2010年6月29日火曜日

「知る」ところから始めよう



なぜ日本人は日本を愛せないのか - この不幸な国の行方
[単行本] カレル ヴァン・ウォルフレン (著), Karel van Wolferen (原著), 大原 進 (翻訳)

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 いやが上にも盛り上がってまいりましたwww!?この夏の参議院選挙。で、7月11日の投票日までにまだ暫く時間があるので、この国、「日本」の未来をより良くするためにワタシタチが取るべき行動とは何か?を再考する上での一助として、かの本を読んでみるのもいいのでわ?・・・と思った次第です。はい。


<抜粋>

最も参考になったカスタマーレビュー

24 人中、18人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 アメリカの大学の教科書です, 2005/6/25
By So.b.it - レビューをすべて見る
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レビュー対象商品: なぜ日本人は日本を愛せないのか―この不幸な国の行方 (単行本)

 この本はアメリカの大学の日本文化の授業で必ず教科書になっています。それだけ、典型的で、なおかつ特殊な文化ということなのでしょうか?

 これを読んでいると、その通り『日本は生きズらいのよ』と思うのですが、じゃあどうしたらいいというのだ!と叫びたくなります!北朝鮮の国民だって自分の国の悪いところに気づいていると思うけれども、何かできることがあるの?と、いうのと似たような、とてもどうしようもない気分に襲われてしまいます。もっと言うなら、通信簿を目の前にして、悪いところを一つ一つ確認させられる感じがしました。『おちつきがない』とかの先生のコメントまで、みんなの前で確認させられる感じ!

 欧米人の言うことは解かるけれども、どうしようもできなくて悲しいです。

</抜粋>


よく・・・

「外国人に日本の文化は深く理解できない」

とか・・・

「日本の文化、伝統は島国ゆえに独自である」

とか・・・自己満足的な日本論にワタシタチは引きこもりがちになりますが、実は日本の実体を一番分かっていないのはワタシタチ日本国民なんじゃないの?でもって、諸外国の方がそんな日本の実情を理解していて、例えばアメリカとかにいい様にあしらわれているんじゃないの?・・・と、杞憂が募る今日この頃。

「己を知り相手を知れば、百戦危うからず」

孫子は誰でも知っていますし、その通りだと同意するハズです。で、日本の場合・・・

「相手を知るが己を知らず、百戦負け続け」

なんじゃwwwないの?海外在住者の客観的な目から見るに・・・


でわっ!

2010年6月27日日曜日

変節

 えwww変わりやすいものの例えとして、「女心と秋の空」などと申しますが近頃では・・・「政治家と秋の空」と云ったところでしょうか?ま、選挙も近いんでご参考までに下記リンクをご照覧下さい。

日本人よ! 誇りを持て
http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/kenpo43-1.htm


 そこに「悪政」がある時、「悪政」に立ち向かうのは「マスコミ」「評論家」などではなく、われわれ「国民自身」である事を自覚しなくては、何も変わらないでしょう。その為に「憲法」によって「権力者」から、一部の「支配層」から守られているのですから。

 ま、何を以て「悪政」とするかはイロイロご意見がありましょうが、コレなんぞは典型的な「悪政」の表れではないかと思う次第です。はい。


<貼付け>

消費税増税論議「国民も理解」 野田財務相、米駐日大使に説明

6月25日13時26分配信 産経新聞

 野田佳彦財務相は25日午前、都内で、ルース米駐日大使と会談した。野田財務相は参院選の争点となっている消費税率引き上げの議論について、「国民もだんだん理解し始めている」と述べた。

 会談は、ルース大使が要望した。同大使は消費税のほか、日本経済の現状や成長戦略について質問した。

 これに対し財務相は「日本経済は自律的な回復基盤はできつつある」との認識を示し、今月18日に閣議決定した新成長戦略を確実に実行していくことを説明した。

 また、26日からカナダ・トロントで開かれる20カ国・地域首脳会議(G20)でも、新成長戦略と財政再建目標を盛り込んだ財政運営戦略を合わせて説明する方針も伝えた。

</貼付け>


でわっ!

