2013年1月14日月曜日

罪と罰

        
 と、いっても、別にドストエフスキーとは関係ありません。もっと身近な話で、「体罰」について思うところを、少しばかり述べます。




罪と罰〈上〉 (新潮文庫) [文庫]
ドストエフスキー (著), 工藤 精一郎 (翻訳)


 教育現場の先生方にとっては、「体罰」というのは如何ともしがたいお悩みのひとつかと思われます。「親にも手を上げられたことが無い」・・・という児童も増えつつある?ような現代において、教師からの「体罰」が生徒にとって相当なショックを与える可能性も否めません。

 ワタシの場合デキの悪い子供だったので、親にもガンガン殴られましたし、したがって学校で先生に「体罰」を受けても、それを当然と受け止めていました。時代が違うということなのでしょうが、時代が変わってイッタイ何が変わったというんですかね?

 「人間の本質」が以前より進歩したとでも言うんですかね?だから体罰は必要無いと?ワタシにはそうは思えません。人間の本質が進歩したのであれば、世界は以前よりずっと良くなっていなければなりません。住み易くなっているハズです。でも、現実はそうなっていませんよね?

 確かに時代は変わりましたが、では、何が変わったのか?そして何故?「体罰」が否定されるようになったのか?

 当たり前のことですが、「体罰」とは「罰」です。したがって、「罰」を受けるに値する「罪」を犯したことが前提となります。と、いうことは、そこには暗黙の「法体系」が存在し、「罰」を執行する側には「権威」・・・すなわち、社会の合意に基づいた「執行権」を備えていなければなりません。

 この「執行権」の無いままに「罰」を執行すれば、それはすなわち「リンチ」でしかなく、教師が教育現場にて私的感情・理由から生徒に「体罰」を加えれば、やはりこの「リンチ」に相当しますし、到底認められるものではありません。

 では、児童に「罰」を与える・・・つまりその根拠となる「罪」の基準とは何なのか?残念ながら法律では規定されていませんので、武田センセのブログから引用するならば、教育基本法(旧条文)の条文・・・

「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

・・・が、教育現場における「憲法」であり、この「法」に沿う形での「罰」は止むを得ず・・・ですかね?

 さて、ゴリッパな文言が謳われていているワケですが、「人格の形成」、「真理と正義」、「個人の価値」、「勤労と責任」、「自主精神」・・・ですか。

 こうした素晴らしい教育を受けてきた結果が、現在の「大人」なワケですよね?え?そんじゃwww検証してみますか?

 「人格の完成」・・・これはひとりひとり個性がありますから、何を以って「人格の完成」とするのか意味不明ですし、逆にそれが決められていたら、「画一的な人間」を作り出すための恐ろしい教育と言えます。

 「真理と正義」・・・現在の社会状況を見ても、とても「真理と正義」が行き渡っているとは思えません。

 「個人の価値」・・・東日本大震災の被災地住民、また、原発事故による避難民に対する「国」の対応は、「個人の価値」を見事に否定しています。

 「勤労と責任」・・・これも、東京電力や政府の自己責任逃れを連日目の当たりにしてしまえば、言わずもがなです。

 「自主精神」・・・先の「人格の形成」がここに含まれるようにも思えますが、ま、現在の沖縄の状況や、日米安保に対する政府の対応からすれば、「自主精神」が完成されているとはとても思えません。

 と、いうことはですよ?このようなゴリッパな教育を受けてきたエリート達?の成れの果てが現在の日本だとしたら、この教育基本法は、日本をダメにした法律とも言えるワケですよ。

 つまり、「罰」を与える側の「根拠」=「権威」の喪失こそが、「体罰」に関する問題の根本に存在する・・・というのがワタシの見解です。

 「体罰」の是非を議論する以前に、大人たち自らが「襟を正して」、児童に規範として示せる社会を築かなければならないんじゃないの?・・・と。

 教育基本法の条文を大人が誠実に守ってこそ、児童に対して「罰」を与える「権威」も認められるワケですが、なにしろ大人からして「子供に手を上げたことも無い」=自己の価値判断に自信が持てない=自主精神が無い親が増えているのだとしたら、教育現場での「体罰」は尚のこと、その正当性を失っていくワケです。

 ワタシは「体罰」を否定しません。ただし、それにはその「正当性」が社会的に認知されなければなりません。特に児童・・・子供たちに。

 それには大人が見本を示す・・・つまり、教育基本法に書いてあることを忠実に実行することが大前提にあるワケですよ。教育基本法は、そうした社会を構築するための法律なワケでしょ?それとも、教育基本法も改正しちゃいます?

 結論として、「体罰」は教育現場だけの問題ではなく、社会全体の問題であるというのがワタシの見解です。

 子供は大人の偽善、欺瞞を敏感に感じ取ります。ましてや3.11以降、学者、知識人といった本来「真理と正義」の代弁者であるはずの大人たちの、露骨な「嘘」がTVなどで全国に拡散されてしまった以上、もう、子供たちに対して誤魔化しは通用しないと覚悟した方がイイかも知れません。

 残るのは、「教育者」という「権威」を脱ぎ捨てた、ひとりの「人間」対「人間」の真摯なコミュニケーションなのでしょう。ましてや・・・


不正選挙など言語道断!


 教育上よろしくないというワケです。





子供ナメんなよ!


でわっ!