2011年3月4日金曜日

マイノリティーの矜持

 唐突ですが、先日TVを見ていたらオカマのタレントの「マツコDX」さんが、番組の収録中に某タレントの発言に、いたく激怒していたのに遭遇したのですが、何か・・・一緒に出演していたもう一人のオカマのタレント、「ミッツ何とか」さんと並べて茶化された事がよっぽど「カチン!」と来たみたいですぅmmm。

 で、気持ち悪くなるくらい「マツコDX」さんにカメラが寄って、その真剣な怒りっぷりにTVを見ているコッチの方が圧倒されたのですが、スタジオ内の他の出演者は皆ヘラヘラ笑って、目の前の事態をお笑いで済まそうとするかの様な雰囲気に、ああ・・・

学校でのイジメって、こんな感じなんだろうなあ・・・。

 なんて思った次第です。・・・はい。

 で、今回はイジメ問題についてではなくて、「マイノリティーの矜持」についてです。はい。

 人が集まると、必ず集団(グループ)が自然発生します。自分と気の合う他人と一緒に居ることで、自分の居場所を、存在を守ろうとする「自己防衛本能」の働きによるものです。大きい集団も出来れば、小さい集団も出来ます。人それぞれ個性がありますから、それぞれの個性が集団の大きさを決定するのでしょう。

 例えばクレープが好きだとか、どのタレントが好きだとか、どの国に旅行に行きたいだとか、お互いの接点を確認しながら集団は形成されるワケで、したがって特殊な個性、特徴を持つ人の集団は小さくなります。所謂「マイノリティー」と呼ばれる集団です。

 数の論理(民主主義の論理?)からすれば、全体の中での「マイノリティー」の立場、力関係は低くなりますが、あくまでも「数の力」の問題であって、「マイノリティー」に所属する人の尊厳、人格とは直接の関係はありません。

 そういった「マイノリティー」であるこを恥じて、「マジョリティー」に加わることを望むのであれば、それは「数の力」の前に、己の尊厳が屈した、若しくは放棄したいう事です。

 少し横道に逸れますが、ワタシが小学生(4、5年生)のとき、三島由紀夫の親戚という先生が話してくれた「片目のカラス」という童話?をフト、思い出しました。

 ・・・「一羽のはぐれカラスが、カラスの群れに遭遇しました。はぐれカラスは淋しかったので、スグにその群れに合流したのですが、よく見渡してみると群れの全てのカラスが、片目しか開いていません。奇妙な群れだと思いつつも、仲間が居る心地よさから、はぐれカラスはずっと行動を共にしていました。そのうちにはぐれカラスは、両目が開いている自分の方が不自然に思えるようになり、ついには自分で自分の片目を潰してしまいました。」・・・

 そんな話だったと記憶していますが、他にも怪談話が得意で、林間学校の夜などは怪談を聞きたがる生徒に引っ張りだこでしたわ。余談ですが・・・。

 自分で自分の目を潰すなんて、何て馬鹿なカラスだろうと子供ながらに思いましたが、年を経て大人になるにつれ、この話の深さを痛感する次第です。はぐれカラスには群れを離れるという選択肢もあったのに、「孤独」を恐れるあまり自分を変えて、群れに合わせる道を選んだワケです。

 目を潰さないままで群れに残ることも出来たのでしょうが、それには揺ぎ無い「マイノリティーの矜持」を持っていないと、精神的に参ってしまうでしょう。自分は群れの中では異質であり、群れの中で目立つような振る舞いをすれば、たちまち排除される・・・。そのことを理解した上で、生き残るために群れと行動を共にすることを選択する。「マイノリティー」であることの自覚たうえで、「マジョリティー」と行動を共にする。

 さて、現実問題?としてオカマ、ゲイは「マイノリティー」であるワケです。過去(現在も?)、世間=マジョリティーの冷たい視線を浴び、どちらかと言えば日陰の存在であったのでしょうが、肩身の狭い状況下にあっても「マイノリティーの矜持」を失くさなかったからこそ、独自の視点や美的感覚を持ち得たのだろうと察せられます。然るに、公共の電波=マジョリティーのフィールドで、我が物顔で怒っているオカマの姿を目にして、

ナンダカなぁmmm

・・・と、感じた次第です。

 「マイノリティーの矜持」があれば、マジョリティー側が何と言おうと、斜に構えて「柳に風」と受け流してやればイイんです。自分はマジョリティー側だと思っているから、同じマジョリティー側の言葉に、ガチに反応するんじゃないんでしょうかね?してみると「マツコDX」さんは、見かけはオカマという「マイノリティー」を装ってはいますが、その心は「マジョリティー(体制側)」なのかも知れませんなあ・・・。

 以上。「マイノリティーの矜持」について、マイノリティーであるワタシのつたない見解でした。


でわっ!