前回、蘇我氏はローマ人で云々・・・。という、お話をしましたが、ま、TV番組の内容をまんま受け売りするのもアレなんで、少しは自分でも検証しようかと。
いずれにせよ、新羅の時代にあれだけの石窟(751年着工 - 774年完成)が建造されたことに素直に驚くとともに、異質な文明の手によるものと直感した次第です。韓国の人には申し訳ありませんが、現在の韓国人の直接の祖先があの「石窟」を建造したとはとれも思えないワケですよ。何と言うか・・・「美的感覚」が根底から違うような気がして・・・。
一目見て思った・・・というか、連想したのは、アフガニスタンの「バーミヤン」の石窟群ですかね?一部がタリバンに破壊されてしまい非常に残ですが、カイザル政権下で、国際協力により修復も進んでいるとか?
で、件の動画(TV番組)の中で、新羅人は言葉が通じないとナレーションが入ったトコロで画面に映し出されたのは、「無文字」の3文字であり、(文字が無いのと言葉が通じないのは別問題だろ?)・・・と、文献をアレコレ検索してみましたw。
梁 (502年 - 557年) 「梁書」=「南史」 新羅伝 新羅者、其先本辰韓種也。 辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。 其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。 相呼皆為徒、不與馬韓同。 新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。 辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。 その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。 皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。 又辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王、明其流移之人故也、恒為馬韓所制。 辰韓始有六國、稍分為十二、新羅則其一也。其國在百濟東南五千餘里。 其地東濱大海、南北與句驪、百濟接。 魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。 其國小、不能自通使聘。 普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。 また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。 辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に五千余里。 東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。 三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。 小国なので、自ら通使を派遣すせることができなかった。 普通二年(521年)、王姓を秦の名から募り、初めての使者は百済の遣使に随伴して方物を献じた。 其俗呼城曰健牟羅、其邑在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中國之言郡縣也。 國有六啄評、五十二邑勒。 土地肥美、宜植五穀。 多桑麻、作縑布。 服牛乘馬。 男女有別。 其官名、有子賁旱支、齊旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。 其冠曰遺子禮、襦曰尉解、○曰柯半、靴曰洗。 其拜及行與高驪相類。 無文字、刻木為信。 語言待百濟而後通焉。 そこの習俗では、城を健牟羅、村落を有する城を啄評、村落を持たない城を邑勒と呼ぶ。中国で言うところの郡県である。 国内には六啄評、五十二邑勒がある。 土地は肥沃で五穀の栽培に適している。 多くの桑や麻が採れ、短い衣服を作る。 牛を飼育し馬に乗る。 男女の別がある。 官名には、子賁旱支、斉旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支がある。 そこの冠は遺子礼と言い、襦は尉解と言う。 儀礼や行為は高麗に類している。 文字なし、木に刻みを入れて通信に使う。 言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり。 |
「梁書」によれば確かに中国語を解せず、しかも文字も持たないとなると文明が遅れている人たちのように思えますが、件の「石窟」を見ても、文明が遅れているどころか、高度な技術を持っていたことが伺えます。
通訳を介さないと意思の疎通が図れないのは、やはり「異民族」、もしくは「異人種」と考えられますが、そうなると中国人には「文字」として認識できなかった「木に入れた刻み」すら、実は漢字とは全く違う文字であることも考えられます。
