2010年2月19日金曜日

鹿男あをによし

旧正月中、暇があったんで「鹿男あをによし」とゆうドラマを観たのですが、
それを観て思い浮かんだ事を、とりあえずメモとして・・・
(テーマはありません)

そうそう、奈良の鹿については飯山氏が解説されていましたが、
その飯山氏のホームページが、何やら検察関係者に睨まれたらしく、
ヤフーからいきなり(事前通告無く)削除されたそうで、

言論の弾圧って怖いですねぇwww

イヤですネェwww

事の詳細は飯山氏のホームページに書かれていますが、
正直、ゾッとします。日本がそんな国だったなんて・・・

ま、この件はまた別な機会に改めて掘り下げることにして、


鹿です。鹿。


-以下引用-


飯山一郎
◆2008/04/17(木) 歴史の謎が解けた.日本のルーツは,『扶余』!


[中国の世界遺産]古代高句麗王国の首都と古墳群


『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)

 其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

 その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。

 出真珠、青玉。其山有丹、其木有?、杼、豫樟、?櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠?、桃支。有薑、橘、椒、?荷、不知以為滋味。有?猴、黑雉。

 真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)があり、樹木には楠木、栃、樟、櫪、橿、桑、楓。竹には篠、?、桃支。生姜、橘、椒、茗荷があるが、滋味なることを知らない。猿や黒い雉がいる。

 其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不?忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。

 そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)はあるいは二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。

 窃盗をせず、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている。租賦を収めている。邸閣(立派な高楼)の国があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている。


『後漢書』倭人伝

 會稽海外有東?人、分為二十餘國。又有夷洲及?洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬?神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至?洲者。所在絶遠、不可往來。

 会稽の海の外に東?人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および?洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬?山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して?洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。


『唐会要』倭国・日本国伝

 日本。倭國之別種。以其國在日邊。故以日本國為名。或以倭國自惡其名不雅。改為日本。或云日本舊小國。呑併倭國之地。其人入朝者。多自矜大。不以實對。故中國疑焉。

 日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

 蝦夷。海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭。插箭於首。令人戴瓠而立。數十歩射之。無不中者。顯慶四年十月。隨倭國使至入朝。

 蝦夷。海の島の中の小国である。そこの使者は鬚の長さ四尺。最も弓射に練達している。首の後ろに矢を挿し、人に戴瓠を載せて立たせ、数十歩の先からこれを射る。的中さぜるはなし。

 顕慶四年(659年)十月。倭国の使者に随伴して入朝した。


『旧唐書』倭国・日本国伝

 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

 日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

 彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。

 彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿德、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。


始皇帝

始皇帝は中国統一の頃から不老不死を求めて方士を重用するようになった。前出の侯生と盧生も方士出身であるが、特に徐福の事績は有名である。2度目の巡幸で始皇帝は斉に滞在し、徐福に対して東方にあるという蓬莱国へに向い、仙人を連れてくるようにと命じた。この蓬莱は日本の事を指していると言われ、日本各地には徐福の最期の地といわれる場所が複数ある(徐福伝説)。


018 不老不死薬 (08年8月11日)
 中国最古の薬物書といわれ、徐福のような「方士」によって編さんされたとみられる「神農本草経」は鉱物と植物365種が掲載され、上・中・下の3つに分類されています。上薬は丹砂(水銀化合物)、薬用人参など120種で「久しく服用していると、身を次第に軽くし、気が充実してついには不老不死になる」と記載があります。

 水銀は鉱物から作る錬丹術(不老不死薬製造術)の最重要な物でした。金立山のカンアオイと同種については、この書に記載はありませんが、カンアオイのグループの一つ「細辛」は上薬にあります。久しく服用すると身の動きが軽くなり、年齢を延ばすことができるようになるとの記載があります。 (前徐福長寿館館長)


あをによし=青丹よし



稲荷神

伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。 稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)される前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)2月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。

諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。いずれの説も今後の検証の必要がある。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろう。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立した。


日ユ同祖論

批判と反論

 ユダヤとペルシアは同じ中近東で、文化には幾分の類似点がある。日ユ同祖論の証拠にされる事が多い、狛犬などの神殿構造も、実際はユダヤではなく、ペルシアから伝わったという説が有力である[要出典]。飛鳥時代にはペルシア人の景教(ネストリウス派)徒で、石工の李密翳という人物が渡来し、日本に聖書文化を伝えたとされる。古代中国はペルシアとの交流が盛んで、百を超えるペルシア人コロニーが中国に存在し、多くの説話や文化を中国に伝えた。そして、それを遣隋使・遣唐使などが日本に持ち帰ったとされる[9]。

 「秦氏はネストリウス派キリスト教を信仰するユダヤ人だった」という説には年代から考え矛盾がある。ネストリウス派は431年のエフェソス公会議で「異端」と断罪され、その後、東方に布教活動を移したことが知られているが、中国へ伝来したのは7世紀、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」らによって伝えられたころであり、秦氏の日本渡来より200~300年あとのことである。


難波宮

奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させて離宮を設置する(平城京との複都制)。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。

784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。


「漢和辞典」にある「部首」(09)

 「子」は「こ」であり、「ねづみ」で、「シ」、「ネ」・・・「こねづみ(庫鼠)」は、「しね(死ね)」なのだが、「鼠」はいつも「古事記」、その物語の「火の中」で「主人公」の「大国主」や「ヤマトタケル」を助けてくれるのだ。しかも、「日本書記」では「蘇我入鹿」が惨殺され、雨に晒された死体を「席障子(むしろしとみ)で覆われた」のだ。父親の「蝦夷」は「火の中」で滅び、助かったモノは「国記(くにつふみ=九貳津文=句似『都府』診=句似柘『富美』=『句』似柘『践』み)」である。しかも、「鼠」は「日本書紀」の「大海部皇子」と重なる「古人大兄皇子」が「蘇我氏」に諭す言葉でもあり、「鼠の移動」は「遷都」の暗示でもあった。「鼠(ねずみ)」の「音」は「ソ」でもある。

 「ネズミ」が「リス=木鼠(き・ね・ず・み=記・音・素・診)」ならば・・・『移鼠』は、
・・・「イエス・クリスト」の「当て字」であった・・・まったく「当て字」で「漢字の謎解き遊び」である。

 とにかく、『移鼠』は「イエス・クリスト」のことなのだ・・・これは唐代に勢いを得た『移鼠』「景教=ネストリウス派」の碑文にある漢字である。


雄峯閣 ―書と装飾彫刻のみかた―

鼠(ねずみ)・来歴・意味

身近にいる動物ではあるがどちらかというと農作物に害を与えるイメージが強い。
文献では『古事記』『日本書紀』から登場しており、前者はオオクニヌシを火中から助ける役割、後者は遷都の象徴として大量移動した記事が書かれる。

鼠は多産であり、繁栄の象徴とされた。また、オオクニヌシ(大国天=大黒天)の使いともされた。ここで紹介している図像はまさに大黒天を暗示しているといえよう。

十二支の筆頭でもある。

-以上引用-


鹿(奈良)ネズミ(大阪)狐(京都)の関係って、

扶余族中国人(景教徒)秦氏(ユダヤ教徒)

とゆう渡来人によるトロイカ体制の暗示なのか?

で、聖徳太子は、蘇我氏(景教徒)が創作した架空の人物?

それに尾ひれが付いて、八戸?だったかの「キリストの墓」伝説が
後世に伝えられた可能性もあるのかね?

時系列が整理できていないので、また暇を見て調べてみますが、
ワタシ(日本人)が言うのもアレですが・・・

日本て、不思議な国ですねぇwww



でわっ!