものである。
「神道」は本来非常にレンジの広い信仰形態であり民間の神社神道も皇室祭祀もそれぞれ一つの側面とみたほうが妥当ではないだろうか。そこに当然仏教も入ってくる余地があるのだが、庶民が八幡大菩薩のバックに天皇の威光を感じていたかは微妙なとこだろう。
皇室祭祀については相当数ページをさいてその意義を強調している。民の安泰を祈るっておられる事について異論はない。
しかしその本質は日本国の祭祀王たる天皇の「魂・ミタマ」の強壮・増進、再生=タマフリ・ミタマノフユにある(この辺りはフレイザーや折口を読まれたし)。しかも秘儀であり、ローマ教皇が公開ミサをやるのと意味が違うのである。
また、国や民の安泰を祈るといえば記されるべきは仏教の「鎮護国家」思想であるが、それも無い。
奈良以降の仏教・仏法と天皇の抜き差し成らない関係が全く記されていないのは恣意的と言わざる得ない。
仏壇もあれば位牌もあったのである(当然明治政府が縁切りさせた)。
それらの考察もなく古代以来の「祭祀王」といわれてもなんか説得力がない。
また「禁秘抄」の 順徳天皇を登場させてますが、この御方、後鳥羽上皇と一緒に承久の乱で倒幕しようとした当事者ですよ。
皇統意識が特別強いこの御方を例にとられましても、という感じがします。光格天皇にしてもしかりです。
ただ色々屁理屈申しましたが、やはりこの人の力量は相当なもんだと思います。この力技は流石です
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ワタシ、かの本は読んでいないので
本について評論する気はないのですが、
すでに読んだ人のレビューを見て気になったのが
「物語」という視点なのですわ。
人は物語を求める。
これはもう、人間の本能と言っても
差し支えないんじゃないでしょうか?
身近な?例(あまり適当ではないかもしれませんが)でいうと
夫や、恋人にDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けているのに
それでも分れられない女性に対して、周りから見れば
「何で分かれないのか?」
と客観的に見れるワケですが、本人にしてみると
「ワタシがいなくなったらこの人はダメになってしまう。」
「この人にはワタシが必要なのよ!」
という「物語」が頭の中にあり、それに縛られているが故、
自分の現状が理解できない、受け入れられない
ということはないでしょうか?
ま、あくまでも一例なので他にも理由はあるでしょうが、
「この人にはワタシが必要なのよ!」
のウラ返しは、自分の存在理由の確認でもあるワケで、
自己の存在理由を求めるのが、人間という生き物の
性(さが)
であるのは、だれでも自分の思春期を思い起こしてみれば
何となwwwく思い当たるフシがあるんじゃないでしょうか?
つまり、「物語」を与えられることによって人は安心し、
(自己の存在理由を見出し)
その「物語」に沿って行動しようとするのではないでしょうか?
「自分探しの旅」と称して、若者が(最近は中年も?)
アッチコッチをフラフラ旅するのも「物語」を求めるが故。
んでもって、ある程度年がいくと、
探さなくても自分は常に此処に在る。
ということに思い至るワケですが・・・
もっとも大人?になったら大人になったで、
また別な「物語」を見出して、毎日を送るワケですね。
そのひとつが今回取り上げた「天皇論」の様な書籍であったり、
所謂「左翼」や「右翼」といった思想であったり、
さらに拡げるならば「宗教」であったり・・・
人間の基本的な行動って、動物と何ら変わりないワケで、
寝て、起きて、食って、出して、子孫を残して
通常、一生の間にこれを延々と繰り返すだけでしょ?
ところが大脳新皮質が発達したおかげ?で、
自己の存在理由
なんて厄介なものを求めるようになってしまい
需要に応じて「物語」の作り手も現れたワケだ。
・・・かといってね?ワタシは「物語」を全否定はしません。
ただね、間違った「物語」には注意が必要だと思うワケです。
生活の指標としての「物語」
は、健全な社会生活を築く上で必要でしょうが、
「物語」のための日常生活
になると、チョット違うんじゃないかな?
と思う次第です。はい。
・・・というのも、アレだ、ネット上では様々な人の意見が
交錯しているわけですが、中には
自分の「物語」に酔ってんの?
と、思えるような書き込みもまぁ、時には見られ、
(ワタシもその一人かもしれませんが・・・)
「物語」と「自分」との境界線の線引きというのは、
一流?の哲学者でもムズカシイんじゃなかろうか?と。
いわんや、ワタシのようなフツwwwの人間であれば、
「物語」を求め、「物語」に絡めとられる。
のは無理もないことなのかな?と。
(ジッサイね?郵政解散選挙の時には・・・)
ま、「選挙」というのは、「物語」の売り込み合戦かな?
なんて、おぼろげに思う今日この頃・・・
だからこそ、ワタシたちは間違った「物語」から
目覚めなければいけないんじゃなかろうか?と。
(なんか、MATRIXの世界みたい。)
でわっ!