日々ネット上で多くの名のある論客、評論家が自らの見解を述べているワケですが、そのような華々しい方々から見ればワタシの見解なんて戯言にしか映らないでしょうなwww。ま、それは自分でも重々解っているのですが、それでも戯言を言い続ける自分て、イッタイ何がしたいんだろう?
えwwwっと・・・、「SPEC」の第5話を見たばかりなのですが、当麻刑事と瀬文刑事の会話で・・・
瀬文 「俺は命を賭けても、二人の幸せは守る。」
当麻 「私情は禁物です。でも・・・はい。」
で、この会話からワタシ感じるところがありまして。事、警察などの「公共に奉仕」する職務は私情を挟まない事が求められます。これは当然の事で、自分の身内の犯罪をもみ消したり、地元に有利な案件、一企業の便宜を図るような政策をヤラれた日にゃwww
税金を私物化するな!
・・・と、一揆が起きても当然です。はい。
しかし、よくよく考えてみれば、人を動かすのは情に他ならないのではないでしょうか?例えば警官が「庶民を犯罪から守りたい。」と思うのも、私情の表れに他なりません。してみれば、私情をナンか良くないものと決め付けるのも、チョット違うんじゃないか?と。
私情・・・私利・・・私欲・・・。人は所詮、個に還るのではないでしょうか?誰もがみんな、「自分の心臓ひとつ」で生きています。他人の心臓や臓器を借りながら生きている人はマズいないでしょう。
「愛」という感情も、突き詰めれば「私情」であり、愛という普遍的な感情が存在するワケではありません。愛という状態が存在するワケで、その状態に、みんなが「共感」するのではないでしょうか?
いうなれば、誰かが「お腹が減った。」と言った時に、その状態を自分のものとして「再現」できるようなもだと。
「私情」に対して「公情」といった概念は存在せず、代わりにあるのが「共感」ではないか?と。つまり、「情」はあくまでも「個」としてのみ存在する。したがって、人と人とを繋ぐ上で重要なのは私的な感情ではなく、生物としての肉体的な欲求や感覚になるのではないか?と。
共感する。
この事が人間が「社会」を成す上で、一番重要な要素のように思えます。如何なるゴリッパな主義主張も、「共感」が得られないとしたら、それは社会にとって望まれないからだろうと思うのです。そして「共感」とは結局、生物としての生存本能に深く係わるが故に、エリートたち(脳みそを駆使して生きる人たち)にすれば、「共感」を得られない庶民が愚かな存在に見えるのかもしれません。それが、近代理性と持て囃される「欧米型の思想」なのかも知れませんなあ。
以前、「東洋哲学と西洋哲学」と云う記事の中で・・・
問題を包括するのが東洋哲学
問題を創造するのが西洋哲学
と書きましたが、これはあくまでも自分の感覚のみで書いたので、じゃあ具体的にどうか?と問われても答えようがありませんでした。勿論、学者でもなく、西洋哲学にも東洋哲学にも造詣が深いワケではないので・・・当然です。
しかし今回、自分なりに辿り着いたのは「共感」という状態の捉え方です。「愛」を例に挙げれば、古今東西の思想家や哲学者が「愛」についての文章を残していますが、誰一人として「万人に共通する愛の形」を提示してません(いやマジで)。愛という状態をイロイロな角度から語っているに過ぎず、その意味で現在恋愛中の方々は、古今東西のあらゆる賢人と、いまこの瞬間・・・肩を並べている。・・・と、言えるんじゃないでしょうか?
一番身近にある「愛」についても、誰一人未だに答えが出せないのです。そこにあるのは只、愛という状態に「共感」する人間の姿だけです。然るに近代理性(欧米型)は何かと愛を私情の・・・もとい、至上の理性として掲げているのが不思議です。愛と云う感情を掘り下げて行けば、そこに在るのは、動物的な本能に根ざした感情のようにワタシには思えるからです。
「理性」を重んじ、数々の主義・主張を唱え、「共感」の代わりに「理性」を社会において普遍的な存在と考えた・・・。
その矛盾から問題も沢山生まれるでしょうよ。そして、その問題解決を生活の糧にしたのが「思想家・知識人」と呼ばれる人たちで、それが西洋哲学の問題を錬金する方法であった様に思えるワケです。
東洋哲学・・・所謂、汎神論的な考え方、ま、日本人ですから「八百万精神」を例に挙げますが、全ての物の存在を水平に、横並びに見る。これは、同じ時間と空間を共有する、全ての存在に対する「共感」と捉えられるのではないでしょうか?つまり、「八百万精神」・・・ひいては、東洋哲学の根幹は「共感」にある。・・・と。
したがって、その哲学の立脚する処は無機質な「理性」などではなく、むしろ「共感」を伴う「動物的な感情」に根ざしていると。
であればこそ、個々の問題も「共感」というフィルターを通す事で、まず・・・「生きて行く上で重要か?」という選別が、恐らく無意識下で成され、問題に対する「共感」の上で物事が決められて来たように、ワタシには考えられるワケです。はい。
共感の欠如
が、現代社会の姿かも知れません。だとしたらそれは、「生命の原点」を忘れかけた危険な状態のように思えます。だからワタシの中の本能が、「危険だ!」と警報を発しているのかも知れません。
自分自身が単なる一生物に過ぎないこと。その事実を忘れてしまうと、日本人にしても、人類全体にしても、発展・進化の道を見誤るだろうことを、人類誕生の瞬間からずっと受け継いでいるDNAが警告しているのかも知れません。そしてそれが、ワタシにブログを書き始めたキッカケかも知れません。
ジッサイ・・・自分でも自問することがありますが(正直メンドクサイ)、ワケが解らないままにズルズルと書き続けているワケです。はい。
で、「共感」が動物的な本能に根ざした感情であれば、人間として一番動物に近い「幼子」がその感情が一番豊かであると思われるワケで、「知識」という毒(三島由紀夫氏曰く)に犯されていない「幼子」の言う事に、ハッ!っと気付かされる大人も多いのではなかろうか?・・・と。イエス・キリストは言いました・・・
幼子を私から遠ざけてはならない。
そしてニーチェは「精神の三態変化」にて、人の精神はラクダからライオンに、そして・・・
最終的に幼子になる。
・・・と、「ツァラトゥストラ・・・」の中で述べています。子供の言う事には一理どころか、「真理」があるかも知れませんなwww。
でわっ!