で、そうした「刻み」のような文字を使う「高度文明」として、スグに頭に浮かぶのが古代バビロニア文明における「楔形文字」でり、また、「ラテン文字」ですら単なる「刻み」に見えたのかも知れません。特に数字となると。
いずれにせよ新羅人は、周辺国とは異なる文明を持った人たちであったようで、そのような人たちがイキナリ朝鮮半島に出現するワケもなく、件の「石窟」の建造技術にしてもそうですが、俄然、新羅という国に興味が沸き、その他の文献もついでに確かめてみたワケです。
新羅 (503年 - 935年)
576年頃の半島図
南北朝時代 (439年 - 589年) 「北史」 新羅伝 新羅者、其先本辰韓種也。 地在高麗東南、居漢時樂浪地。 辰韓亦曰秦韓。 相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。 新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。 領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。 辰韓または秦韓ともいう。 相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。 其言語名物、有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼皆為徒、不與馬韓同。 又辰韓王常用馬韓人作之、世世相傳、辰韓不得自立王、明其流移之人故也。 恒為馬韓所制。 その言語や名称は中国人に似ており、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴といい、皆を徒と呼び合うが、馬韓と同じではない。 また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民の故である。 恒久的に馬韓が領土を制している。 辰韓之始、有六國、稍分為十二、新羅則其一也。 或稱魏將毋丘儉討高麗破之、奔沃沮、其後復歸故國、有留者、遂為新羅、亦曰斯盧。 辰韓の初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。 あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に奔走、その後、故国に復帰したが、居留する者があり、遂に新羅を立てた、斯盧ともいう。 其人雜有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓、濊之地。 其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。 初附庸于百濟、百濟征高麗、不堪戎役、後相率歸之、遂致強盛。 因襲百濟、附庸於迦羅國焉。 傳世三十、至真平。 以隋開皇十四年、遣使貢方物。 文帝拜真平上開府、樂浪郡公、新羅王。 その族人は華夏(漢族)、高麗、百済に属す人々と雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。 その王は元の百済人、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。 初めは百済に従属し、百済が高麗に征圧されると、苦役に堪えられず、後に連れ立ってここに帰属、遂には強盛となった。 百済を因襲し、迦羅国を臣従させる。 伝世三十代の真平(王名=金姓)に到る。 隋の開皇十四年(594年)には遣使を以て方物を貢献する。 文帝は真平を開府に上京させて、楽浪郡公、新羅王の爵位を拝受させた。 其官有十七等:一曰伊罰干、貴如相國、次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏干、次大奈摩干、次奈摩、次大舍、次小舍、次吉士、次大烏、次小烏、次造位。 その官には十七等級がある。初めが伊罰干、(中華王朝の)相国の如く高貴とされる、次に伊尺干、迎干、破彌干、大阿尺干、阿尺干、乙吉干、沙咄干、及伏干、大奈摩干、奈摩、大舍、小舍、吉士、大烏、小烏、造位と続く。 外有郡縣。 其文字、甲兵、同於中國。 選人壯健者悉入軍、烽、戍、邏倶有屯營部伍。 風俗、刑政、衣服略與高麗、百濟同。 毎月旦相賀、王設宴會、班賚群官。其日、拜日月神主。 八月十五日設樂、令官人射、賞以馬、布。 其有大事、則聚官詳議定之。 外に郡県がある。 文字や甲兵は中国と同じである。 壮健な者を選んで悉く軍に入れるが、烽、戍、邏倶など五部の屯営がある。 風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。 正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は日月神を祭祀して拝む。 八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。 大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める。 服色尚畫素。 婦人辮髮繞頸、以雜綵及珠為飾。 婚嫁禮唯酒食而已、輕重隨貧富。 