このところズッと「相撲」に関して書き続けているワケですが、今回もしつこく書きます。
唐突ですが、「試合」はその昔、「死合」と書いたのをご存知の方も多いかと思います。もうね、読んで字の如く、命のやり取りをしたワケですよ。それが明治期に入って、近代国家らしからぬと、確か?柔道の創始者である嘉納治五郎氏によって、「試合」と書き改められました。
武道を嗜む方はご存知ですが、武道の「試合」には「作法」が必ずあります。「礼」に始まり、「礼」に終わる。・・・などと言われまして、単なる「礼儀」と、殆どの人は考えているワケですが、では、「誰に対する礼儀なのか?」、「何に対する礼儀なのか?」、よくよく考えたことがあるでしょうか?
道場などにはよく「神棚」が設えられているので、「神」に対する「礼儀」だと思われがちですが、どうなんでしょうね?先に述べたように、「死合」とは、命を懸けた戦いであり、死ぬ覚悟を持って「死合」に臨んだワケです。昔の武芸者は・・・。自分が勝つという事は、すなわち、相手の命を奪うという事だと理解していました。
「無益な殺生」という言葉があるように、昔の人は、軽々しく生き物の命を奪うことを戒めました。しかしながら、「死合」の場において武芸者は、「無益な殺生」と知りつつも、お互いに命のやり取りをしなければならない時もあります。その境遇において、「相手の命」に対する尊厳の表れとして、「作法」が誕生した。つまり、武道における「作法」とは、「神」に対してのみではなく、「相手」の「死」に対してもあった。
・・・というのが、ワタシの個人的な見解なワケですが、さて前回、「土俵は神聖な場所」で、女人禁制の場所であることを述べましたが、なぜ女人禁制であるか?ま、日本古来?の考え方ですが、女性は「穢れた存在」だという考え方があります。
女性の方が不服に思われるのは当然ですが、こればっかりは仕方ありません。何故なら、女性には「生理」があるからです。「生理」の時に女性が流す「血」を以って、女性を「穢れた存在」と考えたワケですが、本質は、「血」なのです。「血」を流すことが、神話の時代より「穢れ」とされたワケです。
「土俵は神聖な場所である」という事実は、そこで「血」を流すことは厳禁であるという事です。つまり土俵上で、「試合=死合」が行われる事などありえないのです。ガチの取り組みなど、ハナから「神様」は望んでいない。・・・と、いうことです。
どうでしょう?ここまでで、「相撲」の本質を大体ご理解いただけましたか?相撲は格闘技のように、相手を叩きのめす事を好しとするスポーツとは違うのです。本来は、「神」に五穀豊穣や、国家安泰を願う、「祈りの儀式」であったワケです。国津神と天津神の融和の儀式でもあったワケです。だから「流血」を嫌うのです。ワタシが相撲と日本人のアイデンティティーに拘るのも、日本人がハイブリット民族として自覚を持たなければならないと思うからです。
<参照>
日本人のY染色体亜型の系統は?
</参照>
「儀式を執り行う当事者以外は儀式に介入するな。」と、ワタシが言っているのは、「力士」がですよ?本気で土俵上で闘ったら、流血どころか、死人だって出かねません。そんな事態になって、各相撲部屋の力士の数が減ってしまったら、「儀式」が執り行えなくなってしまう恐れがあるからです。「力士」の本分は、神に相撲を「奉納」することなのです。本来は。
まあ、そいった次第で、
春場所中止に断固反対!
するワケです。ワタシわ。
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でわっ!