2012年6月16日土曜日

産みの苦しみ

    
 昨夕、首相官邸前に集まった「大飯原発再稼動反対」を訴える人たちの数は、主催者?側の発表によると、1万人を超えたそうです。しかし不思議なのは、これだけの人数が集まった抗議行動が一切報道されないという、日本の報道機関の報道姿勢です。


報道規制?

言論統制?


 報道関係者が事態を無視し事実を隠蔽?しようとしても、現在のネット空間においては「事実」を隠し果せるものではないですし、そうした態度は、ますます報道機関に対する不審・不信を増長させるだけです。


2012.6.15 首相官邸前 大飯原発再稼働反対デモ 11000人参加




 この動画にしても、先日の動画にしてもそうですが、報道機関が報道を自粛?自制?しようが、もはや一人一人が携帯電話、スマホを所持する社会においては、誰もが即、「現場記者」であり「ニュース発信者」になれるワケです。そうなると、従来の報道機関の存在意義はどこにあるのか?

 ワタシはそこに、「責任」の二文字があるかどうかだと思うワケです。個人発信のニュースは基本的に責任を負いません。発信する個人のご都合により、事実と反するニュースも流されるでしょう。所謂「デマ」とか。

 それでもネット上に流れる膨大な個人発信ニュースの数々を比較検討し、ニュースの「確かさ」を類推することは可能なワケで、それが「メディア・リテラシー」と呼ばれるものですよね?

 ただ、そういった「作業」がニガ手な人たち...「デジタル・ディバイド」と呼ばれる、PCの操作やスマホ・携帯の操作に疎い人たちや、ネット空間に縁のない人たちもある程度存在するワケで、一概に既存メディアの不要論を唱えるのも性急です。

 であれば、既存のメディアが生き残る?には、そういった「デジタル・ディバイド」とみられる人たちに代わり膨大なニュースの中から、「何が確かか?」という選別作業を「責任」を持って行い、そして「報道」する他はないのでは?勿論、自前で取材できればそれに越したことはないのでしょうが。

 そしてその「責任」とか「使命」とかは、「公共性」に基ずくものであり、個人発信のニュースに「公共性」が無いとは言いませんが、より高い次元...先の「デジタル・ディバイド」と見做される人たちをも含めたニュース報道の在り方を考えれば、既存の報道機関の役割もまだ残されているように思えます。

 最新ニュースの発信のメインストリームの立場はネットに譲ることになりますが、報道内容に対する「信頼性」という「ステータス」は維持することも可能です。しかし話は戻りますが、報道すべきこと報道せず、且つ、報道の内容に外部からの操作が加えられているかのような現在の報道姿勢は、ネットから情報を収集できる人たちから見れば


イカサマ報道


以外のなにものでもなく、報道機関の信頼性は失墜の一途を辿っていると言えます。

 さて、日本では「反原発」が、アイスランドでは「反金融」が、エジプトでは「反独裁」が...と、アチコチで「一般の人たちによる闘い」が繰り広げられています。


山崎淑子の「生き抜く」ジャーナル!




<転載>

エジプト大統領選 違憲判断で同胞団窮地に
2012年6月16日 朝刊 東京新聞

 【カイロ=今村実】ムバラク政権の崩壊後、初となるエジプト大統領選は十六日、決選投票が始まる。十七日まで。政権崩壊直後の人民議会(国会)選が違憲との憲法裁判断が、十四日に下され、議会は解散、再選挙の可能性が高い。議会に続いて権力独占を狙った穏健派イスラム原理主義組織ムスリム同胞団は、一転して窮地に陥っている。

(以下略)

</転載>


同じ人間だろ?


 ということです。みんなが、自分たちを縛り付けている「不条理」に対して、「NO!」と言っているだけです。それは日本人だって同じなワケで、そこに「イデオロギー」もへったくれもないワケです。

 「イデオロギー」といえばワタシも散々「反原発」を繰り返してきましたが、考えてみれば「反~」というのもイデオロギー臭い言葉ですなw。

 「反」に対しては「賛」が存在し、ひとつの命題に対する「選択」という「対立」が生じます。その過程において、「原発」という存在が「対立の軸」であるが故に、「反」にとっても「賛」にとっても「同価値の存在」になるワケです。

 つまり、「原発」を軸にして「反」も「賛」も存在しているワケですが、ワタシたちが本質的な問題にしているのは、


生きるか?死ぬか?


という「生命の尊厳」であり、そこに「賛成 VS 反対」の対立が存在します?フツーに考えて、100人いたら100人が生きたいと思うんじゃないですかね?ま、残念ながら、最近の日本では自殺者が増える傾向にあるようですが。

 それもこれも、「生きたい」と思える社会環境に無いからだとも思えるワケです。生きてても「何かイイことあんの?」という厭世観、「自分なんか...」という自己嫌悪感は、結局のトコロ、殆どが社会との係わりのなかで生じます。

 であれば、社会を根本的に変革しなければ諸問題の解決は見られないでしょうし、そのための第一歩として


生きる意志


を明確に持った社会が必要とされるのではないでしょうか?で、その意思を誰にでもわかり易く表明するならば、ワタシたちが生きる上で


原発は必要ない!


