このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
えっと・・・、心と体をそれぞれ独立した存在だと考えると、「体」はクルマで、「心」はドライバーとも言えます。蛇足ですが、「運転に人柄が表れる。」とか、「ハンドルを握ると人格が変わる。」とか言われますが、ワタシの経験からすると・・・まあ、大体当たってます。
適切では無いかも知れませんが、植物人間という状態をこの例えに当てはめると、ドライバーが乗っていない、アイドリング状態で放置されたクルマ・・・の様な状態とも考えられます。
心と体は、独立した存在である。・・・という自論に従えば、植物人間状態に在る人には心が存在しないのか?・・・正直、わかりません。
体は目で見たり、手で触れたり、検査装置を使って状態の確認が出来ますが、心は心と触れ合うことでしか確められないのです。ひょっとしたら、深い昏睡状態の中でも、周囲にいる人の声や、気配を受け取っているかも知れませんし・・・。
大抵の人は自分の意識の管理下に体があると思っていますが、100%管理されているのでしょうか?試験前の一夜漬けで、徹夜で勉強しようと頑張っても睡魔に負けて爆睡してしまったり、先生に説教されている最中にオナラをしてしまったり、自分の意思とは無関係に体が反応するケースは多々あります。つまり・・・体は体で、勝手に生きている。のです。
人には「死」を・・・「自殺」を選ぶ自由があります。しかし、そもそも死を選ぶのは心であり、体ではありません。「体は体で、勝手に生きている。」・・・それは自然の摂理であり、「体」からすれば「自殺」なんぞは、心の無理心中の道連れにされる不条理でしかないでしょう。
「フェラーリ」を持っている人が(ポルシェでもイイですが)人生に悲観し、愛車と共に崖下にダイブして自殺したとします。で、もしそれを第三者のクルマ愛好家・・・カーマニアが知ったとしたら、
勿体無い。
と思うに違いありません。廃車にするくらいなら自分に譲ってくれ。・・・と。
同様に、ワタシくらいの棺桶に片足突っ込みかけた中年からすれば、若い身空で自殺を選び、「最新モデル」のクルマ(体)をワザワザ廃車にするなんて、出来ることなら乗り換えたいわ!・・・と思います。ホント。
心と体でワンセットであるにしても、それでも心は心、体は体で独立した存在であると意識すれば、心配事で胃が痛くなったり、体調不良から精神が不安定になるといった症例も、いくらかは改善されるんじゃないですかね?
脳の働きにも関連するでしょうから、完全に心と体を切り離すのは無理にしても、意識するだけでも随分違うんじゃないか?と。
心がどんなに落ち込んでいても、眠くなれば眠り、お腹が減れば何か食べたくなるものです。心=ドライバーと、体=クルマの二重の存在がワタシたちの実態であるならば、生きるという状態は、きっと心と体の共同作業であり、先に述べた植物人間と呼ばれる人であっても、体は勝手に・・・
それでも、生きて行く
・・・という事実から、どんなに人生(現状)が辛かろううと、体という乗り物さえ手放さなければ心も生き続ける。・・・というのが、一回目からの流れの辿り着いた終着点になるワケです。
心は形を持たないが故に、体が生き続ける限り何回でも再生と進化が可能なワケで、現在の環境がどんなに辛く苦しくても、心は必ず蘇る。・・・と言いたいワケです。
地震、原発事故から既に半年(一年の半分)が過ぎようという今も、「フク1」の周辺や、「津波被害」に遭われた住民の方々は過酷な生活環境にあり、不透明な未来に悲観している方も多いかと。
被災者でもないワタシが口を出すのは憚られるのですが、環境に心が負けてイイ理屈は無いのです。それは、体に心が負けるという事に他ならないのです。もし「なでしこJAPAN」が不遇な練習環境に負けていたら、ワールドカップ優勝など成し得なかったハズです。
上手く言えませんが、苛酷な環境の下にあろうと、それでも生きて欲しいのです。生き続けさえすれば・・・体という乗り物さえ手放さなければ、心は必ず再生する。・・・と、ワタシは信じます。
復興への道は遠く険しく、どのような形に収まるのかさえ未だ見えないにしても、
それでも、生きて行く。
少なくとも大人にその気概が無くて、どうして次の世代が未来に展望を見出せるでしょうか?100の言葉よりも、生きる覚悟を。生きて・・・生きて・・・生き抜いて、心の復興を果たさなければ日本の復興も果たせない。・・・と、思う次第です。
思えばワタシがベトナムに来た当初、通りに溢れるバイクがアリの群れの様に見えました。盲目の本能に突き動かされて生きるアリの群れの様だと。
