随分前に「鹿男あおによし」という記事を書いたんですけど、その後分かった事を自分用に残しておこうかと。
<引用>
武甕槌命 - たけみかづちのみこと
伊邪那岐命の御子。天照大神が前後二回にわたり豊葦原中津国統一のために特使を派遣されたが、二回とも失敗に終わり、三回目の特使として選ばれたのがこの神である。武甕槌命は大国主命およびその御子事代主命との交渉に成功、さらにもう一人の御子建御名方命(たけみなかたのみこと)との力競べにも勝って、見事国譲りの大業を成し遂げられた。武甕槌命の「武」は武勇を表し、「甕槌」は御雷(みかづち)の意で、文字通り「神鳴り」に比せられる猛々しさを表す。武勇・戦勝・勝運の神としての信仰のほか、その業績から開拓・平和外交の神としても崇められている。
</引用>
「豊葦原中津国」とは日本の事ですから、そこを「統一する」と云うことは、日本はまだ統一された国ではなく、何カ国もに「分裂していた」とい云う事実の裏返しでしょう。そして「高天原」のアマテラスは日本統一の為のパートナーとして「出雲」を選んだ。
ナゼ出雲を選んだかは想像するしかありませんが、恐らく「高天原族」と「出雲族」は遠戚関係にあったのではないかと。つまり、先に日本に移住して一国を築いてた「出雲族」に対し、後発であり、本家筋の「高天原族」が、
これから乗り込むからよろしく♪
・・・と、使者を寄越してきた。「出雲族」としては面白くないワケすよ。今迄自分たちが苦労して築き上げてきた国を、本家にいきなり乗っ取られてしまうのですから。
そこで二度目まではのらりくらりとやり過ごしたものの、三度目の使者が武力による制圧をチラつかせたものだから、大国主命とその息子、事代主命は戦になったら敵うまいと、「国譲り」を受け容れるのですが、もう一人の息子、建御名方命はあくまでも抵抗の姿勢を貫き、力比べ(戦争)に敗戦して国を奪われてしまった。
・・・と、ワタシには読めるのですが、さてここで、「出雲族」、「高天原族」とはいったいどんな部族だったのか?が、疑問になるのですが、手掛かりとして武甕槌命と鹿の係わりをヒントに追ってみると・・・
<引用>
世界遺産 春日大社 公式HP
ご案内/ご由緒
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。
</引用>
とあるだけで、春日大社と「鹿」との係わりに付いては明記されていません。そこでさらに調べてみると、和銅13年(710)年藤原不比等が氏神として春日大社を創建する際に、鹿島(茨城県鹿島神宮)から勧請した神が白鹿に乗って春日山に入ったという言い伝えから、神の使いとして大切に保護されてきたとあり、春日大社は藤原氏が創建したものである事が分かりました。
ここでまた疑問なのですが、ナゼ藤原氏は鹿島神宮(茨城)から神(武甕槌命)を勧請したのか?もっと近場にも神はいたはずなのに。茨城といえば当時の都があった近畿地方からすれば、はるか遠方、それこそ地の果て様な場所であったはずなのに。
そこでさらに調べてみると・・・
<引用>
鹿~シカ 鹿島神宮の祭神「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」の鹿
◆鹿島神宮と鹿
鹿島神宮の祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)ところに、天照大神(アマテラスオオミカミ)から使者が来て、「香取神社(千葉県佐原市)の祭神、経津主命(フツヌシノミコト)と共に出雲の国へ行って、大国主命に、出雲国を自分(天照大神)に譲るように説得してきなさい」とのことだった。
この時の天照大神の使者、天迦久神(アメノカグノカミ)は、鹿の神霊だったとされ、これに因んで、鹿島神宮の神使は鹿とされるようになった。神社名(地名)も「香島」が「鹿島」になった。
なお、武甕槌命、経津主命は共に「剣の神」(武神)で、出雲国に出向いての強談判(コワダンパン)の結果、大国主命に「国譲り」をさせることに成功した。
◆春日大社と鹿
春日大社の社伝によると、称徳天皇のとき(767年)、平城京鎮護のため、鹿島神宮の武甕槌命を春日大社の祭神に勧請した。この時、武甕槌命は白鹿に乗って御蓋山(三笠山)に来られたという伝説から、鹿を神鹿として保護敬愛した。すなわち、春日大社(奈良)の鹿は、鹿島神宮(茨城)から連れてこられたといえる。祭神は、武甕槌命(鹿島神宮の祭神)、経津主神(香取神宮の祭神)、天児屋命(枚岡神社北第一殿祭神)と比売神(枚岡神社第二殿祭神)を祀っている。
</引用>
という記述に当たり、ここで初めて、武甕槌命は「高天原族」の本拠地?から来たのではなく、先に茨城、もしくは北関東に定住していた先遣隊?の可能性があることが分かりました。従って「高天原族」も「出雲族」も「鹿島族」も、その源郷は同じだったのではないかと推測されるワケです。もしくは、イキナリ侵略と云う形を取らず「交渉」と云う選択肢を選んだということは、言葉が通じる間柄ではあったはずです。
「高天原族」の過去二度の国譲り交渉が失敗に終わったのは、「本国」からの使者を送り交渉に臨んだので「出雲族」にしてみれば、船に乗ってやって来る「高天原族」の兵力などたかが知れていると士気も昂ぶっていたのでしょうが、三度目の使者が同じ豊葦原中津国(日本)内に居を構える「鹿島族」の武甕槌命だったので、即刻、陸上戦を覚悟しなければならず形勢不利と見て「国譲り」に応じた。
そして「出雲国」を日本統一のパートナー・・・というか、侵略拠点に選んだ理由も、「大陸」に近かったから。例えるなら「ノルマンディー上陸作戦」ならぬ、「豊葦原中津国上陸作戦」の拠点にしたかったからでしょう。
・・・そう考えれば辻褄が合います(ワタシ的には)。そして、武甕槌命の下に訪れた天迦久神は鹿の神霊であったとの事ですが、彼?がわざわざ大陸から訪れたとするなら、「鹿」とは「スキタイ」の比喩に他ならないでしょう。と云うことは、「高天原族」も「出雲族」も「鹿島族」も、鹿を部族のシンボルとする騎馬民族集団「扶余」の構成部族だった可能性が高いように思うのです。
奈良の鹿に戻るのですが、先の疑問・・・ナゼ藤原氏は鹿島神宮(茨城)から神(武甕槌命)を勧請したのか?・・・が未だ残ります。八切止夫氏によれば、「源平籐橘」の四姓とは源=元、平=ペルシャ、籐=唐、橘=契丹(スキタイ)との事で、ナゼ?唐の藤原氏が鹿(スキタイ)を呼び寄せたのか今のところ見当がつきません。もし藤原氏が「高天原族」の末裔?であったなら理に適うんですケドね。
ま、調べ出すとキリが無いんで、このくらいで・・・
でわっ!