浅川嘉富センセイ?のHPを覗いたら上記の記事があり、記事を読んで思ったのですが、ホボットだかパペットだかいう人の語る、アセッションだの、5次元だの、2012年だの、浮ついた話よりも、こういった地に足の点いた記事をコツコツ書いた方がイイんじゃないですかね?ま、余計なお世話ではありますが。
で、件の記事を読んで、随分前に書いた「ナウシカ」のエピソードが頭に浮かんだワケです。・・・はい。
(再)我々は、我々なのだ
2007年9月18日火曜日
<貼付>
唐突ですが、「風の谷のナウシカ」の原版のなかで、
「オーム(王蟲)が科学者によって創造されたとしても、高貴な魂はオーム自身のものだ。」
とナウシカが語るくだりがあるのですが(記憶では)
自分自身を振り返って見るに、
「自分」という存在は自分以外の
「他人」の存在によって成り立っているワケで、
いわば「自分」とは「他人」集まりである「社会」によって
産み出された「存在」とも解釈出来るのでは?
確かに「社会」があるから今の自分がある。
「社会」があるから「仕事」にありつき「生活」することが出来る。
「社会」があるから「仕事」がなくても「生活保護」や、
他人の「援助」を受けることが出来る。
人間は一人では弱い存在。
だから「社会」という共同生活単位が必要になる。
で、昔の人は行動範囲も狭かったので
「社会」の範囲も狭かったのでしょうが、
文明の進歩とともに「社会」の範囲もどんどんひろがっって
20世紀初頭には「国家」というレベルにまで
「社会」が拡張されたように思うのですよ。
民族、文化の最大公約数としての「社会」=「国家」
という体制の中で100年が過ぎ、
その間にも文明は加速度的に進歩したのに関わらず、
「社会」の単位は「国家」のまま固定されているワケです。
(もちろん異文化、異人種に対する拒否反応は動物的に自然な反応ですが。)
「国」とはなんなんでしょうか?
「愛国心」について問われるなら、まず真っ先に思い浮かべるのは
自分の家族であり、日本の表情豊かな四季の自然であったり、
幼い頃遊びまわった自分の家の近所であったり・・・
「永田町」や「国会議事堂」や「政治家センセイの顔」
でないことだけは確かです。
それでイイと思うんですよね。ワタシ的には。
イラクで戦死した多くのアメリカ兵も、
最後に思い浮かべるのは「母親」の顔であったり、
よく釣りに行った「近所の川」だったり・・・ね?
アメリカ国旗を思い浮かべながら死ぬ兵士なんて
ホンの一握りじゃないでしょうか?
(まったくいないとは言いきれません。)
前置き?が長くなりましたが、現在
「麻生」さんと「福田」さんが総裁選で争っていますが、
「テロ対策特別措置法」に関する
お二人のコメントで共通しているのが
「国際社会から必要とされている。」
という認識です。
この場合の「国際社会」とは
イラクの国民も含まれているのでしょうか?
もとよりアメリカの国民も支持しているのでしょか?
<記事貼付>
2007/09/16-09:23 米首都で数千人が反戦デモ=150人を拘束
【ワシントン15日時事】米国の首都ワシントンで15日、イラク戦争の即時終結を訴える反戦デモがホワイトハウス前と議会前で繰り広げられ、数千人が参加した。米メディアによると、議会前では規制のバリケードを突破しようとしたデモ参加者約150人が警官隊に拘束された。反戦デモに対抗するイラク駐留米軍支持のデモも行われ、週末のワシントンはイラク戦争をめぐる賛否の渦に巻き込まれた。
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007091600019&m=rss (時事通信)
</記事貼付>
どうやら彼ら(政治家)の言う「国家」、「国際社会」とは、
「国民」を含まない「戦略」の「カケヒキ」のための
「道具」にしか過ぎないのかも知れませんなwww。
ワタシは思うのですよ。「国」を見るのではなく、
「人」を見なければならないと。
「某国が攻めて来る!」
・・・とか、
「日本が乗っ取られる!」
・・・とか、
まことしやかに言う人がありますが、
例えば、「北朝鮮の一般庶民」が
日本に攻め込もうと本気で考えているのでしょうか?
「アメリカの一般庶民」が「イラクの一般庶民」の
窮状を望んでいるのでしょうか?
いま、「社会」の規模はいやおう無く拡大しています。
中国に原発が増えれば「放射性物質」は
確実に日本にまで飛来します。
もとより中国国内でも大問題となるでしょう。
中国政府の「方針」で
「中国の一般庶民」は甚大な被害をこうむるワケですが、
残念ながら中国の庶民には政府の方針に反旗を翻す
力が与えられていないのが現状なのでしょう。
しかるに日本国民は先の参議院選挙で
自らの意思を政府に突きつける事ができました。
「政治家は、あくまでも国民の代理人なのだ!」
・・・と。
このことは、世界中の「国家」という枠に
囚われた庶民にも同様に言えることで、
まず国民どうし、庶民どうしの相互理解、協調が無くしては、
この「世界」という「大きな社会」=共同生活単位が
成り立たないように思うわけです。はい。
・・・で、
我々は「国家」などではなく、
「我々は、我々なのだ!」
と表題に戻るわけです。
にしても、こんなにいろいろ考えさせてくれる
「風の谷のナウシカ(原版)」って・・・
奥が深いわぁwww。
</貼付>
旧記事を読み易い?ように、ホンの少しばかり加筆修正しましたが、ほとんどオリジナルです。
で、「国鱒」の発見騒ぎに戻るワケですが、秋田県の田沢湖で絶滅した「国鱒」が、山梨県の西湖に生息していた!・・・と。何でも65年前に田沢湖の孵化場から、西湖の漁業組合に贈られた卵が孵化したものらしいのですが、今迄みんな、そんな事は忘れていたワケですよね?それを今更「絶滅種が生きていた!」と大騒ぎするなんて、人間とはなんて勝手な生き物なんだろうと、国鱒に心があったらそう思っていることでしょうなwww。
国鱒にしてみれば、与えられた命をただ只、淡々と生きて来たに過ぎないワケで、西湖に移されたことは人間の手に拠るものですが、西湖で生き続けて来た事は国鱒自身の生命力に拠るもので、南極に置き去りにされたタロウ?と、ジロウ?の二匹のソリ犬のように、言葉をどう取り繕おうが、身勝手な人間の思惑を超えた所に生命の尊厳がある様に、ワタシは思えるのですなwww。
全ての命は、命としてこの世に存在する時点で平等である。もしくは独自の尊厳を持っていると、大昔の人は自らの手で生き物を殺め、その命を奪い自らの命を維持してきたが故に、生命と云うものを、現代人よりもずっと厳粛に受け止めていたのではないでしょうか?それが生命全般、さらに拡大すれば存在全般に対する「共感」=八百万精神として、ワタシたちのDNAの中に刻み込まれているのかも知れませんなwww。
でわっ!