新婦之夕、女先拜舅姑、次即拜大兄、夫。 死有棺歛、葬送起墳陵。 王及父母妻子喪、居服一年。 田甚良沃、水陸兼種。 其五穀、果菜、鳥獸、物産、略與華同。 服飾は質素ではない。 婦人は髪をまとめて頚(頭の誤記?)に巻き、色々な色彩の宝玉を飾りとする。 婚礼は酒食をもてなせば成立し、貧富の差に応じて軽重がある。 新婚の夜、女は先に舅姑に拝礼し、次に長男と夫に拝する。 死ねば棺に納め、葬送は墳陵で始める。 王や父母妻子の喪は一年の服喪とする。 農地はとても肥沃で、水稲と陸稲の種を兼用する。 五穀、果菜、鳥獣、物産、すべて中華と同じである。 大業以來、歳遣朝貢。 新羅地多山險、雖與百濟構隙、百濟亦不能圖之也。 大業以来、毎年遣使が朝貢した。 新羅の地は険しい山が多く、百済に隙をみせても、百済もこれを包囲することは不可能である。 |
隋 (581年 - 618年) 「隋書」 新羅伝 新羅國、在高麗東南、居漢時樂浪之地、或稱斯羅。 魏將母丘儉討高麗、破之、奔沃沮。 其後復歸故國、留者遂為新羅焉。 故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓、獩之地。 新羅国は高句麗の東南に在り、漢代の楽浪の地に居住、あるいは斯羅とも称す。 魏の将軍の毋丘儉が高句麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に敗走。 その後、故国に復帰したが、留まる者があり、遂に新羅を立てた。 それ故に、そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。 其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。 傳祚至金真平、開皇十四年、遣使貢方物。 高祖拜真平為上開府、樂浪郡公、新羅王。 其先附庸於百濟、後因百濟征高麗、高麗人不堪戎役、相率歸之、遂致強盛、因襲百濟附庸於迦羅國。 その王は本の百済人で、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。 温祚(おんそ)から伝世、金真平(王名=金姓)に至り、開皇十四年(594年)に遣使を以て方物を貢献した。 高祖は真平を拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜る。 その先祖は百済に従属し、後に百済が高句麗を征したが、高句麗人は戎役に堪えられず、相次いで帰国し、遂に強勢となり、百済を襲い迦羅国を従属国とする。 其官有十七等:其一曰伊罰干、貴如相國;次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏干、次大奈摩干、次奈摩、次大舍、次小舍、次吉土、次大烏、次小烏、次造位。 官には十七等級がある。その一(初め=首=長官)は伊罰干、相国の如く高貴とされる。次は伊尺干、次は迎干、次は破彌干、次は大阿尺干、次は阿尺干、次は乙吉干、次は沙咄干、次は及伏干、次は大奈摩干、次は奈摩、次は大舍、次は小舍、次は吉土大烏、次は小烏、次は造位。 外有郡縣。 其文字、甲兵同於中國。 選人壯健者悉入軍、烽、戍、邏倶有屯管部伍。 風俗、刑政、衣服、略與高麗、百濟同。 毎正月旦相賀、王設宴會、班賚群官、其日拜日月神。 至八月十五日、設樂、令官人射、賞以馬布。 其有大事、則聚群官詳議而定之。 外に郡県がある。 そこの文字、具足、兵器は中国と同じである。 人選して壮健な者は悉く軍に入れる。烽、戍、邏倶など五部の屯管(屯営の誤記?)がある。 風俗、刑罰、政治、祭祀、衣服いずれも高句麗や百済と同じである。 正月元旦には皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や多くの官を招き、その日は太陽と月の神を祭祀して拝む。 八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。 大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める。 服色尚素。 婦人辮髮繞頭、以雜綵及珠為飾。 婚嫁之禮、唯酒食而已、輕重隨貧富。 新婚之夕、女先拜舅姑、次即拜夫。 死有棺斂、葬起墳陵。 王及父母妻子喪、持服一年。 田甚良沃、水陸兼種。 其五穀、果菜、鳥獸物産、略與華同。 服飾は質素ではない。 婦人は髪をまとめて頭に巻き、様々な色彩の宝玉を飾りとする。 婚礼は酒食をもてなせば成立し、貧富の差に応じて軽重がある。 新婚の夜、妻は先に舅姑に拝礼し、次に夫に拝礼する。 死ねば棺に納め、葬送は墳陵で始める。 王や父母妻子の喪は一年の服喪とする。 農地はとても肥沃で、水稲と陸稲の種を兼用する。 五穀、果菜、鳥獣、物産、ほぼ中華と同じである。 大業以來、歳遣朝貢。 新羅地多山險、雖與百濟構隙、百濟亦不能圖之。 隋の大業年間(605-618年)以来、毎年遣使が朝貢した。 新羅の地は険山が多く、百済に隙をみせても、百済もこれを包囲することはできない。 |