2010年6月20日日曜日

人間と戦争

 ワタシの叔父はWW2の時に南方の戦場に行きました。幸い生きて帰ることが出来たのですが、帰還後、親との折り合いが悪くなり実家を飛び出してしましました。

 両親から叔父について詳しく聞かされたことも無く、ワタシもあえて訊ねなかったので想像に頼るしかないのですが、生きて戦地から戻った人たちにとって、あの戦争は一体何だったのだろう?と云う思いは多少あったのではないか?と。

 戦地に送り出される前には英雄の如く扱われたのに、終わってみれば戦争そのものを否定され、死んでいった戦友たちは一体何の為に命を落としたのか?と。

 WW2はやむにやまれぬ事情が有ったと云う論調がありますが、であれば、WW2には日本なりの「大義」があったハズ。そして「大義」とは、戦争に勝とうが負けようが折れることの無い、誇り高いものであるハズ。

 是非はひとまず置いておくとして、現在イラクで多発しているテロにしても、アメリカに侵略されようが屈しない「大義」がそこにあるからではないでしょうか?

 翻って、日本は敗戦後にその「大義」をあっさりと捨ててしまいました。その事に、実際に戦地で戦って来た叔父の様な人たちが不満を持ったとしても当然でしょう。

 ワタシは戦争を否定します。煽っているワケではありません。所詮、日本を戦争に向かわせた「大義」なんて、その程度のものだったと云う事です。どこかの誰かが「捏造」した、勝手な「大義」だったと云う事です。

 然るに、日本国民を煽り、多くの戦死者を出し、一億総玉砕などという日本滅亡のシナリオを描いていた責任者は、その責任を取ったのでしょうか?ワタシにはそうは思えません。

 確かに東京裁判で裁かれた軍部の人間はいます。が、彼らだけだったのでしょうか?他にも責任を負うべき人間がたくさんいたのではないでしょうか?GHQとの取引で恩赦となった、岸、児玉のような人間がGHQの手先となり、戦後の日本を動かしたのではないでしょうか?

 で、普天間基地・・・に限らず、日米安全保障に関る案件が常に問題を引き起こすウラには、日本人自身が先の大戦を総括していないと云う点に問題が有ると思う次第です。

 実家を飛び出した叔父も既に鬼籍に入ってしまいましたが、もしワタシが叔父と同じような立場だったら、おそらくやるせない想いで最後を迎えたのではないかと思うワケです。先に戦場で死んでいった戦友の事。背負っていたハズの「大義」を否定されてしまった事。あれだけ憎んでいたアメリカが、戦後はアメリカ様さまと拝められる事・・・

何の為に命を賭けたのだ!?

 ・・・と。

 日本の独立と云う論調がインターネット上で見受けられる様になりましたが、チョット前までは考えられなかった事です。日本人誰もが日本は独立国だと思い込んでいたのですから。でも蓋を開けてみたら、

どうも違うらしいぞ?

 ・・・と。

 しかし、この様な事態を招いたのは他ならない、日本人自身の責任なのです。軍部に騙された・・・マスコミに騙された・・・と被害者意識のみで、自分はどうなのか?と云う自らの「大義」を戦後持ち得なかったことが、こんにちの日本の現状を招いたとは言えないでしょうか?

 重ねて言いますが、ワタシは戦争反対派です。ワタシの言う「大義」は戦争とは相容れません。人間の、個人の尊厳を踏みにじる戦争、および武力紛争を断固否定します。それが、尊厳を踏みにじられたまま一生を終えた叔父に対する、ワタシが出来る唯一の供養?の様に思えるからです。


<引用>

『戦争責任者の問題』

<前略>

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

<後略>

(『映画春秋』昭和二十一年八月号)

</引用>



でわっ!

2010年6月16日水曜日

ウチの近所にサークルK

 ・・・が出店したんで早速買い物に行ってきました。少し前にファミリーマートが進出したということで、ホーチミン在住の日本人の間で話題になったのですが、いかんせん出店した場所がローカル地区で、周辺に日本人はほとんど住んでいません。
 
 聞くところでは、ファミリーマートグループの対象顧客はベトナム人ということで、ま、ベトナムに店を出すので当然と言えば当然なんですが、行った人の感想ではすっかりローカライズされているみたいで、日本スタイルのコンビニの進出を待ち望んでいたワタシは肩透かしを食らったような気分ですわ。自宅からも遠いのでまだ一度も行って無いのですが、日本並みのクオリティーをベトナムで提供するのは無理なんですかね?

