エェw!?日本でも外国との奴隷貿易があったんですかw!?
以下長いので心して読んでください。
<引用1>
八切止夫作品集1068 八切日本史 4
奴隷日本人秘話
日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男はインドからマレー半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。しかし、
「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、
「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」
ポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。
(この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。)
さて従来の日本史は、『ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった』といった事実を隠している。だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、
「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」
といった受取り方で記録されているのに今の歴史家はそれを知らず、
「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」
などと説明する。あまりに不勉強に過ぎないのではなかろうか。ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、
「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」
といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。
由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。そして、そこからインドへの輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。
さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの「原住民」を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、「日本原住民」を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。また羽仁五郎の『都市の論理』において、
「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」
とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、
「ゴア(インド)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」
とある。インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。
さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。
さて、現在のマレー半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マレーの軍人も奴隷日本人だった事になる。そして地図で一目瞭然だが、マレーは南支那海にある。
「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」
「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」
と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。
歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、焼玉エンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いで行けたか?四日や五日で行けるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?
その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。
さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、
「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」
と、これはなっている。
つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。もし中学校か高校の地図をもっていたら、マレー半島の部分をひろげていただきたい。そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。
私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マレーと呼ばずに彼らのつけた、「バハン」と呼ぶ。マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。
真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。 器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。
よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。
さて、戦後二十六年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。
八切止夫作品集
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html
</引用1>
明治時代について検索していてこの資料を見つけたのですが、正直ショックです。
八切止夫氏についてはいろいろな評価がありますが、
他にも、キリシタン大名の大友、大村、有馬らの天正少年使節団による報告書で、
<引用2>
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まる出しに繋がれ、弄ばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。』
株式日記と経済展望
キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
</引用2>
といった報告もあり、ま、50万という数字の信憑性はさておいても
相当数の日本人が奴隷としてヨーロッパ方面に売られて行ったのは
先のポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令からしても史実のようです。
みなさん知ってました?他にも、
<資料1>
大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
<資料2>
奴隷貿易 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93
<資料3>
奴隷 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7
<資料4>
日本の人身売買に関して考える 前編
http://ameblo.jp/syamo0001/entry-10007074564.html
・・・などなど。検索すればいくらでも出て来ます。
戦国時代とはいえ鉄砲の火薬欲しさに同じ日本人を奴隷として売りとばす。
しかも武器欲しさにキリシタンに改宗する。
現代のものさしで見れば言語道断ですが、
当時の日本に「日本」という国家とか「日本人」とかいう意識は薄かったのでしょう。
なにしろ血で血を洗い、親兄弟であっても殺しあっていた時代でしょうから。
しかし理由はどうあれ、これが当時の武士の姿だとするとチョッとやり切れませんわな。
ところで、ヨーロッパに渡った日本人奴隷はその後どうなったんでしょうかね?
黒人奴隷の子孫は現在も世界各地に生存していますが日本人奴隷の子孫は?
ヨーロッパの奴隷の人たちは魔女狩りとかに巻き込まれて全滅してしまったんでしょうか?
インドに渡った奴隷の人たちのその後わ?
「奴隷」として売られたという、屈辱と絶望に耐えつつ生き延びていたとすると、
彼ら、そして彼女ら日本人奴隷の子孫のDNAの中にはきっと日本と
日本人に対する怨念が何代にも渡って引き継がれているかも知れませんねぇ。
今となってはどうしようもありませんが、せめて供養するとか慰霊碑を建てるとか・・・
さて、ヨーロッパ各国は日本人奴隷の存在をはるか昔から知っているわけで、
(わたしも含め殆どの日本人がこの事実を知らないにも拘らず!)
なんか自分の国の歴史を知らないって情け無いっス。
(日本人なんて所詮奴隷の末裔よw)
と思われていえも仕方ないです。事実なんだし。
人も、国も、良い面と悪い面の両方持ち合わせていて当然です。
過去の過ちは過ちとして潔く認めるのが「大人の国」と思うのですが・・・
なぜ学校では教えてくれなかったんだろう?
<追記1>
日本人は勤勉ではない
~本当に新しい歴史教科書・PART1~
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html
<追記2>
アフリカに最初に?渡った日本人
http://homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-23.html
<追記3>
アメリカ黒人の日本人観
http://shupla.w-jp.net/datas/Afro-AmericanViewsOfTheJapanese.html
(あぁ~疲れた。)
でわっ!