唐 (618年 - 907年) 「旧唐書」 新羅伝 新羅國、本弁韓之苗裔也。 其國在漢時樂浪之地、東及南方倶限大海、西接百濟、北鄰高麗。 東西千里、南北二千里。 有城邑村落。 王之所居曰金城、周七八里。 衛兵三千人、設獅子隊。 文武官凡有十七等。 其王金真平、隋文帝時授上開府、樂浪郡公、新羅王。 新羅国、昔の弁韓の苗裔である。 その国は漢代には楽浪の地に在り、東と南方は大海を限界とし、西は百済と接し、北隣は高句麗である。 東西に千里、南北に二千里。 城邑や村落があり。 王の居城は金城といい、周囲七~八里。 衛兵は三千人、獅子隊を設ける。 文武官には凡そ十七等級ある。 王の金真平、隋の文帝の時代に上開府、楽浪郡公、新羅王を授かる。 武德四年、遣使朝貢。 高祖親勞問之、遣通直散騎侍郎庾文素往使焉、賜以璽書及畫屏風、錦綵三百段、自此朝貢不絶。 其風俗、刑法、衣服、與高麗、百濟略同、而朝服尚白。 好祭山神。 其食器用柳桮、亦以銅及瓦。 國人多金、朴兩姓、異姓不為婚。 重元日、相慶賀燕饗、毎以其日拜日月神、又重八月十五日、設樂飲宴、賚群臣、射其庭。 婦人髮繞頭、以綵及珠為飾、髮甚長美。 武德四年(621年)、遣使が朝貢。 高祖は親しく労を問い、通直散騎侍郎の庾文素を答礼使として行かせ、璽書および書画屏風、錦紗三百反を下賜、これより朝貢は絶えなかった。 そこの風俗、刑法、衣服は、ほぼ高句麗や百済と同じで、而して朝服も白を尊ぶ。 山神の祭りを好む。 食器に柳桮を用い、また銅や陶器もある。 国人には金、朴の両姓が多く、異姓との婚姻はしない。 元日を重んじて皆で慶賀し、宴に饗じる、その日が来るごとに日月神を拝む。また、八月十五日を重んじて行楽を設け、酒宴を催し、群臣は庭園で射撃競技を賜る。 婦人は髮を頭に巻き、錦紗や宝珠で飾り、髮はとても長くて美しい。 高祖既聞海東三國舊結怨隙、遞相攻伐、以其倶為藩附、務在和睦、乃問其使為怨所由、對曰:「先是百濟往伐高麗、詣新羅請救、新羅發兵大破百濟國、因此為怨、毎相攻伐。新羅得百濟王、殺之、怨由此始。」 七年、遣使冊拜金真平為柱國、封樂浪郡王、新羅王。 高祖は、海東の三国が古い仇怨に固執し、順番に相手を攻伐、それによって、互いを従属させてきたことを聞き及び、和睦を仲介すべく、その使者に怨念の理由を問うた。応答して曰く「先に百済が高句麗を攻伐に行く、(高句麗は)新羅を訪れて救援を請い、新羅は兵を発して百済国を大破したが、これが仇(あだ)となり、いつも互いを攻伐する。新羅は百済王を捕え、これを殺す、仇怨はここから始まる。」 武德七年(624年)、遣使を拝謁し、金真平を柱国、封楽浪郡王、新羅王に冊封する。 貞觀五年、遣使獻女樂二人、皆鬒髮美色。 太宗謂侍臣曰:「朕聞聲色之娛不如好德。且山川阻遠、懷土可知。近日林邑獻白鸚鵡、尚解思郷、訴請還國。鳥猶如此、況人情乎! 朕愍其遠來、必思親戚、宜付使者、聽遣還家。」 是歳、真平卒、無子、立其女善德為王、宗室大臣乙祭總知國政。 詔贈真平左光祿大夫、賻物二百段。 貞観五年(631年)、遣使が女性の楽士二人を献ずる、いずれも豊かな黒髪で美しい顔をしていた。 太宗は侍臣に「朕は聲色の娯楽は好德には非ずと聞く。それに(故郷の)山河を遠くに阻まれ、郷土を恋しがるのは当然と知るべし。近日、林邑が白鸚鵡(白いオオム)を献じたが、まだ故郷への思慕が解り、国に帰りたいと請うて訴えた。鳥でさえもこの通り、いわんや人の情ならば! 朕は彼女らが遠来し、必死に親戚を思うのを哀れと思う。宜しく使者を付けて、家に帰して遣わせ」と申された。 この歳、真平が死んだが、子(嗣子)がなく、娘の善德を王に立て、宗室の大臣、乙祭總知が国政を執る。 詔を以て真平に左光祿大夫と、賻物(葬儀の支援金)二百反を下賜する。 九年、遣使持節冊命善德柱國、封樂浪郡王、新羅王。 十七年、遣使上言:「高麗、百濟、累相攻襲、亡失數十城、兩國連兵、意在滅臣社稷、謹遣陪臣、歸命大國、乞偏師救助。」 太宗遣相里玄獎齎璽書賜高麗曰:「新羅委命國家、不闕朝獻。爾與百濟、宜即戢兵。若更攻之、明年當出師撃爾國矣。」 太宗將親伐高麗、詔新羅纂集士馬、應接大軍。 新羅遣大臣領兵五萬人、入高麗南界、攻水口城、降之。 貞観九年(635年)、持節の使者を遣わして、善德に柱国を冊命し、楽浪郡王、新羅王に封じる。 貞観十七年(643年)、遣使が「高句麗や百済と何度も攻撃しあい、数十城を亡失、両国が連兵し、意中では臣の社稷(国家)を滅ぼさんとしており、謹んで陪臣を遣わし、大国に帰依し、偏師(主力軍の両翼に付く補助軍)の救助を乞う」と上奏した。 太宗は相里玄獎に璽書を持たせ遣わし、高句麗に賜いて曰く「新羅は国家の命を(隋に)委ねているが、王宮に朝献できない。汝は百済と宜しく即時に兵を撤収せよ。もし更にこれを攻めるなら、来年、軍隊を出陣させ汝の国を攻撃するであろう。」 太宗は親征軍を引き連れて高句麗を討伐、詔を以て新羅は兵馬を募って、大軍を迎えた。 新羅は大臣に兵五万人を領させて派遣し、高句麗の南界に進入、水口城を攻撃、これを降した。 二十一年、善德卒、贈光祿大夫、餘官封並如故。 因立其妹真德為王、加授柱國、封樂浪郡王。 二十二年、真德遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。 