 で、話は戻りますが、ウチの近所にサークルKがつい先日オープンしまして、さっそく今朝、様子を覗いて来ました。オープンに際しても特に華々しいセレモニーは無く、“いつ開店したんだろう?”という状態だったのですが、まぁ、サークルKはすでに何店舗もホーチミン市内に展開しているので、“いまさら騒ぐ必要も無い”とクールなんでしょうな。

 サークルKの営業戦略としては、外国人をターゲットにしているのは明白かと。既存の店舗にしても、周辺に外国人や旅行者が多い場所を押さえています。ファミリーマートとは対極に有る戦略ですわな。

 時期的にはサークルKの方が進出が早く、ワタシから見れば結構な冒険だった様に思うワケです。10年くらい前にも「MASAN」と云うマレーシアだったかシンガポールだったかの資本のコンビニチェーンが進出したことがあるのですが、結局、売り上げを伸ばせずに撤退を余儀なくされました。その後も、ベトナムローカル資本のコンビニチェーンが現れたりしてはいるのですが、大きく発展しているコンビニチェーンは未だありません。

 ひとえに、ベトナムではいまだに「近所の雑貨屋」というのが、庶民生活の中では大きなウェイトを占めており、「コンビニ」という存在と、「近所の雑貨屋」という存在と、どちらに付加価値を見出すか?・・・そのバランスだと思うワケです。

 で、ワタシなんぞも近所の雑貨屋でタバコを買ったりするワケですが、そのつどお店の人と、ひと言ふた言、ほんの軽い雑談をするのですが、コンビにだとそれは無いわけで、人の繋がりを重視するベトナム人にとっては近所の雑貨屋の方が、買い物をして楽しいのではないかと思ったりするワケです。

 日本のように市場経済至上主義?に陥ってしまうと、“少しでも安ければいいんだろう”・・・と、価格ばかりが優先されて、買い物を楽しむという行為が忘れ去られてしまうのではないでしょうか?懐古的になってしまいますが、ワタシが子供の頃には「駄菓子屋」によく通ったものです。もちろんその頃はコンビニなど無かったので選択の余地は無かったのですが、駄菓子屋のお婆ちゃんと丁々発止のやりとりを子供ながらにしたものです。「キンタ」、「キューサン」にはホント、お世話になりました。てか、ご迷惑をおかけしました。

 翻って考えると現在、日本の外交力、交渉力の低下が酷いのは、先の「普天間基地移設問題」を見ても明らかですが、官僚とか云う類のお方は恐らく子供の頃、駄菓子屋なんぞには行ったことも無いお方なんでしょうなぁ。交渉力、会話力を子供のうちから磨く上でも、「駄菓子屋」はいい修行の場だったのかも知れません。

 ムダ話が長くなり恐縮です。サークルKの話に戻ります。で、どうだったかと云うと、陳列された商品の内容は悪くない様に思います。思いのほか食品(サンドイッチ)の種類が豊富で、お昼時に近所のオフィスのOL(ベトナム人)などに需要があるのではないかと思います。最近のレタントン界隈はビジネスオフィスビルが増えてますから・・・。値段的には1パック27,000ドンだったので、競合となるビンザンの1皿25,000ドン程度と渡り合える価格設定ではないでしょうか?

 まぁ、クソ暑いビンザンで汗をかきながら食事をする事を思えば、オサレなOLにしてみれば、涼しいオフィスでサンドイッチをパクつくという選択肢が新たに生まれただけでも、サークルKの出店の意義はあるように思えますし、何より24時間オープンなのが近所の雑貨屋に対抗できる魅力でしょう。

 今回サークルKが出店したレタントン地区には飲み屋が多く、おねえちゃんと楽しんだ後で自宅に戻る前に、冷たい飲み物を買ったり、夜食用にカップヌードル(ACE COOK製 6,000ドン)を買うのに、ワタシは便利と判断しました。自宅から徒歩数分の場所にオープンしてくれて、ありがとう!

 ・・・と、いったところでしょうか?


でわっ!

