「常陸(茨城)風土記」によれば、鹿島の地は神郡と呼ばれ中臣氏が管轄し、中臣部や卜部などが居住していたとのこと。そしてこの中臣氏から中臣鎌足、後の藤原家の創始者となる藤原鎌足が現れると。
であれば、前回の疑問、「藤原不比等が鹿島から鹿を勧請した理由」も明快です。自分の故郷の氏神様を呼び寄せたと云うだけの事ですから。はい。
さらに同書には、天地草昧以前に八百万の神が高天の原に集まった時、諸祖神に命じられて天降って来たのが武甕槌命(たけみかづちのみこと)であると書かれているそうで、「国譲り」の際に出雲に行ったのではなく、先に常陸国に単独で入植した先遣隊であった可能性が高くなります。ま、ワタシが不勉強なだけだったんですケドね?
でもそうすると、八切止夫氏の言う四姓、「源平藤橘」の藤=唐、つまり「白村江の戦い」の戦いに勝ち、日本に進駐して来た唐の郭務悰(カクムソウ)将軍が、その名を藤原鎌足に改名してそのまま日本に居座った。・・・と云う説と相容れないんですけど?
「白村江の戦い」が663年、「常陸風土記」の成立が713年ですから、「常陸風土記」を捏造しようと思えば捏造出来るんですけどね?でもそうだとしたら、藤原不比等が郭務悰(カクムソウ)の子供だとしたら?今度は710年に氏神として「鹿島から鹿を呼ぶ」その根拠が見えなくなっちゃいます。
八切氏には申し訳ありませんが、ここは「常陸風土記」の方が、整合が取れるか?・・・と。ワタシ的には。
ただ、中臣氏にしても、関東平氏、関西平氏のように二系統があり、ひとつは、神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣系中臣氏。もうひとつは、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祖とする中臣部・卜部の系統になります。
で、中臣氏・・・後の藤原鎌足は天児屋根命を祖とする流れらしいのですが、ここで多臣系中臣氏に目を向けてみると、多臣氏(大・太・意富・於保)すなわちオボのことであり、国津系の渡来民族となり、当然オボ(スキタイ)と鹿とは、切っても切れない関係なので、ここに藤原氏と鹿の関係は完結します。
ですが、藤原鎌足が属していたのは天児屋根命系なんでどうなんでしょ? と云うところで・・・
でわっ!