詔授春秋為特進、文王為左武衛將軍。 春秋請詣國學觀釋奠及講論、太宗因賜以所制温湯及晉祠碑并新撰晉書。 將歸國、令三品以上宴餞之、優禮甚稱。 貞観二十一年(647年)、善德が死に、光祿大夫を追贈し、その余の官位はすべて旧来の如く封じた。 その妹の真德を立てて王となしたので、柱国を加授、楽浪郡王に封じる。 貞観二十二年(648年)、真德が弟の国相、伊贊干の金春秋、子の文王を遣わして来朝。 詔を以て春秋に特進を授け、文王を左武衛將軍と為す。 春秋は国学観に訪れて釈尊(仏陀)の講義を請い、太宗は(皇帝専用の)温湯を使わせ、晋祠碑に併せて新撰晋書などを賜る。 帰国に際して三品官以上を遇する宴を催し、これの餞(はなむけ)とする。礼を尽くし優遇すること甚だしいと称された。 永徽元年、真德大破百濟之衆、遣其弟法敏以聞。 真德乃織錦作五言太平頌以獻之、 其詞曰:「大唐開洪業、巍巍皇猷昌。止戈戎衣定、修文繼百王。統天崇雨施、理物體含章。深仁偕日月、撫運邁陶唐。幡旗既赫赫、鉦鼓何鍠鍠。外夷違命者、翦覆被天殃。淳風凝幽顯、遐邇競呈祥。四時和玉燭、七曜巡萬方。維岳降宰輔、維帝任忠良。五三成一德、昭我唐家光。」 帝嘉之、拜法敏為太府卿。 永徽元年(650年)、真德が百済の軍勢を大破、弟(弟の子)の法敏を派遣したと聞く。 真德は五言太平頌を錦糸で作り、これを献じた。 その詞に曰く「大唐開洪業、巍巍皇猷昌。止戈戎衣定、修文継百王。統天崇雨施、理物體含章。深仁偕日月、撫運邁陶唐。幡旗既赫赫、鉦鼓何鍠鍠。外夷違命者、翦覆被天殃。淳風凝幽顯、遐邇競呈祥。四時和玉燭、七曜巡萬方。維岳降宰輔、維帝任忠良。五三成一德、昭我唐家光。」 帝はこれを喜び、法敏に拝謁させて太府卿とする。 三年、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王、加授開府儀同三司、封樂浪郡王。 六年、百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界、攻陷三十餘城、春秋遣使上表求救。 顯慶五年、命左武衛大將軍蘇定方為熊津道大總管、統水陸十萬。 仍令春秋為嵎夷道行軍總管、與定方討平百濟、俘其王扶餘義慈、獻于闕下。 自是新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。 永徽三年(652年)、真德が死に、(皇帝は)挙哀(声を挙げて哀しむ=葬祭での儀礼)し、詔を以て春秋の嗣子を新羅王に立て、開府儀同三司を加授、楽浪郡王に封じる。 永徽六年(655年)、百済と高句麗が靺鞨の兵を率いて、新羅の北界を攻め、三十余城を陥落させ、春秋は遣使に救助を上表させた。 顕慶五年(660年)、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管に任命し、水陸十万の軍勢を統率させた。 春秋を嵎夷道行軍総管と為し、蘇定方と百済を討って平定。その王の扶餘義慈を捕虜とし、王宮の門前に献じた。 これより新羅は暫く高句麗と百済の地を領有、その領界は広大で、西は海に至る。 龍朔元年、春秋卒、詔其子太府卿法敏嗣位、為開府儀同三司、上柱國、樂浪郡王、新羅王。 三年、詔以其國為雞林州都督府、授法敏為雞林州都督。 法敏以開耀元年卒、其子政明嗣位。 垂拱二年、政明遣使來朝、因上表請唐禮一部并雜文章、則天令所司寫吉凶要禮、并於文館詞林採其詞渉規誡者、勒成五十卷以賜之。 龍朔元年(661年)、春秋が死去し、詔を以てその子の太府卿法敏が開府儀同三司、上柱国、楽浪郡、新羅王の位を継いだ。 龍朔三年(663年)、詔を以てその国を雞林州都督府とし、法敏に雞林州都督を授けた。 開耀元年(681年)、法敏が死に、その子の政明が位を継いだ。 垂拱二年(686年)、政明の遣使が来朝し、上表して唐礼一部併せて雜文章を請う。則天武后(在位690-705年)は吉凶要礼の書写を所司に命じ、併せて文館に於いて詞林採其詞渉規誡者、勒成五十卷をこれに賜る。 天授三年、政明卒、則天為之舉哀、遣使弔祭、冊立其子理洪為新羅王、仍令襲父輔國大將軍、行豹韜衛大將軍、雞林州都督。 理洪以長安二年卒、則天為之舉哀、輟朝二日、遣立其弟興光為新羅王、仍襲兄將軍、都督之號。 興光本名與太宗同、先天中則天改焉。 天授三年(692年)、政明が死に、則天武后はこれに挙哀し、遣使に弔祭させ、その子の理洪を新羅王に冊立し、父の輔国大将軍、行豹韜衛大将軍、雞林州都督を踏襲させた。 理洪は長安二年(702年)に死去、則天武后はこれに挙哀、二日目の朝で止め、その弟の光を新羅王に立て、兄の将軍、都督の号を踏襲させた。 光の本名は太宗と同じだったので、先天年間(712-713年)に則天武后が改めさせた。(既に則天武后は崩御しているのだが?) 開元十六年、遣使來獻方物、又上表請令人就中國學問經教、上許之。 二十一年、渤海靺鞨越海入寇登州。 時興光族人金思蘭先因入朝留京師、拜為太僕員外卿、至是遣歸國發兵以討靺鞨、仍加授興光為開府儀同三司、寧海軍使。 二十五年、興光卒、詔贈太子太保、仍遣左贊善大夫邢○璹攝鴻臚少卿、往新羅弔祭、并冊立其子承慶襲父開府儀同三司、新羅王。 璹將進發、上製詩序、太子以下及百僚咸賦詩以送之。 