2010年6月9日水曜日

自殺と神の存在のハナシ 2

 前回の「自殺と神の存在のハナシ」で、DNAを受け継ぐことの大変さについてワタシなりに考えたワケですが、より強いDNAを受け継ぐことが神の意思だとしたら病気・事故などで不本意ながらDNAを次の世代に残せない人はどうなってしまうの?存在意義がないの?と云う点が片手落ちだったので、今回その点について補足したいと思います。

 で、以前・・・「人間性のハナシ」で述べた「理性」、「本能」、「情」の人間性の3要素(自論)ですが、DNAの中にはこれらの情報が織り込まれているワケです。前回の
「自殺と神の存在のハナシ」では、そのうちの「本能」の部分を取り上げた形になるのですが、今回は「情」と云う要素を取り上げようかと。

 まず、「親子の性格は似る」という、ごくありふれた事実から察しても、「情」と云うものが情報としてDNAに織り込まれるのはご理解していただけるかと?どういうことか簡単に説明いたしますと、感情も究極的には「脳神経の活動」だからです。

 つまり、「新しい感情が芽生える」ということは、「新しい脳神経組織が生まれる」のに等しく、そういった「肉体の情報」はDNAに記録されます。ま、ワタシは遺伝子学者でも脳生理学者ではないので自分の知り得る事しか言えませんが、ワタシが理解するに「進化とはDNAの変化」で、DNAの変化とは「環境への適合」ではないかと。従ってDNAは常に変化の過程にある。と。

 ハナシが逸れましたが、「情」もまた物理現象としてDNAに記録されるのであれば、他人に対して寛容である人、他人を思いやる人、というのもDNAの産物です。

 さて、ここまでの前フリで見えてきたかと思いますが、病人とか障害者のひとたちに存在意義が、生まれてきた意味があるのか?と問われた時、ワタシは・・・「間違いなくある。」・・・と。

 DNAにはありとあらゆる情報が「変換されて」記録されまれます。病人を思いやる気持ち。身体障害者を思いやる気持ち。それらは「情」の情報としてDNAにインプットされます。従って世代を経れば、「弱者を守る種」が誕生することでしょう。このことは社会を単位として生活する人間にとっては有利に働くハズです。なぜなら人間一人一人はとても弱い存在だから、個人の力には限界が有るからです。

 人間は社会と云う単位を大きくすることで、個人の弱さを補ってきました。そしてワタシは、その社会を繋ぎとめているのは「情」だと言っても過言ではないように思うのです。もちろん金銭的な理由もあるのでしょうが、それだけでは社会がギスギスしてしまいます。いまの日本のように・・・。

 贅沢はひとまず置いといて、住みよい社会とは?暮らしやすい社会とは?とワタシなりに考えるに、それは「情」の豊かな社会ではなかろうか?と。であれば、その「情」という情報をDNAの中に付加してくれる病人、障害者の人たちは、人間と云う種にとって「有益な存在」と言えるのではないか?と。

 あくまでも勝手な自論なので、現在苦しんでいる方々は、「別に人類に貢献しなくてもいいから自由に外を歩きたい、自力で生活全般をこなしたい」と思われるのも尤もです。ワタシ自身も過去、病院にて闘病の経験が有るのでそのお気持ちはよく分かります。自分の思い通りにならない体にもどかしく、家族に当り散らした事もあります。

 それでもなお、生は続くのです。拷問のような日々は続くのです。やがて・・・家族に当り散らす事さえ無意味であることを悟り、倦み疲れます。その時に、自分の生をどう再構築するか?

 生きているという事は「情報の交換」を行うという事です。良い情報、悪い情報、ありとあらゆる情報の交換を繰り返すという事です。情報を受け取り、そして与える。この繰り返しです。そしてその繰り返しがDNAの辿った道なのだと、ワタシは思うワケです。

 病気などで社会から隔絶された環境にあったとしても、自分以外の誰かと接触がある限り、情報の交換は成立します。その情報の交換こそが生の意味なのだとワタシは信じるのです。従って病人だろうが、障害者だろうが、「全ての人は大きなDNAの流れの中に一緒に存在している。」というのがワタシの自論です。

 以上。これにて。


<引用>

母ゴリラ、死んだ子供を離さず ドイツ動物園

ベルリン(AP) ドイツ南部ミュンヘンのアルベッテル動物園で、ゴリラの母親が死んだ子供の体を離そうとせず、どこにでも連れて歩いている。
動物園によると、ゴリラでは珍しくない行動だという。

生後3カ月の赤ちゃんゴリラ、クラウディオは今月16日に死亡。死因は分かっていない。母親のガーナ(11歳)は動かないクラウディオを離そうとせずに生活を続けている。















動物園は20日、ガーナの檻(おり)の前に、状況説明を展示し始めた。同時に、職員がそばに立ち、来園者に説明している。

クラウディオはガーナにとって、2頭目の子供だった。2007年に生まれた1頭目の娘は現在、シュツットガルト動物園で飼育されている。

http://www.cnn.co.jp/science/CNN200808210011.html

</引用>


でわっ!

