2013年5月30日木曜日
地元愛
前回、田中隆作氏のブログ記事の件で、言葉の「上げ足取り」のようなツマラナイ記事を書き、ワタシ自身がチョット大人気なかったな・・・と、反省してます。
要は、「子供でも知っている」・・・という言い回しに、「カチン!」ときたワケですよ。で、それだけならまだしも、「大阪」という具体的な地名を頭に付けることで、事実の信憑性を演出するやり方に。
そもそも、「子供でも知っている」ようなことがまかり通っているのであれば、それを「悪」と呼べるのか?・・・と、疑問にもなるワケですよ。
社会的に受け入れられていることの証でもあり、ワタシの持論からすると、「許容悪」として社会と共存できる範疇の問題ではないのか?・・・となるワケです。
大阪に限らず、日本中にその地方独特の文化があり、異なった文化圏同士では到底受け入れられない文化、風習であっても、地元の人間にとっては、「コミュニティー」を維持するためには必要なワケです。
例えば秋田でしたかね?「なまはげ」という風習がありますが、鬼の格好をして子供を恐怖に陥れるというアレ、見方によっては幼児虐待ですわなw。
心理学的に言わせれば、子供の心に「心的外傷(PTSD)」を負わせる非人道的な風習であり、即刻禁止にすべきである・・・と、声を上げる人権擁護派が現れても不思議ではありません。
が、ジッサイはそんなことを言い出す「野暮な大人」は現れず、ニュースなどで、のどかな日常の一コマとして報じられるだけですし、もし「なまはげ」が、非人道的で子供の人権を無視している・・・と非難されたら、秋田県民は文化を否定され、大いに傷つくことでしょう。
ま、たまたま思い浮かんだ「なまはげ」を例にしましたが、それ以外にも、「捕鯨」であるとか、アイヌの「熊殺し」の祭りであるとか、上田の「ふんどし神輿(女性)」であるとか、川崎の「かなまら様」であるとか、長良川の「鵜飼い」であるとか、外国の人権、動物愛護団体が見たら眉をひそめるような風習(文化)が、この日本にはてんこ盛りなワケですよ。
「芸者」は日本文化だと多くの人はいいますが、元を辿ればアレだって「売春」がルーツにあり、ということはですよ?「売春文化」をですよ?
クールジャパン!
・・・とか言って、世界中に紹介しているんだから、世界基準から見ればトンだ大間抜けですなw。
恥ずかしくないですかw!?
というワケで、何が言いたかったのか自分でも混乱してきたので整理すると、
(1)日本にはその地方独特の文化があり、それらは「許容悪」という範疇の内にある限り、最大限尊重されなければならない。
(2)しかしながら「許容悪」という概念も、あくまでも日本国内で通用する概念であり、諸外国(欧米)からすれば「異質な文化」でしかない。
(3)過去の因習、悪習を改め、日本を「村社会」から脱皮させる時に来ているが、それによってコミュニティーが崩壊することは避けることを、念頭に置く必要がある。
(4)そのためには、自分の所属する「村コミュニティー」を、より高い次元から俯瞰し、全体を理解する知性が求められる。
ひとまずこのくらいかと思いますが、(4)の、自分の属するコミュニティーをより高い次元から「俯瞰」するには、「情報」が重要になります。情報量が多いほど、「より高い次元」からの「視点」が可能になるワケです。
しかし、人は「欲望(エゴ)」に囚われると、自分に都合の悪い情報を切り捨て、受け入れなくなってしまい、「より高い次元」に進むことを自ら拒否します。これは「理性の敗北」であり、「人間の進歩の停滞」でしかありません。
具体的に言えば、今回の橋下市長の「従軍慰安婦」に関する発言の発端には、
1.橋下市長の従軍慰安婦認識
2.在日米軍兵士の性犯罪
・・・という、ふたつの問題が含まれていることは、もう何度も繰り返してきましたが、メディアでもネットでも大きく取り上げられるのは1の方ばかりで、それもほとんどが、橋下市長の「人格」に対する攻撃のような論調ばかりで、ワタシには、「不毛」な議論に終始しているように映ります。
方や2については、ほとんどのメディア、知識人はスルーしており、あれほど「日本の自主独立」を訴えていた論客たちは、何処へ行ってしまったんだ?・・・という有様で、情報の取捨選択が行われていることが、如実に現れています。
つまり、所謂「人権屋」と呼ばれる連中は、「より高い次元」から全体を見ようとする「知性」に欠けているか、もしくは「人権業」を守るために、敢えて「より高い次元」に上がることを拒否しているかの、どちらかだということです。
なんだか、「地元愛」というタイトルとは全然違う内容になってしまいましたが、最後に無理やり?まとめるなら、「地元」とは自分が生まれ育った「コミュニティー」であり、それを守ろうとする心が「地元愛」であり、そのためには、時代の変化に則した「より高い次元」からの視点を持たなくては、「異文化」からの攻撃に対応できない・・・と、なるワケです。
さらに言うならば、「異文化」から攻撃を受けても、それをも包み込んでしまう「より高い次元」に到達することが、争いごとを避けるための「知性」であり、究極的には、
同じ人間だろ?
・・・という、シンプルな現実を受け入れられるかどうかであり、自分という一人の人間の存在を突き詰める、
人間回帰
・・・の意識運動(個人革命)が必要であると、繰り返し述べてきているワケです。はい。
人間ナメんなよ!
でわっ!