あけましておめでとうございました。(遅い!)
2007年1回目のお題は或る掲示板で目にした
「土人」という呼称について差別発言だという人と、
なぜ「土人」が差別発言に当たるのか?不快になるのか?
という人とのやり取りを見てわたしなりに考察してみようかと。
まず、「土人」は差別発言だから止めろという側の言い分ですが、
1.「土人」という呼称はあいてを蔑んだ(差別した)呼称である。
2.それに「土人」と呼ばれた方も不快なはずである。
3.したがって「土人」という呼称は不適切であり、聞いて(見て?)不快である。
という事のようです。大体。
めくら(視覚障害)、つんぼ(聴覚障害)、どもり(吃音障害)、びっこ(歩行障害)
百姓(農家)、ちびくろサンボ(黒人蔑称?)、その他もろもろ・・・・
余談ですが、「座頭一シリーズ」(勝新太郎主演)とかがリバイバル上映されると
もう差別用語のオンパレードで、
スクリーンの中で俳優の口だけがパクパク動いているお間抜けなシーンが多いとか・・・
・・・本題です。
1.は差別を行う側の意識の問題でしょう。
差別はふつう優位のグループから劣位のグループに対して行われるもので
「土人」という呼称が本来差別的な意味での使用法であれば当然差別になります。
ゆえに「土人」という呼称は差別のために使われたのか?
ということをハッキリさせなければならないのですが・・・
少なくともわたし(日本人)には「土人」という日本語が
近代的な人たちを指している様には聞こえませんから
「土人」と呼ばれる人たちよりも「土人」と呼ぶ人のほうが優位にある
という意識(優越感)を持っているように思えます。
しかし、だからといって「土人」と呼ばれた側が
それを差別として受け止めるかどうか?は、また別問題。
そもそも差別用語は同じ価値観を有する共同体の中でのみ作用するのでは?
異なる文化、異なる価値観の間では固有の差別用語は
あまり意味の無い単なる記号にしか過ぎないようにも思えます。(まして日本語だし)
そこに相手を差別する意識、尊厳を軽んじる意識、侮辱する意識や態度が介在して
はじめて「土人」という言葉は差別用語なんだと、
民族・文化を超えた共通の了解事項になるのではないでしょうか?
逆に差別用語だとは思ってもいない言葉が相手の尊厳を傷つけることも。
その昔、ポール・マッカートニーが日本公演に来日した際、
麻薬不法所持かなんかで警察に捕まっちゃったんですよ。
んで、日本公演は中止になりポール氏は国外退去に。
それで一件落着かと思いきや、その後にまた一騒動。
ポール氏、事件後すぐにニューアルバムをリリースしたんですが、
その中に「フローズン・ジャップ」(邦訳:冷たい日本人)
なんて曲を入れたもんだからもう、タ~イヘン。
「日本人を馬鹿にしている!」
ポール氏は「富士山をイメージした曲なんだ。」と釈明していましたが・・・
多くの日本人ファンを失ったんじゃないでしょうか?ポール氏。
あとブリジストンだったでしょうか?タイヤのトレッド・パターン(溝)が
コーランの中の文字に似ていると
以前サウジアラビアかどこかで大騒ぎになりかけたのは。
今こんな問題が起きたら間違いなくテロの標的にされちゃいます。
差別とは差別を受ける側の尊厳を傷つけること。
それは言葉だけでは無く、相手に対する意識だったり、態度だったり・・・
おもしろかったのがコレ
↓
-20年ぐらい前に出版された本だけど今のウタリ協会の人たちかな。旅行会社が『毛深いアイヌに会えます』みたいなキャッチコピー作って宣伝したんだよな。その公開討論で謝罪する旅行会社に対して『私達は実際毛深いですよ、見せましょうか』なんて言ってる。この意味分るかな?-
↑
以前見たバラエティー番組で職業を聞かれた農家のおじさんが
「百姓です!」と胸を張って答えたノリに近いのかな?
毒蝮三太夫が「このクソババア!」と言っても
おばあちゃんは誰一人怒りませんでしたとサ。ナゼか?
毒蝮三太夫の語りには親愛が満ちていましたから。
言葉だけじゃないんだと思います。差別の本質は。
ま、それはさて置き「土人」という呼称に戻ると、
明治維新の富国強兵政策によって西欧化を押し進めた日本から見た
西欧化(近代化)に乗り遅れた地域の民の呼称であった以上、
差別的である一面は否定のしようが無く、公共の場では使わない方が無難。
なぜならグローバル化された現代の世界においては
その言葉の持つ意味が異なる民族間でも十分に共通認識なされるであろうし、
そしてそれは「相手の尊厳を傷つける可能性がある」わけで、
2.の「土人」と呼ばれた方も不快である(であろう)。
という思いやりなのでは?
この後続けて、3.の、「なぜ差別用語に不快感を持つのか?」
ということを考察しようと思うのですが後日また改めて。
でわっ!