2010年5月14日金曜日

むかし 「ジャン・クリストフ」 を読んだ

青空文庫


ジャン・クリストフ
JEAN CHRISTOPHE

第三巻 青年

ロマン・ローラン Romain Rolland

豊島与志雄訳




<巻末抜粋>

 彼はいつも、酒の匂いをさせ、笑い興じ、ぐったりして、家にもどってきた。

 憐(あわ)れにもルイザは、彼の様子をながめ、溜息(ためいき)をつき、なんとも言わず、そして祈りをした。

 ところがある晩、彼は酒場から出て、町はずれの街道で、数歩前のところに、例の梱(こり)を背負ってるゴットフリート叔父(おじ)のおかしな影を見つけた。数か月来、この小男は土地へ帰って来たことがなかった。いつもその不在が次第に長くなっていた。でクリストフはたいへん喜んで彼を呼びかけた。重荷の下に前かがみになってるゴットフリートは、ふり返った。そして大袈裟(げさ)な身振りをやってるクリストフの姿を見、ある標石の上にすわって、待ち受けた。クリストフは元気な顔つきをし、飛びはねながら近寄っていった。そしてたいへんなつかしい様子を示して叔父の手をうち振った。ゴットフリートは長い間彼を見つめて、それから言った。

「今晩は、メルキオルさん。」

 クリストフは叔父が間違えたのだと思った。そして笑いだした。

「かわいそうに耄碌(もうろく)したんだな、」と彼は考えた、「記憶(おぼえ)がないんだな。」

 ゴットフリートは実際、老いぼれ萎(しな)び縮みいじけた様子をしていた。かすかな短い小さな息をしていた。クリストフはやたらにしゃべりつづけた。ゴットフリートは梱(こり)をまた肩にかつぎ、黙って歩きだした。身振りをし大声にしゃべりたててるクリストフと、咳(せき)をしながら黙ってるゴットフリートとは、相並んで帰りかけた。そしてクリストフに呼びかけられると、ゴットフリートは彼をやはりメルキオルと呼んだ。こんどはクリストフは尋ねてみた。

「ああ、どうして僕をメルキオルというんです? 僕はクリストフというんですよ。よく知ってるじゃないですか。僕の名を忘れたんですか?」

 ゴットフリートは、立止りもせず、彼の方に眼をあげ、彼をながめ、頭を振り、そして冷やかに言った。

「いやメルキオルさんだ。よく見覚えがある。」

 クリストフは駭然(がいぜん)として立止った。ゴットフリートはとぼとぼ歩きつづけていた。クリストフは答え返しもせずに、そのあとについていった。彼は酔いもさめてしまった。ある奏楽コーヒー店の戸のそばを通りかかると、入口のガス燈と寂しい舗石との映ってるその曇った板ガラスのところへやって行った。彼はメルキオルの面影を認めた。心転倒して家に帰った。

 彼はみずから尋ね、みずから魂を探りながら、その夜を過した。彼は今や了解した。そうだ、自分のうちに芽を出してる本能や悪徳を認めた。彼はそれが恐ろしかった。メルキオルの死体の傍(かたわ)らで通夜(つや)をしたこと、種々誓いをたてたこと、などを考えた。そしてその後の自分の生活を調べてみた。ことごとく誓いにそむいていた。一年この方、何をしてきたのであったか? 自分の神のために、自分の芸術のために、自分の魂のために、何をしてきたのであったか? 自分の永遠のために、何をしてきたのであったか? 失われ濫費され汚(けが)されない日は、一日もなかった。一つの作品もなく、一つの思想もなく、一つの持続した努力もなかった。たがいに破壊し合う欲念の混乱。風、埃(ほこり)、虚無……。望んでもなんの甲斐(かい)があったろう? 望んだことは何一つなしていなかった。望んだことの反対をばかりなしていた。なりたくなかったものになってしまった、というのが彼の生活の総勘定であった。

 彼は少しも寝なかった。朝の六時ごろ(まだ暗かった)、ゴットフリートが出発の支度(したく)をする音が聞こえた。――ゴットフリートはそれ以上足を留めようと思っていなかった。町を通るついでに、いつものとおり、妹と甥(おい)とを抱擁しにやって来たのであった。でも翌朝はまた出かけると、前もって言っておいた。

 クリストフは降りて行った。苦悶の一夜のために蒼(あお)ざめて落ちくぼんだ彼の顔を、ゴットフリートは見た。彼はクリストフにやさしく微笑(ほほえ)んでやり、ちょっといっしょに来ないかと尋ねた。未明に二人はいっしょに出かけた。何も語る必要はなかった。たがいに了解していた。墓地のそばを通ると、ゴットフリートは言った。

「はいろうよ、ね。」

 彼はこの地へ来るとかならず、ジャン・ミシェルとメルキオルとを訪れていた。クリストフはもう一年も墓参をしたことがなかった。ゴットフリートはメルキオルの墓の前にひざまずいた、そして言った。

「このお二人がよく眠るように、そして私たちを悩ますことのないように、お祈りをしよう。」

 彼の考えはいつも、不思議な迷信と明るい分別とが交り合っていた。クリストフは時としてそれに驚かされることがあった。しかしこんどは、その考えをよく了解した。二人は墓地を出るまで、それ以上何にも言わなかった。

 きしる鉄門をまたしめてから、二人は壁に沿って、雪の滴(したた)りが落ちてる墓地の糸杉(いとすぎ)の下の小道をたどり、眼覚めかけてる寒そうな畑中を歩いて行った。クリストフは泣きだした。

