前回のおさらいになるのですが、国家と国民て、
「家」と「住人」
の関係のように思うワケです。はい。
雨風をしのいで、心安らかに心安らかに眠れる場所。
日々の生活を送り、いろいろな思い出のつまった場所。
子供とゆう、次の世代が成長する場所。
それが「家」とゆう場所だとしたら、まさに「国家」とはかく有るべき。
で、「家」と「住人」を分けて考えるのは当然の事なのですが、
「家」と「住人」と、ドッチが重要(本質)なのか?となると、
答えは自ずと明らかですよね?
やたら「国家」を持ち出す連中って、「家」しか見てないワケで、
その家を建てたのは誰かとゆう視点が抜けてません?
とゆうか、「住人」を無視してんジャないの?・・・と。
「住人」が居なくなっても、「家」は残りますワナ。
で、そのまま放っておけば「廃墟」になってしまいますから、
「家」を維持しようと思う連中は、新しい「住人」が必要になります。
つまり、「家」を第一に考える連中は・・・極論を言えば、
「住人」は誰でもイイ。
とゆう結論に辿り着くワケですわ。
そう考えると、「1000万人移民受け入れ構想」なんつーのは、
「家」を維持するためには必要な事なんでしょうな。なんせ、
国家とは、税金の徴収機関
なワケですからwww!
とは言っても、「国」レベルで考えた場合にですよ?
「日本」とゆう国の「国民」の大部分が、外国人になってしまって、
文化やら、伝統やらが失われしまった場合でも「日本」と呼べるのか?
ダイジョwwwブです。
「天皇陛下」がおわします。
「国家」大好きの連中にとって、最後の切り札が「天皇陛下」なのです。
「日本」とゆう国の「正統性」を諸外国に示す為に。
「天皇陛下」さえ居れば、「国民」はドwwwでもイイんです。
だからして、事有る毎に連中は、「皇室」の威光をかさに着たり、
持ち出したりするワケなんでしょ?(違うの?)
精神論的に見れば(あくまでもワタシの見方ですが)、天皇家とは日本人の
罪の贖罪
を担っており、で有るが故に、日本人の心の深層部に宿ると思うのです。
教会において、信者の「懺悔」を聞き入れる神父の様に。
しかし、日曜日に「懺悔」し、月曜日からまた悪事を繰り返す様では、
「懺悔室」の存在とは、ある種の「偽善」に見えなくも無いワケで、
一番大切のは、過ちを繰り返さないとゆう「覚悟」ではないかと?
「日本国民」として天皇陛下を本気で敬う気持ちが有るのなら、
陛下の肩の荷を軽くしてさし上げる。
これこそが正しい行いなのではなかろうか?・・・と。
その為には、「国民」はもっと目覚めなければならないのでしょう。
もっと「賢く」にならなくてはならないのでしょう。
「陛下」を私利私欲の為に利用せんと蠢いている、
「ノーパンしゃぶしゃぶ長官」とか・・・
「国民」を軽んじて、「国家」、「政局」ばかりをタラタラ論じる、
偽愛国ブロガー、偽善ブロガーとか・・・
毎日毎日、飽きる事無くディスインフォメーションを垂れ流している、
マスコミ全般とか・・・に、踊らされない様に。
じゃ、何を信じたら?
先ずは自分の良心を信じなさい。としか言えません。
そして、人に甘えることを止め、自分の足で歩き出すしかないのでしょうな。
光あるうち光の中を歩め
by トルストイ
でわっ!