しかしそれは、日本は先進国だという単なる思い上がりに過ぎないのだと、ベトナム人と交わり暮らす生活の中でやがて気付きました。
逆に、今の日本の現状の方こそ、生きるという事の「原点」を見失っているのではないか?と。・・・だからこそ、未だに原発推進などという「生命の原則」を無視した輩が、平気で蔓延っているのだと。
<転載>
エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を(9月7日付・読売社説)
◆再稼働で電力不足の解消急げ◆
電力をはじめとしたエネルギーの安定供給は、豊かな国民生活の維持に不可欠である。
ところが、福島第一原子力発電所の事故に伴い定期検査で停止した原発の運転再開にメドが立たず、電力不足が長期化している。
野田首相は、電力を「経済の血液」と位置づけ、安全が確認された原発を再稼働する方針を示している。唐突に「脱原発依存」を掲げた菅前首相とは一線を画す、現実的な対応は評価できる。
首相は将来も原発を活用し続けるかどうか、考えを明らかにしていない。この際、前首相の安易な「脱原発」に決別すべきだ。
◆節電だけでは足りない◆
東京電力と東北電力の管内で実施してきた15%の電力制限は、今週中にすべて解除される。
企業や家庭の節電努力で夏の電力危機をひとまず乗り切ったが、先行きは綱渡りだ。
全国54基の原発で動いているのは11基だ。再稼働できないと運転中の原発は年末には6基に減る。来春にはゼロになり、震災前の全発電量の3割が失われる。
そうなれば、電力不足の割合は来年夏に全国平均で9%、原発依存の高い関西電力管内では19%にも達する。今年より厳しい電力制限の実施が不可避だろう。
原発がなくなっても、節電さえすれば生活や産業に大きな影響はない、と考えるのは間違いだ。
不足分を火力発電で補うために必要な燃料費は3兆円を超え、料金に転嫁すると家庭で約2割、産業では4割近く値上がりするとの試算もある。震災と超円高に苦しむ産業界には大打撃となろう。
菅政権が再稼働の条件に導入したストレステスト(耐性検査)を着実に実施し、原発の運転再開を実現することが欠かせない。
電力各社が行ったテスト結果を評価する原子力安全・保安院と、それを確認する原子力安全委員会の責任は重い。
運転再開への最大の難関は、地元自治体の理解を得ることだ。原発の安全について国が責任を持ち、首相自ら説得にあたるなど、誠意ある対応が求められる。
野田首相は就任記者会見で、原発新設を「現実的に困難」とし、寿命がきた原子炉は廃炉にすると述べた。これについて鉢呂経済産業相は、報道各社のインタビューで、将来は基本的に「原発ゼロ」になるとの見通しを示した。
◆「新設断念」は早過ぎる◆
代替電源を確保する展望があるわけではないのに、原発新設の可能性を全否定するかのような見解を示すのは早すぎる。
首相は脱原発を示唆する一方、新興国などに原発の輸出を続け、原子力技術を蓄積する必要性を強調している。だが、原発の建設をやめた国から、原発を輸入する国があるとは思えない。
政府は現行の「エネルギー基本計画」を見直し、将来の原発依存度を引き下げる方向だ。首相は、原発が減る分の電力を、太陽光など自然エネルギーと節電でまかなう考えを示している。
国内自給できる自然エネルギーの拡大は望ましいが、水力を除けば全発電量の1%に過ぎない。現状では発電コストも高い。過大に期待するのは禁物である。
原子力と火力を含むエネルギーのベストな組み合わせについて、現状を踏まえた論議が重要だ。
日本が脱原発に向かうとすれば、原子力技術の衰退は避けられない。蓄積した高い技術と原発事故の教訓を、より安全な原子炉の開発などに活用していくことこそ、日本の責務と言えよう。
◆原子力技術の衰退防げ◆
高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきではない。
中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画している。日本が原発を輸出し、安全操業の技術も供与することは、原発事故のリスク低減に役立つはずだ。
日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。
首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して、エネルギー政策を推進すべきだ。
(2011年9月7日01時19分 読売新聞)
</転載>
ところで・・・ひとまず例の番組は放送されたようでヨカッタです。
でわっ!