最近「革命」という文字をメディアで見かけない日はなく、ネット上にも氾濫しているような気がします。ワタシも常々「個人革命」を唱えてはいますが、「個人革命」と「社会革命」とは違うように思うのですよ。
現在、チュニジアで「革命」が進行中?らしいのですが、「革命」>>「体制転覆」の過程とは、力と力のぶつかり合いだと思うワケです。つまり、従来勢力(権力?)が革命勢力よりもより強大な力を持っていたら、「革命」は成就出来ないワケです。ま、60年安保、70年安保は、まさに「力と力」のぶつかり合いであったと思う次第です。
当時の記録などを読んでも、一丸となるべき革命勢力からして内部で「内ゲバ」(内気なゲバラではありません)や、権力闘争、粛清を繰り返し、まあ・・・当時子供だったワタシから見ても、「なんだかなぁmmm。」・・・と思えました。「闘う相手が違うんじゃないの?」・・・と。
この年になって思うのは、当時の若者はイデオロギー(思想)に凝り固まっていたのではないか?・・・と。その思想とは何か?といえば、みなさんご存知のマルクス・レーニン主義=共産主義ですよね?で、共産主義のテーゼは何か?といえば「階級闘争」になるわけです。つまり、資本家階級と労働者階級の闘争の果てに、理想的な社会が築かれると・・・。で、あってます?
しかしねぇ・・・。ワタシの僻(ひが)みかも知れませんが、インテリってやつもひとつの「権威」のように思えるワケです。つまり、「優れた人間」が「その他大勢の愚衆」を指導する。・・・ってのがね?どうも肌に合わない性分でして。その・・・平たく言うと、
お前より偉いんだぞ!
・・・てふんぞり返っているのが、いわゆる「権威」ってヤツでしょ?
過去において、庶民が無知であった時代なら、情報を独占するインテリやらエリートやらが、社会の指導的な役割も果たせたのでしょうが、現在のように情報が共有される時代においては、彼らの立ち位置も変わらざるを得ないように思うワケですよ。それを頑なに、従来の「権威」を守ろうとしているのが、現代のマスメディアの姿のようにも思えます。
「権威」とか「権力」とかを、闘争、革命の道具に使っているうちは、権力の移譲が行われるだけで根本的な変革には至れないんじゃないか?というのがワタシが言わんとするところで、その点「個人革命」なら、「権威」もヘッタクレもないですからねmmm。
一時の激情に身を委ねて表に飛び出し、力任せに「革命」をしたところで、よしんばその場は「革命」が成し遂げられたとしても、その後は?
革命の後も日常は続く。
・・・ですよね?で、あれば、「権力」の移動を「革命」などと持て囃すのはやめて、社会とか、人間とか、自分とか、未来とか、徹底的に考えに考え抜いて行動すればイイんじゃないでしょうか?それが「個人革命」の本質であり、その為の情報は十分にある時代に生きている事を、インターネットが使える人であれば十分承知しているハズです。
ワタシの目から見れば、いま世界に起こりつつある事は「革命」などという前時代の残滓ではなく、これから世界が新しい時代に移り変わろうとする前の、「淘汰」に近いものかも知れません。したがって、「新しい時代=庶民が庶民の暮らしを全とう出来る時代」を受け入れられない人たちは、その居場所を失い「淘汰」されるしかないのでしょうなあ。これは政治家だろうと、学者だろうと、評論家だろうと、既存の「権威」にしがみ付く人たちは、軒並み「淘汰」される事でしょう。
全体の10%
これが、庶民が許容できる限度なのでしょう。来るべき時代の枠組みの中で。そして、世界を変えるのは一部の政治家や企業家や学者や官僚などではなく、きっと「覚醒した庶民」なのでしょう。
で、「覚醒した庶民」としてはどういった行動を取ればいいのか?・・・正直よく分かりません。それに、これといって決める必要もないのかも知れません。自分に出来ることをやればいいのです。政治を志す人はそれもアリでしょう。新しいタイプの政治家が必要なのは確かです。また、「税金」という権力者側の資金源を断つことも、ワタシたち庶民が出来る有効な世直しかも知れません。何せ庶民の為に有効に使われていない以上、政治家、役人は「憲法違反=犯罪」を犯しているのと同じワケでしょ?つまり・・・
税金ドロボー!
・・・と、非難されて当然なワケです。いや全く・・・、税金ドロボーや税金振り込み詐欺ばかりが幅を利かす、イヤな世の中になったものですなmmm。
でわっ!