いやwww!「世に倦む日々」!見直しましたwww!
言葉を弄ぶだけの、「言論の徒」じゃなかったんですネwww!
漢(おとこ)だネエwww!
感服しましたwww!
唐突ですがここで再度、「伊丹万作」氏の
戦争責任者の問題
を引用したいと思います。はい。
少々長いのですが、お付き合いいただけると幸いです。
<引用>
『戦争責任者の問題』
伊丹万作
<前略>
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
<中略>
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
<中略>
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
<中略>
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
<中略>
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
<後略>
(『映画春秋』昭和二十一年八月号)
</引用>
途中かなりはしょっていますが、なんにせよ「一言一句」が
ワタシの胸にせまるワケですわ。
戦時中、大本営に従った言論人、マスコミは口をそろえて、
そうゆう時代だった。
と自己弁護をするワケですが、時代のせいにして
自分には何の責任もないとでも言いたいのか?
今回の民主党への政権交代にしても、
歴史が動いた。
とか言う輩は、都合が悪くなったらやっぱり歴史とか時代のせいにして
ほっかむりを決め込むんでしょうなぁ・・・
チガウダロ?
ワタシがワタシの意思で、アナタがアナタの意思で、
現状の政権を選択したということを自覚しない限り
いつまでも「運命」とか、「時代」の奴隷でいるしか無いワケです。
自分の道を切り開く。その為に何を成すべきか?
「世に倦む日々」氏の様に、政治家にメールを送るも善し。
不条理な現状に負けない気概を持つも善し。
だまされないように勉強するも善し。
ひとりひとりに、必ず「自分の持ち場」があるハズです。
自分の持ち場で、日々ベストを心がける。
(ベストを尽くせとは言いません。心がけで十分。)
それが「チーム・ジャパン」の心意気。
日本を遠く離れているワタシではありますが、
日本の独立
を願う「チーム・ジャパン」みなさんと、心はひとつです。
「独立と自由ほど尊いものはない。」
とは、かのホー・チ・ミン国家主席の言葉ですが、
日本を離れて長く暮らしてみて、はじめて日本とゆう国が
敗戦国
だという事実を実感しましたし、また、世界が「戦勝国」、
「連合国」のご都合で動いていることも・・・
しかし、日本の未来には希望が見えます。恐らく
世界中で一番政治的に覚醒している
のが日本国民だと、ワタシの目には映るからです。
そして、「アメリカのくびき」から解放されるためにも、
声を上げるべき時には、声を上げる。
その「時」を見誤らないようにしなければ・・・
か様に思う次第です。はい。
でわっ!