2013年9月24日火曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ 5

  
 仏教伝来の黎明期を調べているうちにひとつ分かったことは、「秦氏」はユダヤ系ではなさそうだということです。他にも、「徐福」の子孫だという説や、景教(キリスト教ネストリウス派)を日本に持ち込んだという説がありますが、秦氏の素性は、建立した神社、寺院から伺えます。結論から先に言うと、


秦氏はミトラ教を信仰していた


・・・と、いうことです。

 秦氏の始祖、「弓月王」の孫に当たる「秦酒公」の代に、朝廷(第21代雄略天皇)から「太秦」の姓を賜り、「大酒神社」を建立しますが、この神社に残る「奇祭」こそ、秦氏が「ミトラ教」を信仰していたことを伺わせます。


広隆寺

牛祭

牛祭(都年中行事画帖 1928年)太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。仮面を着けた「摩吒羅(またら/まだら)神」(摩多羅神)が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明を持ってそれに従って四周を巡行し、薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせる。祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。


大酒神社 牛祭図


牡牛を屠るミトラス


大酒神社社伝によれば、平安時代、比叡山の恵信僧都(源信)が極楽浄土の阿弥陀如来を拝する願いを持っていたところ、広隆寺絵堂(講堂)のご本尊を拝めばよいと夢のお告げがあり、恵心は大いに喜んで三尊像を手彫りして念仏会を修た。そして常行念佛堂を建立し、念仏守護の神、摩吒羅神を勧請して祈祷したのが始まりとされている。かつては毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっている。


 ウィキペディアによれば、大酒神社はもともと広隆寺(別称:蜂岡寺)の境内にあったそうですが、建立時期は広隆寺よりも先であり、後年、秦河勝が、大酒神社を取り込む形で広隆寺を建立したのでしょう。

 で、大酒神社の「牛祭」に登場する「摩吒羅神(またら神)」が、ミトラ教におけるミトラであることは、広隆寺の創建当初の本尊が「弥勒菩薩(マイトレーヤ)」であることからも、ほぼ確実と思われます。

 秦氏を景教徒と観る人たちは、聖徳太子=厩戸皇子が、イエス・キリストに因んで付けられた名前であり、従って秦氏をネストリウス派キリスト教徒(景教徒)であると捉えているようですが、キリスト教には、ミトラ教から引用された部分も多分に含まれています。

 尚且つ、唐に景教が伝来した時期と「厩戸皇子」が政務についていた時期とでは、景教伝来のほうが30年以上後の時代になり、「厩戸皇子」は後年(死後)命名されたとも考えられます。

 従って、「厩戸皇子」が実在したとするならば、生前は、「厩戸(うまやど)」ではなく、「磐戸(いわやど)」であったと考えれば、ミトラは岩(磐)から生まれたとするミトラ教にも合致し、秦氏の存在がそれを裏付ける証拠にもなるワケです。

 
ミトラ教


 で、先の結論、「秦氏はミトラ教を信仰していた」・・・に戻るワケですが、「弥勒菩薩信仰」に姿を変え、巧妙に「仏教」として日本に広めようとしたのではないか?・・・という推測も成り立つワケです。

 秦氏が「ミトラ教」を信仰していたとすると、秦氏=古代ユダヤ人とは考え難く、どちらかと言えばペルシャ系の渡来民であった可能性が高く、「祇園祭」の山鉾に飾られるペルシャ絨毯にその痕跡が残されているとも言えます。

 最後に、秦氏は百済から渡来して来たとされていますが、朝鮮半島でペルシャというか、地中海文明の影響がより色濃く残っているのは新羅の方であり、秦氏は新羅もしくは大陸から渡来した可能性が高いように思われます。


「梁書」 新羅伝

新羅者、其先本辰韓種也。

辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。

其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。

相呼皆為徒、不與馬韓同。



新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。

辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。

伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。

その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。

皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。



「梁書」 新羅伝

其俗呼城曰健牟羅、其邑在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中國之言郡縣也。

國有六啄評、五十二邑勒。

土地肥美、宜植五穀。多桑麻、作縑布。

服牛乘馬。

男女有別。

其官名、有子賁旱支、齊旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。

其冠曰遺子禮、襦曰尉解、○曰柯半、靴曰洗。

其拜及行與高驪相類。

無文字、刻木為信。

語言待百濟而後通焉。



そこの習俗では、城を健牟羅、村落を有する城を啄評、村落を持たない城を邑勒と呼ぶ。

中国で言うところの郡県である。

国内には六啄評、五十二邑勒がある。

土地は肥沃で五穀の栽培に適している。

多くの桑や麻が採れ、短い衣服を作る。

官名には、子賁旱支、斉旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支がある。

そこの冠は遺子礼と言い、襦は尉解と言う。

儀礼や行為は高麗に類している。

文字なし、木に刻みを入れて通信に使う。

言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり。


 なかなか織田信長の死に辿り着けませんが、気になっている「同朋衆」=「阿弥衆」≒「白足袋族」のルーツを解明するには、「仏教」の政治的な役割を見過ごすワケにはいかないので、クライマックスはもう少し先の話になります。はい。





人間ナメんなよ!


でわっ!