上謂璹曰:「新羅號爲君子之國、頗知書記、有類中華。以卿學術、菩與講論、改選使充此。到彼宜闡揚經典、使知大國儒教之盛。」 又聞其人多善奕碁、因令善碁人率府兵曹楊季鷹為璹之副。 璹等至彼、大為蕃人所敬。 其國碁者皆在季鷹之下、於是厚賂璹等金寶及藥物等。 開元十六年(728年)、遣使が来朝し方物を献じ、また上表して国人に中国の学問や教義経典を習得させたいと請い、これを許可する。 開元二十一年(733年)、渤海靺鞨が海を越えて登州に侵攻。 その時、光は族人の金思蘭先と入朝して京師に留まっていたが、太僕員外卿を拝受し、ここに至って帰国して兵を発して靺鞨を討つにおよび、光に開府儀同三司、寧海軍使を加授した。 開元二十五年(737年)、光が死去、詔を以て太子太保の位階を追贈、なお左賛善大夫邢璹、攝鴻臚少卿を遣わして、新羅に行って弔祭させ、并せてその子の承慶を冊立して、父の開府儀同三司、新羅王を踏襲させた。 璹は出発に際して、詩序を上製、太子以下と百僚が皆、これに詩を送った 皇帝が璹に曰く「新羅は君子の国を号し、頗る書記に精通して中華に類似する。卿は学術や仏法を講論し、改めて使者を選んでこれに充てる。彼の地に至って経典を宣揚し、大国が儒教の盛なることを知らしめよ。」 また、そこの人々の多くが囲碁に精通すると聞き、因って囲碁名人に府兵曹参軍の楊季鷹を璹の副として率いさせた。 璹らはここに至って、蕃人に大いに尊敬された。 その国の碁者は皆、季鷹の門下である、ここに於いて璹らに金銀宝石に医薬品を厚く支払った。 天寶二年、承慶卒、詔遣贊善大夫魏曜往弔祭之。 冊立其弟憲英為新羅王、并襲其兄官爵。 大暦二年、憲英卒、國人立其子乾運為王、仍遣其大臣金隱居奉表入朝、貢方物、請加冊命。 三年、上遣倉部郎中、兼御史中丞、賜紫金魚袋歸崇敬持節齎冊書往弔冊之。 以乾運為開府儀同三司、新羅王、仍冊乾運母為太妃。 七年、遣使金標石來賀正、授衛尉員外少卿、放還。 八年、遣使來朝、并獻金、銀、牛黄、魚牙紬、朝霞紬等。 九年至十二年、比歳遣使來朝、或一歳再至。 天寶二年(743年)、承慶が死去、詔を以て賛善大夫の魏曜を派遣し、これの葬祭に行かせる。 その弟の憲英を新羅王に冊立、并わせて兄の官爵を踏襲させる。 大暦二年(767年)、憲英が死去、国人はその子の乾運を王に立てる。なお大臣の金隱居が奏を表して入朝、方物を貢献し、冊命の加授を請う。 大暦三年(768年)、倉部郎中、兼御史中丞を派遣し、紫金魚袋を賜り、崇敬持節に冊書を持たせて行き、これを弔冊。 乾運に開府儀同三司、新羅王を賜り、なお乾運の母を太妃に冊封する。 大暦七年(772年)、遣使の金標石が来賀に参内、衛尉員外少卿を授けて、帰還させる。 大暦八年(773年)、遣使が来朝、并わせて金、銀、牛黄、魚牙紬、朝霞紬などを貢献。 九年至十二年、この歳に遣使が来朝、あるいは年に二度来る。 建中四年、乾運卒、無子、國人立其上相金良相為王。 貞元元年、授良相檢校太尉、都督雞林州刺史、寧海軍使、新羅王。 仍令戸部郎中蓋塤持節冊命。 其年、良相卒、立上相敬信為王。 令襲其官爵。 敬信即從兄弟也。 十四年、敬信卒、其子先敬信亡、國人立敬信嫡孫俊邕為王。 十六年、授俊邕開府儀同三司、檢校太尉、新羅王。 令司封郎中、兼御史中丞韋丹持節冊命。 丹至鄆州、聞俊邕卒、其子重興立、詔丹還。 永貞元年、詔遣兵部郎中元季方持節冊重興為王。 建中四年(783年)、乾運が死去、子がなく、国人はその上相の金良相を王に立てる。 貞元元年(785年)、良相に檢校太尉、都督雞林州刺史、寧海軍使、新羅王を授ける。 なお戸部郎中の蓋塤に持節を以て冊命。 その年、良相が死去、上相の敬信を王に立てる。 その官爵を踏襲させる。 敬信は従兄弟なり。 貞元十四年(798年)、敬信が死去、その子の敬信は先に亡くなっており、国人は敬信の嫡孫の俊邕を王とする。 貞元十六年(800年)、俊邕に開府儀同三司、檢校太尉、新羅王を授ける。 司封郎中、兼御史中丞の韋丹が節を持して冊命。 韋丹は鄆州に到り、俊邕の死去を聞き、その子の重興を立て、詔を宣して丹は帰還。 永貞元年(805年)、詔を以て兵部郎中の元季方に節を持たせて派遣し、重興を王に冊封する。 元和元年十一月、放宿衛王子金獻忠歸本國、仍加試秘書監。 三年、遣使金力奇來朝。 其年七月、力奇上言:「貞元十六年、奉詔冊臣故主金俊邕為新羅王、母申氏為太妃、妻叔氏為王妃。冊使韋丹至中路、知俊邕薨、其冊卻迴在中書省。今臣還國、伏請授臣以歸。」 敕:「金俊邕等冊、宜令鴻臚寺於中書省受領、至寺宣授與金力奇、令奉歸國。仍賜其叔彦昇門戟、令本國準例給、」 四年、遣使金陸珍等來朝貢。 五年、王子金憲章來朝貢。 元和元年(806年)十一月、王子の金献忠を宿衛より放ち、本国に帰らせ、なお試秘書監を加授した。 元和三年(808年)、遣使の金力奇が来朝。 その七月、力奇が上奏「貞元十六年、詔を奉じて故主の金俊邕を新羅王に冊臣、母の申氏を太妃、妻の叔氏を王妃となす。冊使の韋丹は途上で俊邕の薨じるを知り、その冊を中書省に戻した。今、臣は国に帰るを以て、臣に授けることを伏して請い願う」。 勅旨で言う「金俊邕らを冊す、宜しく鴻臚寺(外務省)は中書省に於いて受領せよ、寺に至れば宣しく金力奇に授け、奉じて帰国させよ。