2012年7月21日土曜日
たかが電気(を発電するだけ)のために
先日の、反原発10万人集会においての坂本龍一氏の、
たかが電気...
という発言が物議をかもしているようですが、ワタシはこの発言を、表題のように受け取りましたけどね?
【赤木智弘の眼光紙背】
忘れ去られてしまった、「お金の大切さ」
音楽業界に永く身を置き、過去にはYMOでシンセサイザーなどの電子楽器を使いまくっていた坂本氏であれば、「電気の大切さ」は十分理解しているでしょ?そう考えますケドね?ワタシは。
そういった坂本氏のプロフィールさえ知らず、「言葉狩り」に走る「知識人」、「メディア」って、一体ナンなんでしょ?
体のどこかに「アザ」があったからと、転んでできた「アザ」かも知れないのに、それを根拠に、
おまえは魔女だ!
と決め付ける、魔女狩りの審判官?のような振る舞いですなあ。もうね?終わってますわ。彼らは。
「終わっている連中」に付き合うのも時間の無駄なので、坂本氏の発言内容、「たかが電気を発電するだけのため」...について検証すると、この発言、区切り方で大きく印象が変わります。
1.たかが電気を、発電するだけのため。
2.たかが、電気を発電するだけのため。
1.の場合、電気そのものに否定的な意味づけが印象付けられますが、2.の場合は、発電の方に否定的な意味が置かれています。日本語は、かくも不思議な?変幻自在な?言語です。
このことは、発言内容を文字に起こすときに、「書き手の作為」によって「内容が正確に伝わらない」危険性を意味します。つまり、ある発言を文字に起こす場合、発言者のプロフィールや背後関係を理解した上でないと、その発言内容を正確には書き起こせないということです。
それなのにまあ、ネット、メディアを問わず、坂本氏の発言を「鬼の首を取った」かの如く騒ぎ立てる連中が多くて、
日本語はここまで劣化したのか?
と、目を覆うばかりの惨状ですなあ。もともとね?日本語って「主語」、「述語」が結構いい加減...というか、直接的な言い回しは角が立つので避けるきらいがあるワケですよ。ま、良くも悪くも、「情」を大切にしてきたワケです。「言わなくても分かるでしょ?」とか、「察してよ!」とか、「惻隠の情」とか、「阿吽の呼吸」とか。
そういった「情文化」の、悪い側面も勿論あります。「情」に縛られると「場の空気」に支配され、今回散々叩かれている「原子力村」のような、閉鎖的な共通心理=「情」に縛られた集団が発生するという問題です。
近代以前は、そうした「村」が問題を起こしても、発生する被害は局所に限定されていましたが、テクノロジーの進歩により被害の大きさも格段にあがり、その影響も広範囲に及ぶようになった現在、ちまちました「村意識」だけでは対処できない、もっと大きな問題が発生することを理解しなければなりません。
つまるところ、「旧世界」とはそうした「小さな村意識」から脱却できないし、また、その「小さな村意識」を糧に利権を貪っているが故に、そもそも脱却する気が無い集団とも言えます。だからこそ彼らとは戦うのでなく、
旧世界は死んだ!
...と、ワタシは見なすワケです。よろしいでしょうか?
そして「新世界」とは、「小さな村意識」を越えて、その外側に存在する「さらに大きな村意識」に目覚めよう。...と、いうことで、個人と全体との関係性を明確に理解し、「大きな村意識」に基づいて社会を再構築する必要がある。...とまあ、何度か述べてきたワケです。
3.11の自然災害および原発事故は、日本という国に大きな傷跡を残しましたし、現在もその傷は癒えていません。そんな状況の中で、ワタシたちは多くのことも同時に学びました。いままで無関心であった「原子力発電」というものが、ひとたび事故に見舞われるとどれだけ広範囲にその被害を及ぼすか。
そしてその被害に対して、ワタシたちがどれだけ無力であるか、政府がどれだけ無力であるかを痛感しました。
事故が発生すれば双葉町や福島県だけの問題に留まらず、さらに広範囲の自治体にも被害が及び、「小さな村意識」に凝り固まっていても問題は解決しないのです。「小さい村」だろうが「大きい村」だろうが、
同じ命
だということに、多くの人が気付いたのです(一部には気付かない人たちもいますが)。
「命」という普遍的な価値観を共有した、「大きな村」が形成されつつあるのです。「大きな情」が形成されつつあるのです。全国に広まる反原発運動は、「大きな情」に突き動かされているとも言えます。それは神道における「八百万精神」のような、スピノザが言うところの「万物に宿る神」のような、「より大きなシステムの存在」に目覚めたということなのです。
日本人が培ってきた「情」を捨てる必要はありません。しかし、先の坂本氏の発言に対する「揚げ足取り」のさまを見るに、日本人なら本来持っているはずの、
情と感性
すらも、文部科学省の教育指導の悪弊で失われようとしているのではないか?...と、思わずにはいられない次第です。何で?ダンスが必修科目になるのか、皆目見当がつきません。
<転載>
中学校武道・ダンスの必修化
文部科学省HP
文部科学省では、平成20年3月28日に中学校学習指導要領の改訂を告示し、新学習指導要領では中学校保健体育において、武道・ダンスを含めたすべての領域を必修とすることとしました。
武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化であり、相手の動きに応じて、基本動作や基本となる技を身に付け、相手を攻撃したり相手の技を防御したりすることによって、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動です。また、武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動です。
ダンスは、「創作ダンス」、「フォークダンス」、「現代的なリズムのダンス」で構成され、イメージをとらえた表現や踊りを通した交流を通して仲間とのコミュニケーションを豊かにすることを重視する運動で、仲間とともに感じを込めて踊ったり、イメージをとらえて自己を表現したりすることに楽しさや喜びを味わうことのできる運動です。
</転載>
ま、武道にしても、「必修」にする必要はないと思いますが、何かね?カン違いも甚だしいです。「創造力」なんて無理やり伸ばすもんじゃないし、強制(必修)される方もたまりません。
ほっといてくれ!
...というのが、偽らざる気持ちじゃなかろうかと?
「創造力」、「想像力」は、自発的に芽生えるものです。その芽が伸びるのを、邪魔しなければイイだけの話です。芽が伸びるのに必要な養分(環境)を与えれば、あとは勝手に伸びます。それを自分好みにしよう(優等生にしよう)と文部科学省がイジクリまわすから、教育現場が歪むのです。まったく...。
発案者!出て来い!
おっと、また話が逸れました。
人間ナメんなよ!
でわっ!