このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
キツネ目の親分さんこと宮崎氏が、原発についての所感を述べております。
<3.11に思うこと> ー その1 ー
<3.11に思うこと> ー その2 ー
親分さんも言っているように、原発は後始末が出来ないワケです。ヤクザの言葉で言うならば、落とし前もつけない
外道
な存在なワケですが、そんな外道連中とつるんでいたら?事務所の壁に掛けてある(勝手な思い込み)「任侠」の看板も泣きますぜ。
で、それはそれとして、不謹慎を承知でついでになでしこジャパンとやくざを大胆に並べて考えてみるに、両者とも・・・
差別を受けている。
という点では同じゃなんじゃないか?と。
やくざのみなさんは「在日」とか「部落民」とかのレッテルを貼られ、なでしこジャパンのみなさんは女性だという「性差別」からか、待遇面で男子サッカー選手と格段の開きが見られます。優勝賞金男子は3000万円に対して、女子は150万円らしいですからねえ・・・。
そんな劣悪な環境の中でさえ、ワールドカップ優勝という偉業を男子より先に成し遂げたなでしこジャパンのみなさんにはホント、
頭が下がります。
選手の中には、スーパーのレジ打ちをしながら練習を続けた選手もいたそうですが、え?男子に同じ真似が出来ますか?正直ワタシ、サッカーには(・・・というかスポーツ全般に)あまり興味がないのでとやかく言う資格は無いのですが、それでも彼女たちなでしこジャパンが、
ワールドカップ優勝
という栄冠(偉業)を成し遂げたのは、途方も無い事だと理解できます。しかも、
逆境の中で。
イッタイ何が違うんですかね?男子サッカーと女子サッカーで?一重に、「サッカーに対する思い」じゃないですかね?簡単に言えば、
どれだけサッカーが好きか?
という思いではないか?・・・と。
なでしこジャパンのキャプテン澤穂希選手(府中市)なんて、もう32才なワケですよ。フツーだったら引退して家庭に収まっていてもオカシくない年齢ですし、ご両親もイイ歳した我が娘が、サーカーボールばかり追いかけているのを喜ぶとは思えません。本人だってそれは十分分かっていたと思います。
夢は叶えるものだ。
そう口にするのは簡単ですが、それを実行するには並大抵の努力や精神力じゃ足りません。大抵の人は途中で妥協したり、心が折れたりするでしょう。それもこれも、「どれだけサッカーが好きか?」という思い、情熱の強さ次第でしょう。
つまり、なでしこジャパンのみなさんは本当にサッカーが好きで好きで、その気持ちが世界一強かったからこそ、結果としてワールドカップ優勝という快挙を成し遂げられたのだと、ワタシは思うのです。
「サッカーが好き」というその純粋な心、その一途な心が彼女たちなでしこジャパンを世界の頂点に押し上げたのだとしたら、ワタシはそこに、ニーチェの言う「重力の魔」から開放された人間の姿を、重ね合わさずにはいられません。
そしてそれは全ての人に・・・特に日本人に、「人は重力の魔から開放されることが可能なのだ。」と、実践的に示してくれたのです。口先だけの「商売哲学者」などと違い、「自らの血」で証明してくれたワケです(ま、彼女らは哲学なんぞに興味はないでしょうが)。
思えば・・・中田選手が引退の折に綴ったメッセージが思い起こされますなあ。
<転載>
中田英寿 現役引退を表明 “新たな自分”探しの旅にと
<前略>
◇中田英選手のホームページから
“人生とは旅であり、旅とは人生である”
2006・7・3~1985年12月1日-2006年6月22日~
俺(おれ)が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。 あの頃(ころ)はボールを蹴ることに夢中になり、必死でゴールを決めることだけを目指した。そして、ひたすらゲームを楽しんだ。サッカーボールは常に傍(かたわ)らにあった。
<中略>
プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも子供のころに持っていたボールに対する瑞々(みずみず)しい感情は失われていった。
けれど、プロとして最後のゲームになった6月22日のブラジル戦の後、サッカーを愛して止まない自分が確かにいることが分かった。自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。
それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。
これまでは、周りのいろんな状況からそれを守る為、ある時はまるで感情が無いかのように無機的に、またある時には敢えて無愛想に振る舞った。しかし最後の最後、俺の心に存在した壁は崩れすべてが一気に溢(あふ)れ出した。
<後略>
みんな好きで始めたサッカーのハズなのに、その気持ちを純粋なまま持ち続けることはムズカシイのでしょう。それが「大人になる」ということなんですかね?だとしたら、「なでしこジャパン」は、大人になりきれなかったからこそ、ワールドカップ優勝という偉業を成し遂げられたとも言えます。・・・はい。
「サッカーが好きだ。」という純粋な気持ちに従って突き進んだからこそ、「重力の魔」から開放されたんじゃないでしょうか?
軽やかに笑う。
一心不乱に自分の好きな道、信じる道を進む時、そこに在るのは楽しいという感情ではないでしょうか。どんな苦しみも受け入れ、笑顔を浮かべながら前進できるのではないでしょうか?それこそがニーチェの言わんとする、「重力の魔」を、
笑えば殺すことができる。
の意味ではないかと思う次第です。そして「なでしこジャパン」は、ニーチェ哲学の深淵を、身を以って示してくれたのだと。
さらに言えば、「なでしこジャパン」が身を以って示してくれた事実は、いくらでも「応用」が可能なワケで、一例としてワタシたちは今、「脱原発社会」のスタート地点に立っているワケですが、その芽はまだ柔らかく、外部からの「圧力」や「劣悪な環境」に臆することなく、「脱原発社会」=「みんなが安心して暮らせる社会」を目指し、揺ぎ無い次の一歩を踏み出し続けなければと思う次第です。また当然、被災地の復興にしても同様です。
ツァラトストラかく語りき 上 (新潮文庫 ニ 1-1) [文庫]
ニーチェ (著), 竹山 道雄 (翻訳)
<抜粋>
「重力の魔」
わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって、一切の物は落ちる。怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!
ひたすら黙々と、ひややかにきしむ小石を踏みしめ、また足元を危うくする石塊(いしくれ)を踏みしだくようにして、わたしの足は、上へ、上へと努力してのぼって行った。上へ。──私の足を、下へ、深みへと引きおろすもの、私の悪魔であり、宿敵であるあの「重力の魔」にさからって。
</抜粋>
でわっ!