なお、その叔の彦昇に門戟を授け、本国の例に準じて給えよ」 元和四年(809年)、遣使の金陸珍らが来朝し、貢献する。 元和五年(810年)、王子の金憲章が来朝し、貢献する。 七年、重興卒、立其相金彦昇為王、遣使金昌南等來告哀。 其年七月、授彦昇開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、上柱國、新羅國王、彦昇妻貞氏冊為妃、仍賜其宰相金崇斌等三人戟、亦令本國準例給。 兼命職方員外郎、攝御史中丞崔廷持節弔祭冊立、以其質子金士信副之。 十一年十一月、其入朝王子金士信等遇惡風、飄至楚州鹽城縣界、淮南節度使李鄘以聞。 是歳新羅飢、其衆一百七十人求食於浙東。 十五年十一月、遣使朝貢。 元和七年(812年)、重興が死去、その相の金彦昇を王に立て、遣使の金昌南らに哀弔を告げる。 その七月、彦昇に開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、上柱国、新羅国王を授け、彦昇の妻の貞氏を妃に冊す、なお、その宰相の金崇斌ら三人に戟を賜り、また本国の例に準じて給える。 兼命職方員外郎、攝御史中丞の崔廷に持節させて葬祭を冊立し、その質子の金士信をこの副とする。 元和十一年(816年)十一月、入朝した王子の金士信らが惡風に遭遇、楚州塩城県界に漂着したことを淮南節度使の李鄘が耳にした。 この歳、新羅は飢饉、一百七十人の民が浙東で食を乞う。 元和十五年(820年)十一月、遣使が朝貢。 長慶二年十二月、遣使金柱弼朝貢。 寶暦元年、其王子金昕來朝。 大和元年四月、皆遣使朝貢。 五年、金彦昇卒、以嗣子金景徽為開府儀同三司、檢校太尉、使持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、新羅王;景徽母朴氏為太妃、妻朴氏為妃。命太子左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭冊立。 開成元年、王子金義琮來謝恩、兼宿衛。 二年四月、放還藩、賜物遣之。 五年四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。 會昌元年七月、敕:「歸國新羅官、前入新羅宣慰副使、前充兗州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿、可淄州長史。」 長慶二年(822年)十二月、遣使の金柱弼が朝貢。 寶暦元年(825年)、その王子の金昕が来朝。 大和元年(827年)四月、皆が遣使を以て朝貢してきた。 大和五年(831年)、金彦昇が死去、嗣子の金景徽を開府儀同三司、檢校太尉、使持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、新羅王になす。景徽の母の朴氏を太妃、妻の朴氏を妃となす。太子を左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭に冊立。 開成元年(836年)、王子の金義琮が謝恩に来朝し、宿衛を兼ねる。 開成二年(837年)四月、放免して帰国させ、賜物をこれに遣わす。 開成五年(840年)四月、鴻臚寺が上奏。新羅国に告哀あり、質子および年期の満ちた学生ら一百五人と共に、一緒に放還させたい。 会昌元年(841年)七月、勅書で「歸国する新羅官、前の入新羅宣慰副使、前の充兗州都督府司馬、緋魚袋金雲卿を賜い、淄州長史とすべし」 |
辰韓 (紀元前2世紀末 - 4世紀)
後漢 (25年 - 220年) 「後漢書」 辰韓伝 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。 其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。 そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。 有城柵屋室。 諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。 土地肥美、宜五穀。 知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。 嫁娶以禮。 行者讓路。 城柵、家屋、宮室がある。 諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。 土地は肥沃、五穀の栽培に適している。 養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。 嫁は婚礼をして娶る。 道で行き合えば道を譲る。 國出鐵、濊、倭、馬韓並從市之。 凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。 俗喜歌舞飲酒鼓瑟。 兒生欲令其頭扁、皆押之以石。 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。 おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。 習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。 幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。 |
