前回は、仏教派の蘇我氏が物部氏を排除し、第32代崇峻天皇を推し立てることで、仏教による国体づくりの基盤を固めたトコロまででしたが、崇峻天皇を推し立てておきながら馬子は、言い掛かりをつけて崇峻天皇を暗殺してしまいます(と、いうことになっています)。
しかし、歴史に残る一大事・・・天皇暗殺・・・でありながら、朝廷内の混乱に関する記述が見られないのは奇妙であり、その理由として考えられるのは、蘇我氏の威光が既に天皇を凌駕するほどであったか、崇峻天皇自身が欽明天皇の第12皇子という、皇位継承の正当性が低く見られた存在であったか?・・・ということです。
で、事情はよく分かりませんが、亡き敏達天皇の皇后である額田部皇女が第33代推古天皇として即位し、厩戸皇子を摂政に置き、また遣隋使の派遣によって、朝鮮半島経由の文化交流から、「大陸」との直接的な文化交流へと時代は変わります。
仏教にしても、百済仏教から中華仏教への方向転換を意味し、従来からの百済僧と、中華仏教を学んだ留学僧たちとの間に齟齬も生じたであろうことは十分に考えられます。
そこで思い出したのが、「古事記(712年)」の研究者による、「古事記」の書き手は前半と後半で違うという報告です。曰く、後半の書き手の方がより漢文に対して「ネイティブ」であり、このことは、前半は百済人もしくは漢文を学習した者の手によるものであり、後半は中国人の手によるものであろう・・・と、いうものです。
ま、ワタシ自身まだ整理できていないので、今回は資料として年表を提示します。
★北魏、南宋、「祆教(ゾロアスター教)」伝来(400年頃)
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★北魏、太平真君の廃仏(446年)・・・「道教」に帰依
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●百済仏教,、日本に伝来(538年)
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第30代敏達天皇(?年)
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第31代用明天皇(?年)
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第32代崇峻天皇(?年)
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★北周、建徳の廃仏(574年)・・・儒教に帰依(仏教、道教を禁止)
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★隋、中原を統一(581年)
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●崇峻天皇暗殺?(592年)・・・蘇我馬子
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第33代推古天皇(593年)*女帝(敏達天皇皇后)
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●第1回遣隋使派遣(600年)・・・倭王:多利思比孤
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●「十七条の憲法」(604年)
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★唐、中原を統一(618年)
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●「広隆寺」建立(622年)・・・「弥勒菩薩信仰(ミトラス教)」
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第34代舒明天皇(629年)
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●第1回遣唐使派遣(630年)
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★唐、「景教(ネストリウス派キリスト教)」伝来(635年)
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第35代皇極天皇(642年)*女帝
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●乙巳の変(645年)・・・譲位
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第36代孝徳天皇(645年)・・・朝貢
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第37代斉明天皇(655年)*重祚・・・皇極天皇
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●白村江の戦い(663年)
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第38代天智天皇(668年)
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第39代弘文天皇(672年)
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●壬申の乱(672年)
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第40代天武天皇(673年)
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第41代持統天皇(690年)*女帝(天武天皇皇后)
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★唐、「明教(マニ教)」伝来(694年)
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●「大宝律令(701年)」
「新唐書」 日本伝 永徽初、其王孝德即位、改元曰白雉、獻虎魄大如斗、碼瑙若五升器。 時新羅為高麗、百濟所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅。 未幾孝德死、其子天豐財立。 死、子天智立。 永徽初(650年)、その王の孝德(第36代孝徳天皇)が即位、改元して白雉という。 一斗升(ます)のような大きさの琥珀(こはく)、五升升のような瑪瑙(めのう)を献上した。 時に新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。 幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財(第37代斉明天皇)が立った。 死に、子の天智(第38代天智天皇)が立った。 明年(651年)、使者與蝦蛦 人偕朝。 蝦蛦亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十歩、射無不中。 天智死、子天武立。 死、子總持立。 翌年、使者が蝦夷人とともに来朝。 蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。 天智が死に、子の天武(第40代天武天皇)が立った。 死に、子の総持(第41代持統天皇)が立った。 |
「新唐書」 日本伝 長安元年(701年)、其王文武立、改元曰太寶。 遣朝臣真人粟田貢方物。 朝臣真人者、猶唐尚書也。冠進德冠、頂有華蘤四披、紫袍帛帶。真人好學、能屬文、進止有容。 武后宴之麟德殿、授司膳卿、還之。 文武死、子阿用立。 死、子聖武立、改元曰白龜。 長安元年(701年)、その王の文武(第42代文武天皇)が立ち、改元して太宝という。 朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。 朝臣の真人は唐の尚書のようである。 進德冠を冠り、頂に華蘤四披があり、紫の袍に白絹の帯。 真人はよく学び、巧みに文章を書き、動作に偉容があった。 武后は麟德殿での宴席で、授司膳卿を授けて、かれを還した。 文武が死に、子の阿用(第43代元明天皇)が立った。 死に、子の聖武(第45代聖武天皇)が立ち、改元して白亀という。 |
第40代天武天皇(673年)
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第41代持統天皇(690年)*女帝
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第42代文武天皇(697年)
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第43代元明天皇(707年)
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第44代元正天皇(715年)*?
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第45代聖武天皇(724年)
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第46代孝謙天皇(749年)
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第47代淳仁天皇(758年)
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第48代称徳天皇(764年)・・・孝謙天皇*重祚
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第49代光仁天皇(770年)
「新唐書」 日本伝 貞元末(805年)、其王曰桓武、遣使者朝。 其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業、歴二十餘年、使者高階真人來請免勢等倶還、詔可。 次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。 仁明直開成四年、復入貢。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啟元年。 貞元末(805年)、その王は桓武(第50代桓武天皇)といい、遣使が来朝。 その学子の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以て勅許す。 次に諾楽(第51代平城天皇)が立ち、次は嵯峨(第52代嵯峨天皇)、次は浮和(第53代淳和天皇)、次は仁明(第54代仁明天皇)。仁明は開成四年(839年)にあたり、再び入朝して貢献。 次は文德(第55代文徳天皇)、次は清和(第56代清和天皇)、次は陽成(第57代陽成天皇)。次は光孝(第58代光孝天皇)、光啟元年にあたる。 |
第50代桓武天皇(781年)
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第51代平城天皇(806年)
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第52代嵯峨天皇(809年)
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第53代淳和天皇(823年)
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第54代仁明天皇(833年)
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★唐、会昌の廃仏(845年)・・・唐代三夷教(明教・祆教・景教)の排斥
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第55代文徳天皇(850年)
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第56代清和天皇(858年)
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第57代陽成天皇(876年)
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第58代光孝天皇(884年)
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第59代宇多天皇(887年)
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●遣唐使の廃止(894年)・・・菅原道真、筑紫へ左遷
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●譲位
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第60代醍醐天皇(897年)
織田信長が本能寺で討たれる1582年は、あと6世紀ほど後の話になるワケですが、「歴史の渦」が1582年6月21日(天正10年6月2日)に向かってどう収斂して行くのか、ボチボチ検証してみたいと思います。ちなみに、
バタフライエフェクト
・・・は予測不可能とされていますが、それはカオス系においては、「因」から「果」の予測は不可能であるというだけで、カオス系であろうと何であろうと、「果」から「因」に辿り着くことは、例え「因」が複雑であったとしても可能なワケです。
このことは、カオス系を・・・「ひとつのモデル」・・・としてなら捉えられることを意味し・・・ま、アレです、話が逸れるのでまた別な機会にします。
人間ナメんなよ!
でわっ!