2011年1月26日水曜日

我々は、我々なのだ 2


 飯山さんのトコで、古代中国史から現代の皇室のルーツを解き明かす記事を読んだのですが、「まぁ、そんなもんだろう・・・。」とは思っていたので、格段驚きはしませんでした。他にも日本各地の「地名」から、歴史を紐解こうとしているお方もいます。


◆2011/01/26(水) 金王朝の “深い深い謎” -60-


ルーツのツール


 概ね、お二人の論には賛同するのですが、お二人には「海から来た日本人」の視点が欠けているようにも思えるワケです。過去記事「鹿男PART5」で触れた
茨城県鹿島の古豪族、星神香々背男(ほしかかせお?)は、明らかに海洋民族であり、後から日本の地を踏んだ騎馬民族(皇祖?)を、一度は戦いにおいて退けているのです。

 そういった史実?からして、ワタシは大陸視点だけではなく、大陸系のように後世に言葉は残せなかったものの、確実に海洋民族系の日本人の血も残っていると考える次第です。はい。

 実際、「鉄器」は大陸から伝えられたと一般には考えられていますが、
紀元前4世紀のベトナムには既に「鉄器文化(ドンソン文化)」があり、それが海を渡って来たルートだって十分考えられます。

 ついでにワタシの記憶が確かならば、古代の製鉄において、質の良い鋼を造るために魚の「鰯(イワシ)」を使ったらしいのですが(曖昧な記憶)、そんなアイデアを、内陸を走り回る「騎馬民族」が持ち得るでしょうか?ひょっとしたら、製鉄技術は案外「海洋民族」の方が優れていたのかも知れませんな。

 日本人は単一民族だ・・・等とは、ごく一部の、「庶民を支配したいグループ」の戯言に過ぎないのは、最早誰の目にも明らかなワケで、それでも、同情的?に見るならばですよ、江戸幕府から明治政府に代替わりし、欧米の列強と伍していくに、国=国体が一丸となる必要があったのは否めないと思うのです。それ故、「天皇制」を柱として「日本国」をまとめる為に、


「全ての国民は天皇の子である!」


 ・・・と、単一民族思想を庶民に植え付ける必要があったのも、まぁ、判らないではないです。はい。

 しかし時代は下り、昔の庶民に比べ遥かに多くの知識を得られるようになった現代においてですよ?十分欧米諸国と伍していける国となった現代においてですよ?今更・・・「日本人は単一民族である」などという、虚勢?を張る必要があるのでしょうか?

 それにこれだけ科学が発展し、DNAという動かない証拠を目の前に着き付けられてなお、「地球は平らだ!」と言い張ることが出来るでしょうか?


Y染色体の亜型分化





 過去何度も紹介しましたが、日本に暮らす庶民のDNAには、アフリカから分派した4グループ全ての情報が含まれており、そんな国は世界中でも日本ぐらいしか存在しないこと・・・。これは翻せば、「日本に世界が凝縮されている。」という事なのですよ。

 スゴイ事だと思いませんか?スバラシイ事だと思いませんか?大げさに言えば、日本に暮らす庶民の一人一人に、「全人類の記憶」が記録されているんですよ?


日本人はハイブリット


 ワタシ的にはこの事実を明確に理解することで、反中だの、嫌米だの、国益だの、戦争だの、世界政府だの、そんなものが・・・


イッタイ、ナンボのもんじゃい!


 ・・・という気もするワケですが、ちなみに前回、「淘汰」という言葉を使いましたが、これは「進化」、もしくは「深化」と考えてもイイのです。

 文明とは何か?便利な暮らしであったり、新しい娯楽であったり、教育の普及であったり・・・。で、総体的に見れば、「文明とは、脳内のイメージを具現化する作業。」とも言えるワケです。つまりそれは、「肉体から離れる方向(バーチャルな世界)」に向かっているとも考えられるワケです(養老先生談)。その最たるものが「お金」なのかも知れません。

 しかしどう足掻いても、「人間は人間でしかない」ワケで、疲れたり、お腹が空いたり、眠くなったり、生物としての本能から逃れることは出来ないワケです(いまのところ)。
「精神は肉体を越えられない。」というのは、お腹が空けば・・・睡眠不足が続けば・・・考えることも儘ならないからです。

 ワタシたちはこの地球上に存在する「ヒト科」の、一種です。で、どういうワケか?「ヒト科」の「人類」だけが、「大脳新皮質が異常に発達」し、今日の文明を築くに至ったワケですが、それでもベースは「ヒト科」>「人類」という、いち生命体=に過ぎません。地球の視点から見れば、人間もその他の動物も一緒です。

 で、ワタシが
「淘汰」という言葉を用いたのも、「人類」という種族がこの地球上で継続的に生存する為に、人類の「個体としての本能」を越えて、「種全体としての本能」が目覚めつつあるのではないか?という漠然とした思いがあるからです。

 つまり、「個体としての本能」に囚われすぎて、「種全体としての本能」を無視する場合は、種から排除=淘汰されるというのが、まあ、「自然界の掟」とも言えるワケで、簡単に言うならば、



世界の富の90%は
10%の人たちの手の中に在る。



という世界の現状に対して、「種」の大部分である90%の人たちが危険を感じたら人類の「種全体としての本能」がどちらに向くか?は、バカでも判るんじゃあるまいか?ジャマイカ?・・・と。

 それが判らない程、
「欲=個体としての本能」に突き動かされているようなら、「種から排除=淘汰」されても仕方がないんじゃあるまいか?ジャマイカ?・・・と。

 そんなワケで、
チュニジアでの騒ぎが簡単に他の国に伝播するのも、「種全体としての本能」の成せる技ではないかと思ったりするワケです。「種全体としての本能」ですから当然、日本だろうと、中国だろうと、アメリカだろうと、世界中の90%の人たち=庶民の心に共鳴しているのではないか?と思う次第です。

 したがって、いままでクドクド繰り返してきた「庶民が、庶民としての生活を全うすることの出来る社会」とは、詰まるところ・・・


種としての生存本能


に裏打ちされた当然の要求、行動と考えられるワケです。そして、それをより深く理解する為に、庶民ひとりひとりの「個人革命」が必要だろう。・・・となるワケです。はい。


でわっ!