魏 (220年 - 265年) 「三国志魏書」 辰韓伝 辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。 有城柵。 其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。 名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。 今有名之為秦韓者。 始有六國、稍分為十二國。 辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。 城柵あり。 言語は馬韓と同じではない。 そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。 楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。 今はこの国の名称を秦韓とする。 始めには六国あり、十二国に細分化した。 |
晋 (265年 - 420年) 「晋書」 辰韓伝 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。 初有六國、後稍分為十二、又有弁辰、亦十二國、合四五萬戸、各有渠帥、皆屬於辰韓。 辰韓常用馬韓人作主、雖世世相承、而不得自立、明其流移之人、故為馬韓所制也。 地宜五穀、俗饒蠶桑、善作縑布、服牛乘馬。 其風俗可類馬韓、兵器亦與之同。 初生子、便以石押其頭使扁。 喜舞、善彈瑟、瑟形似筑。 辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。 初めは六国あり、後に十二国に細分した。また、弁辰があり、これもまた十二国で、合計四、五万戸、各々に渠帥がいるが、皆、辰韓に属している。 辰韓は常に馬韓人を用いて君主となす、代々の相伝とはいえ、自立することを得ず、明らかに流移の人ゆえに馬韓が全土を制している。 土地は五穀の栽培に適しており、習俗は多くの蚕や桑があり、上手に縑布を作り、牛を飼い馬に乗る。 その風俗は馬韓に類似しており、兵器もまたこれに同じである。 初めの子が生まれると、石にその頭を押し付けて扁平にさせる。 嬉々として舞い、瑟を弾く、瑟の形は筑(琴に似た13弦琴)に似ている。 |
時代順に並べると、「後漢書」>「三国志魏書」>「晋書」と、途切れることなく「辰韓」について書き綴られ、その後も途切れることなく、南北朝時代の「梁書」>「隋書」>「旧唐書」と、841年までの新羅の内情が記録として残っているワケです。(使いまわしですが・・・。)
ちなみに、倭と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」は663年の出来事とされていますが、「旧唐書」で該当する部分は、
六年、百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界、攻陷三十餘城、春秋遣使上表求救。 顯慶五年、命左武衛大將軍蘇定方為熊津道大總管、統水陸十萬。 仍令春秋為嵎夷道行軍總管、與定方討平百濟、俘其王扶餘義慈、獻于闕下。 自是新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。 永徽六年(655年)、百済と高句麗が靺鞨の兵を率いて、新羅の北界を攻め、三十余城を陥落させ、春秋は遣使に救助を上表させた。 顕慶五年(660年)、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管に任命し、水陸十万の軍勢を統率させた。 春秋を嵎夷道行軍総管と為し、蘇定方と百済を討って平定。その王の扶餘義慈を捕虜とし、王宮の門前に献じた。 これより新羅は暫く高句麗と百済の地を領有、その領界は広大で、西は海に至る。 |
・・・ですか?
扶余義慈王
資料を見て言えることは、新羅の前身である辰韓は、秦の圧政から逃れてきた「亡命者」の国であったことと、自らの王を持たなかったということです。
謂わば「難民の国」であるから、自ら「王」を立てられない弱い立場にあったという見方が一般的なのかも知れませんが、別な見方をすれば、「王」を頂点とする絶対的な集権機構による「悪政」から逃れてきた身であれば、そうした「王政」による社会システムを望まず、「馬韓」の「王」を代理王・・・すなわち、誰の権力も集中しない「象徴王」として仰いだという見方もできます。
で、そうした見方からすると、よく似ているのが日本における「天皇制」であり、辰韓および新羅の生活風習にもそこはかとなく日本文化に近いものを感じるワケですが、さすがに、生まれた子供の頭を扁平にする風習は無いわw。
ま、長くなるのでこの続きはまた改めて。
人間ナメんなよ!
でわっ!