2010年6月7日月曜日

自殺と神の存在のハナシ

 いやwww早いものでもう6月。今年も半分が終わろうとしています。日本では衣替えの季節。ベトナムの学校では2ヶ月間の長い夏休みに入ります。

 さて、トットと本題に入ります。キリスト教に限らず大抵の宗教では自殺を大罪としています。曰く・・・「自殺した死者の魂は成仏できない」と。そしてこうも言います。

神は乗り越えられない試練は与えない。

 じゃあ、自殺してしまった人たちはどうなってしまうんでしょう?アレですか?神様が与える試練の目分量を間違えて与えてしまったんですかね?

 宗教を信じる人は上の文言に従い自殺を思い止まるのかも知れませんが、無神論者は自殺を選択するのだとしたら、神とは、信じる人には存在し、信じない人には存在しないという事になんでしょうか?つまり人によって差別をするのだとしたら、神とは、何と人間臭い存在ではありませんか。

 それでも万人を愛する神は存在すると言うのであれば、ワタシの推論として、

神は人間には無関心だ。

と云う結論が導き出されるのですが・・・。であれば、神が存在するにも関らず自殺者が絶えない事が、ワタシの中で納得できます。

 この推論・・・「神は人間には無関心だ」という観点から、ワタシと云う人間の存在意義、在り様を考えてみるに、先ず生物学的に、遺伝子、DNAの器であるという厳然とした事実があります。

 考えてみればコレはすごい事なのですよ。ワタシが今生きているということは、

人類の歴史を背負っている

のと同じ事・・・と云うかそのものです。そして全ての人にも同じことが言えます。

 いまこの地球上に生きている全ての人は、アフリカの一人の女性が母親であると云う
「ミトコンドリア・イブ」説などもありますが、学術的な是非は別にして、生命の連鎖=DNAの連鎖を絶やさなかったからこそ、今ワタシがここに生きている事は事実です。

 逆に、過去に於いて様々な要因から「淘汰」されてしまった個体は、そこでDNAのバトンタッチが叶わなかったワケで、もしワタシの祖先がそうであったならば、当然の如くワタシは今ここに存在してません。

 で、自殺について生物学的な見方をすれば、

淘汰された

という見方も出来ると思うワケです。様々な事情が有るにせよ、過去ウン十万、ウン百万年をかけて受け継いできたDNAの流れが、そこで終わってしまうワケです。まぁ・・・ちょっと・・・勿体無い気はします。他人事ながら。

 ご先祖様を敬うなんて古臭いしきたりの様に思うかも知れませんが、少なくとも現在の生活に満足し、この世の春をおうがしている御仁はご先祖様に感謝すべきでしょうな。

 で、より強いDNAを残すことが神の意思だとしたら・・・淘汰されることが人間を含む全ての生命の宿命だとしたら・・・神が人間に対して無関心なのも頷けるワケです。だってねぇ?過保護の子供みたいに人間を扱うようでは強いDNAを残すと云う目的に反します。

 で、あればですよ?自殺を考えるほどストレスを溜め込みつつ、それでもなお自殺を思い止まり生き抜く決意をした人間のDNAには、相当な生命力が宿っているとも言えるのではないでしょうか?もし今現在自殺を考えている人は、このまま淘汰されるか?それともより強いDNAを残すか?の選択が委ねられていると、一考してみてはいかがでしょうか。

 ワタシ、実はNHKの朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」を見まして。まあ、相当なビンボー生活を体験されているワケです。水木先生の奥さんは。そんな暮らしの中で生きる気力を失わないなんてスゲwww!・・・と思ったのですが、その「生命力」の根源て何なんだろうと考えた末に思い当たったのが、DNAの生命力が違うんだろうなという結論だったワケです。

 文化だの、流行だのもてはやしたところで、最終的に淘汰に勝ち残らなければならないのが生きていくことの意味だとしたら・・・

ヤラレてたまるかっ!

・・・と、再認識した次第です。はい。


でわっ!