2010年9月7日火曜日

英雄の危険性について

 英雄と言えばみなさん誰を思い起こすでしょう?日本人なら戦国武将の名が挙がるかも知れません。織田信長とか、豊臣秀吉とか、徳川家康とか・・・。海外に目を向ければ、アレキサンダー大王とか、ナポレオンとか、ジンギスカンとか・・・。

 これらの英雄や、世に英雄と呼ばれる人達に共通した要因て何ですかね?ワタシが思うに、それは「力」ではないかと・・・。

 彼ら、英雄と呼ばれる人達は、その「力」によって庶民を助けたから英雄と称されているワケで、その「力」の使い方を誤っていたらトンデモない「独裁者」になっていた可能性もあるワケですよね?逆に、彼ら英雄と戦って敗れた側は、彼らを英雄とは認めないでしょう。

 ヒトラーは英雄でしょうか?間違いなく、或る一時期においてヒトラーは「ドイツ国民の英雄」でした。しかし現在ヒトラーを英雄として祭り上げるのは、ごく一部の少数派です。なぜならヒトラーとナチスの犯した戦争犯罪が、戦後、世界中の庶民に知れ渡る事になったから。しかし戦前から戦中のドイツにおいて、確かにヒトラーは英雄でした。そしてその英雄を作り上げたのは庶民でした。

 ワタシが、現在の小沢氏の国民的?な人気の事を、揶揄しているのだろうとお気づきかと思いますが、正にその通りです。断っておきますが、ワタシは反小沢派ではありません。もしワタシが民主党議員であったなら、間違いなく小沢氏を支持します。それは菅氏、小沢氏の「政策」を比較すれば、自ずと導き出される結論だからであり、そこに感情を差し挟む余地はありませんし、議員と云う、庶民から委託された業務を遂行する上で、個人の感情など差し挟むべきではないからです。国会議員が優先すべきなのは、税金を納めている庶民の為に奉仕すると云う、犠牲的精神なのだと思うからです。

 そんな仕事、誰がしたがるか!?と思われるでしょう?だからこそ、みんなが嫌がる仕事を、進んでやってくれる奇特な人達だからこそ、国会議員にはイロイロな優遇措置が与えられているケです。

 先の世界大戦、その後も続く地域戦争や紛争で、あまりに多くの人が傷つき、そして亡くなられました。そしてそれは、感情と暴力が吹き荒れた時代の結果だったとワタシは思うのです。損得勘定だけで、そう簡単に人を殺せるものではありません。そこに「感情」という要素が加わった時、人間の内部の「暴力装置」が発動されるのだと思うのです。

 いまこの瞬間を生きるワタシたちは、「感情と暴力」からは何ら有益なものは生まれない事は、良く知っているハズです。それが現代の理性と云うものです。「正しい事」は「正しい」、「間違った事」は「間違っている」と、誰憚ることなく発言出来る。それが現代の理性に基づいた社会ではないでしょうか?

 前回・・・「正しさが自発的なものでない限り、簡単に過ちをおかす。」と書きましたが、自発的な正義と云うか、自論をシッカリ持っていれば、なwwwんにも感情的になる必要はないのです。「小沢コール」が起きたから何だと言うんですか?雰囲気に飲まれて、その場のノリだけで大声を張り上げた人もいたんじゃないんですか?気分が高揚して。

 悪い癖で話が逸れました・・・。ワタシは確かに、マスコミの偏向報道には疑問を感じますし、22歳の小娘をつるし上げる様なやり方には怒りさえ覚えますが、感情的になったら、過去と同じ過ちを繰り返すだけです。マスコミとネット住人の間の対立が激化している様にも見えますが、感情的になり、個人攻撃に走ったり、口汚く罵ってるばかりでは、逆に相手の思うツボに嵌っていくかも知れません。

 本来国政と云うものは、庶民が主役でなければならないと思うのですが、英雄という偶像を祭り上げることで、本来「面の力」である「庶民の力」を、英雄と云う「点の力」に収束させ、一人の英雄を封じ込める事で、多くの庶民をも封じ込める・・・。と云う合理的?な戦略も考えられるワケで、ゆっきーが辞任した後の、主だったネット界の言論人の落胆ぶりを見て、また同じ事を繰り返すのか?と、老婆心(老爺心?)ながら見守っている次第です。はい。

 そして、もうwww何度も言っている事ですが、これからの時代は「英雄」などに頼るのではなく、庶民一人一人が目覚めなければ、庶民が庶民としての生き方をまっとう出来る時代なんて永久に来ないんじゃないかと。英雄が必要とされたのは、理屈の通じない弱肉強食の時代が長く続いたからであって、いまの時代は違うでしょ?ちゃんと理屈は通じるでしょ?曲がりなりにも民主主義なんだから。日本わ・・・。それに、争うことの愚かしさを、みんなが重々承知しているはずです。

 であれば、いまの時代に「英雄」を求める人達って、また争いの世紀に日本を、世界を引き戻そうとでも云うのか?・・・と。


でわっ!