「ああ、叔父(おじ)さん、」と彼は言った、「僕は苦しい!」

 彼の恋の経験については、ゴットフリートを困らすだろうという妙な懸念から、あえて語り得なかった。そして、自分の恥ずかしいこと、凡庸なこと、卑劣なこと、誓いを破ったこと、などを話した。

「叔父さん、どうしたらいいでしょう? 僕は望んだ、たたかった。そして一年たっても、やはり前と同じ所にいる。いや同じ所にもいない! 退歩してしまった。僕はなんの役にもたたない、なんの役にもたたないんです。生活を駄目(だめ)にしてしまったんです、誓いにそむいたんです!……」

 二人は町を見晴す丘に上りかけていた。ゴットフリートはやさしく言った。

「そんなことはこんどきりじゃないよ。人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝腎(かんじん)なことは、ねえ、望んだり生きたりするのに飽きないことだ。その他のことは私たちの知ったことじゃない。」

 クリストフは絶望的にくり返した。

「僕は誓いに背いたんです!」

「聞こえるかい?……」とゴットフリートは言った。

 (田舎(いなか)で鶏が鳴いていた。)

「あの鶏(とり)も皆、誓いに背いただれかのためにも歌ってるんだ。私たちのめいめいのために、毎朝歌ってくれる。」

「もう僕のために、」とクリストフは切なげに言った、「鶏も歌ってくれない日が来るでしょう……明日のない日が。そして僕の生活はどうなってることでしょう?」

「いつだって明日はあるよ。」とゴットフリートは言った。

「でも、望んだってなんの役にもたたないんなら、どうしたらいいでしょう?」

「用心をするがいい、そして祈るがいい。」

「僕はもう信じていないんです。」

 ゴットフリートは微笑(ほほえ)んだ。

「信じていないとしたら、生きていられないはずだ。だれでも信じてるものだ。祈るがいいよ。」

「何を祈るんです?」

 真赤(まっか)な冷たい地平線に出かかってる太陽を、ゴットフリートは彼にさし示した。

「日の出にたいして、信心深くなければいけない。一年後のことを、十年後のことを、考えてはいけない。今日(こんにち)のことを考えるんだよ。理屈を捨ててしまうがいい。理屈はみんな、いいかね、たとい道徳の理屈でも、よくないものだ、馬鹿げたものだ、害になるものだ。生活に無理をしてはいけない。今日(こんにち)に生きるのだ。その日その日にたいして信心深くしてるのだ。その日その日を愛し、尊敬し、ことにそれを凋ませず、花を咲かすのを邪魔しないことだ。今日(きょう)のようにどんよりした陰気な一日でも、それを愛するのだ。気をもんではいけない。ごらんよ、今は冬だ。何もかも眠っている。がよい土地は、また眼を覚ますだろう。よい土地でありさえすればいい、よい土地のように辛抱強くありさえすればいい。信心深くしてるんだよ。待つんだよ。お前が善良なら、万事がうまくいくだろう。もしお前が善良でないなら、弱いなら、成功していないなら、それでも、やはりそのままで満足していなければいけない。もちろんそれ以上できないからだ。それに、なぜそれ以上を望むんだい? なぜできもしないことをあくせくするんだい? できることをしなければいけない……我が為し得る程度を。

「それじゃあまりつまらない。」とクリストフは顔をしかめながら言った。

 ゴットフリートは親しげに笑った。

「それでもだれよりも以上のことをなすわけだ。お前は傲慢(ごうまん)だ。英雄になりたがってる。それだから馬鹿なまねしかやれないんだ……。英雄!……私はそれがどんなものだかよく知らない。しかしだね、私が想像すると、英雄というのは、自分にできることをする人だ。ところが他の者はそういうふうにはやらない。」

「ああ!」とクリストフは溜息をついた、「そんなら生きてても何になるでしょう? 生きてても無駄です。『欲するは能うことなり!』……と言ってる人たちもあります。」

 ゴットフリートはまた静かに笑った。

「そうかい?……だがそれは大きな嘘つきだよ。でなけりゃ、たいした望みをもってない人たちだ……。」

 二人は丘の頂きに着いていた。やさしく抱擁し合った。小さな行商人は、疲れた足取りで去っていった。クリストフはその遠ざかってゆく姿をながめながら、じっと考えに沈んだ。彼は叔父(おじ)の言葉をみずからくり返した。

「我が為し得る程度を。」

 そして彼は微笑(ほほえ)みながら考えた。

「そうだ……それでもやはり……十分だ。」

 彼は町の方へ帰りかけた。堅くなった雪が、靴の下で音をたてた。冬の鋭い朔風(さくふう)が、丘の上に、いじけた樹木の裸枝を震わしていた。その風は、彼の頬を赤くなし、彼の皮膚を刺し、彼の血を鞭(むち)うった。下の方には、人家の赤い屋根が、まぶしい寒い日の光に笑っていた。空気は強く酷(きび)しかった。凍った大地は、辛辣(しんらつ)な歓喜を感じてるがようだった。クリストフの心も大地と同じだった。彼は考えていた。

「俺も眼を覚ますだろう。」

 彼の眼にはまだ涙があった。彼は手の甲でそれをぬぐった。そして霧の帷(とばり)の中にはいってゆく太陽を、微笑みながらながめた。雪を含んだ重い雲が、強風に吹きたてられて、町の上を通っていた。彼はその雲に向って軽侮の身振りをした。氷のような風が吹いていた……。

「吹け、吹け!……俺をどうにでもしろ! 俺を吹き送れ!……俺は行先をよく知ってるのだ。」

</巻末抜粋>


でわっ!