このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
どうも「反原発」をイデオロギーと捉えるしか能が無いのが所謂、「知識人(恥識人)」という人たちらしいですな。もうね?根本から履き違えているワケですよ。「善意」で反原発?「正義」で反原発?
アホか?・・・と。
反原発の根本は、
生存の危機
にあるワケです。目の前に包丁を持った頭のイカレた奴がいる状況で、「善意」だの「正義」だのお題目を唱えているヒマがあるんですかね?え?自分の命を守るためには逃げ出すか、そいつを取り押さえるしかないワケでしょ?
「善意」だの「正義」だのという言葉に酔っているのは、「言葉」を商売道具にしている「知識人(恥識人)」くらいなものでしょうな。こちとら庶民は、毎日の生活に立ち向かわなければならないワケですよ。現実問題として・・・。その為には、「日常生活の障害」になる要素は排除しなければならないワケです。それが・・・
原子力発電
なワケですよ。福島県のみなさんの様に、生活圏を奪われたらオシマイです。起きてしまった事故を元に戻す事は出来ませんが、これから起こりうる事故はいくらでも未然に防げます。
こんな簡単な事すら、「知識人(恥識人)」には理解できないんですかね?ワタシたち庶民が求めるのは、「安全に暮らせる生活圏」です。それ故に原発に反対するのです。「善意」とか「正義」とか、そんな薄っぺらな言葉で「命の尊厳」を捻じ曲げないで欲しいものですな。
福島県の児童の被爆問題にしても、「善意」とか「正義」とかで語る問題ではなく、同じ庶民としての、子供を持つ親としての、「同情」であり、虚構の安全を流布してきた電力会社や、政府に対しての「憤り」の感情が6万人もの人を集めたと。
然るに、そういった庶民の切実な感情を、「善意」とか「正義」とか、浮ついた言葉(商売道具)で片付けようとする「知識人(恥識人)」なんぞは、事実を捻じ曲げる勢力以外の何者でもなく、
口の上手い奴に騙されるな。
・・・と。ワタシは言いたいワケです。で、とあるブログからの引用ですが、意味深な記事があったので転載します。
<転載>
拙稿:欧米から見た日本 その1でアーネスト・サトウはこう言っている。
『、日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。伊藤博文には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。』と。見透かされていたのである。
</転載>
「知識人(恥識人)」などという「職業」は存在しません。アカデミーだか垢出身ーだか知りませんが、「権威」を信頼するなんて愚の骨頂。本当に頭のイイ人間、優秀な人間であれば、誰にでも解りやすく語れるものです。逆に、難解な専門用語で本質を煙に巻くかの様な連中は、ほとんど詐欺師と言ってイイでしょうな。
でわっ!