またまた極東ブログさんトコからネタを拝借させて貰います。
<抜粋>
ゲーム理論で考えよう:J国とC国がある海域の漁業資源を争う事例
結局のところ人間は、文明化という段階まで進んでおり、すべてがジャングルの掟に支配されているわけではない。しかも実際には、ゲーム理論を使うと、このような文明化された状態が生まれる経過を説明することができる。ある種を構成しているものにとって、協力やコミュニケーションが安定した戦略となるような状況が、どのように生まれるかを、説明できるのである。ゲーム理論を使わずに、人間の協力的な社会行動を理解することは難しい。
</抜粋>
・・・と云う事で、理路整然とした説明に納得する次第です。はい。
ところで「ゲーム」そのものも、「人間の思考の産物」であって、所謂「理論」と云う「法則」が元々そこにあり、その上に人間の行動が束縛されているのではなく、人間の行動を説明する為に、自然界の現象を説明する為に、「理論」、「法則」を後付けしたワケですよね?違います?
ま、対象を人間に限定すれば、「心理」という未だに解明されていない「不確定要素」を内面に抱えており、「理屈だけでは割り切れない」部分が多分にある様に思うワケです。はい。
だからと言って世界が「混沌の海」の中に浮かんでいると言うつもりは無く、おおむね均衡を保った状態にあるのはそこに「常識」の存在があるからだと、ワタシなりに思う次第です。はい。
「常識」・・・「常に」+「識る」とは一体どういう事なんでしょう?「常識を打ち破れ!」とか、「常識に囚われるな!」とか、「常識さん」て肩身の狭い思いをしています。でも、「常識さん」自体が語られることってあまりないですよね?なぜなら・・・
そんなの常識だろ?
・・・と言われてしまうと、そこで暗黙の了解が出来上がってしまうからです。はい。
そこで、「常識さん」をとことんまで突き詰めてみると、最終的に自分が「これだけは確かだ!」と、胸を張って他人に主張出来る事といえば・・・
自分の肉体でしかない
・・・と云う事になるのではないでしょうか?
今日は頭が痛い、お腹が減った、肩がこる、寝不足で目が腫れぼったい、etc・・・自分が「常に」+「識る」のは、自分の肉体でしかないのでしょうな。結局。
そして同じ人間であれば、自分の体に起きた現象が他人の体に起きた時に、自分の事として共感する事が出来る。つまり、相手が「腹が減った」と言えば、その状態をすぐさま自分の肉体でシュミレート出来る。その事が人間を「社会」と云う単位に結び付けている、要因のひとつの様に思うワケです。ワタシは。
人間本位
・・・云うなれば「庶民本位」は、ワタシが繰り返し述べている事であって、如何なる「英知」も、人間の存在抜きには語れない事を・・・そんな「常識?」を、ちょっと賢く(頭でっかちに)なったばかりに、みんなが忘れかけている様に思った次第です。はい。
でわっ!