2010年6月7日月曜日

自殺と神の存在のハナシ

 いやwww早いものでもう6月。今年も半分が終わろうとしています。日本では衣替えの季節。ベトナムの学校では2ヶ月間の長い夏休みに入ります。

 さて、トットと本題に入ります。キリスト教に限らず大抵の宗教では自殺を大罪としています。曰く・・・「自殺した死者の魂は成仏できない」と。そしてこうも言います。

神は乗り越えられない試練は与えない。

 じゃあ、自殺してしまった人たちはどうなってしまうんでしょう?アレですか?神様が与える試練の目分量を間違えて与えてしまったんですかね?

 宗教を信じる人は上の文言に従い自殺を思い止まるのかも知れませんが、無神論者は自殺を選択するのだとしたら、神とは、信じる人には存在し、信じない人には存在しないという事になんでしょうか?つまり人によって差別をするのだとしたら、神とは、何と人間臭い存在ではありませんか。

 それでも万人を愛する神は存在すると言うのであれば、ワタシの推論として、

神は人間には無関心だ。

と云う結論が導き出されるのですが・・・。であれば、神が存在するにも関らず自殺者が絶えない事が、ワタシの中で納得できます。

 この推論・・・「神は人間には無関心だ」という観点から、ワタシと云う人間の存在意義、在り様を考えてみるに、先ず生物学的に、遺伝子、DNAの器であるという厳然とした事実があります。

 考えてみればコレはすごい事なのですよ。ワタシが今生きているということは、

人類の歴史を背負っている

のと同じ事・・・と云うかそのものです。そして全ての人にも同じことが言えます。

 いまこの地球上に生きている全ての人は、アフリカの一人の女性が母親であると云う
「ミトコンドリア・イブ」説などもありますが、学術的な是非は別にして、生命の連鎖=DNAの連鎖を絶やさなかったからこそ、今ワタシがここに生きている事は事実です。

 逆に、過去に於いて様々な要因から「淘汰」されてしまった個体は、そこでDNAのバトンタッチが叶わなかったワケで、もしワタシの祖先がそうであったならば、当然の如くワタシは今ここに存在してません。

 で、自殺について生物学的な見方をすれば、

淘汰された

という見方も出来ると思うワケです。様々な事情が有るにせよ、過去ウン十万、ウン百万年をかけて受け継いできたDNAの流れが、そこで終わってしまうワケです。まぁ・・・ちょっと・・・勿体無い気はします。他人事ながら。

 ご先祖様を敬うなんて古臭いしきたりの様に思うかも知れませんが、少なくとも現在の生活に満足し、この世の春をおうがしている御仁はご先祖様に感謝すべきでしょうな。

 で、より強いDNAを残すことが神の意思だとしたら・・・淘汰されることが人間を含む全ての生命の宿命だとしたら・・・神が人間に対して無関心なのも頷けるワケです。だってねぇ?過保護の子供みたいに人間を扱うようでは強いDNAを残すと云う目的に反します。

 で、あればですよ?自殺を考えるほどストレスを溜め込みつつ、それでもなお自殺を思い止まり生き抜く決意をした人間のDNAには、相当な生命力が宿っているとも言えるのではないでしょうか?もし今現在自殺を考えている人は、このまま淘汰されるか?それともより強いDNAを残すか?の選択が委ねられていると、一考してみてはいかがでしょうか。

 ワタシ、実はNHKの朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」を見まして。まあ、相当なビンボー生活を体験されているワケです。水木先生の奥さんは。そんな暮らしの中で生きる気力を失わないなんてスゲwww!・・・と思ったのですが、その「生命力」の根源て何なんだろうと考えた末に思い当たったのが、DNAの生命力が違うんだろうなという結論だったワケです。

 文化だの、流行だのもてはやしたところで、最終的に淘汰に勝ち残らなければならないのが生きていくことの意味だとしたら・・・

ヤラレてたまるかっ!

・・・と、再認識した次第です。はい。


でわっ!