という結論になるんじゃないか?と。

 「核」の技術に関する研究までヤメロと言っているワケではありません。今まで貯めに貯めこんだ「核廃棄物」の処理をどうするか?それに向けての研究は必要不可欠なワケですし、そしていつの日か、「核反応」を完全に制御(後始末も含めて)可能な技術が確立できたとき、改めて「核」によるエネルギーの取り出しに取り組めばイイんです。


それが大人というもの


でしょ?

 「核」を、ごく一部の学者のオモチャや、利権を漁る連中の金儲けの道具や、政治・軍事の駆け引きの道具とするのは、もう止めて貰いたいワケですよ。

 日本という活動の場、生活の場の存亡に係わる、一番根本的な問題...というか、問題以前にもう既に、


生きるか?死ぬか?


という状況にあるワケですよ、ワタシたち日本人は。「イデオロギー云々...」を言っている場合じゃ無いワケです。


ただちに人体に影響はありません。


 その言葉の「真意」は、


いずれ人体に影響があらわれます。


という「詭弁」なんです。わかるでしょ?

 現在でも「真綿で首を絞める」ような状態に置かれているというのに、大飯原発を再稼動させ、更に悪い状況に日本を追い込むつもりなら、正気の沙汰とは思えません。ハッキリ言って


狂気!


としか言いようがありません。野田首相の個人判断であれば尚更のこと、頭のオカシイ首相に日本を任せることはできませんし、即刻首相を解任することが、アイスランドやエジプトの人たちにも馬鹿にされない、近代理性に基づく民主主義の在り方なんじゃないでしょうか?


山崎淑子の「生き抜く」ジャーナル!

野田首相に問う!そもそも[衆議院の解散権]は総理大臣にあるのか?転載【YYNews】■[衆議院の解散権]は総理大臣にあるのではなく[国権の最高機関(日本国憲法第41条)]である衆議院自身にある! 6/12 山﨑康彦氏、[三権分立の原則]は日本国憲法のどこにも書かれていない。

<抜粋>

日本国憲法に規定されていることは[国会は国権の最高機関である]という国会の優位性。第41条には[国会は国権の最高機関であって国会は唯一の立法機関である]と規定。すなわち国会は内閣と司法の上部に位置する国権の最高機関である規定している。

</抜粋>


 ワタシたちの「代表者」であるはずの「国会議員」は、イッタイ何をしてるんですかね?ワタシたちと一緒に闘う気が無いんですかね?

 最後に、チェ・ゲバラが娘たちに送った、「別れの手紙」から...。


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わが子たちへ

 愛するイルディータ、アレイディータ、カミーロ、セーリアそしてエルネスト、もしいつかお前たちがこの手紙を読まなくてはならなくなった時、それはパパがもうお前たちの間にはいないからだ。

 お前たちはもう私を思い出さないかもしれない、とくに小さい子供達は何も覚えていないかもしれない。

 お前たちの父はいつも考えた通りに行動してきた人間であり、みずからの信念に忠実であった。

 すぐれた革命家として成長しなさい。それによって自然を支配することのできる技術を習得するためにたくさん勉強しなさい。また次のことを覚えておきなさい。革命は最も重要なものであり、またわれわれの一人一人は(ばらばらであるかぎり)何の価値もないのだということを。

 とりわけ、世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それが一人の革命家のもっとも美しい資質なのだ。

さようなら、わが子たち、まだ私はお前たちに会いたいと思う。しかし今はただバパの最大のキスと抱擁を送る。


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 「他人に対する思いやり」を持つことが、革命家の最も重要な資質である。...と、ゲバラは言ってるワケですが、ワタシが繰り返し述べてきた「個人革命」とは、実はそんな些細なことなワケです。革命は、


他人に対する思いやり


から始まるものであり、特別な人間のみが革命を成し遂げられるワケではないのです。そういった意味で、




バカの壁


は、良質な「革命の手引書」とも言えるでしょう。

 では、「他人に対する思いやり」が革命の基本?だとしたら、革命は「反社会的」と言えるのでしょうか?


否っ!断じて否であるっ!


と言わざるを得ません。逆に、他人との共存を望む「社会的行動」であると言えます。つまり、「革命」が必要とされる社会こそが「反社会的」であり、その社会システムに君臨する指導者こそが「反社会的分子」である!

 と、従来の考え方を180度転換(個人革命)する必要が生まれます。

 ああ、これでやっと全てが繋がりました。長い道のりでしたわw。

 ついでに、現在シリアでは何が行われているのか?シリアの人たちの苦境を見過ごす事は、いずれ同じ事が自分たちの身にも降りかかると自覚したほうがイイかも知れません。


自由と独立を奪うシステム


は、世界中に存在してます。

 そしてそうならないよう、「世界中のワタシたち」は理不尽に行われる「不正」に対して、常に闘いの手を緩めてはならないし、また、ネットで「世界中のワタシたち」は繋がり、「協力関係」を構築できるということを意識する必要があるでしょう。特に未来を託された「若い人たち」は...。

 世界はいま...


陣痛の痛みの中にある。


...のでしょう。



人間ナメんなよ!


でわっ!