ワタシ個人の考えですケド、世の中には「競争が好きな人」と「競争が好きじゃない人」の二種類がいると思うんですわ。で、資本主義、自由主義って、誰にでも「平等にチャンスがある」と謳い、それはそれで耳障りがイイのですが、「誰にでも・・・」を「競争が好きな人」と「競争が好きじゃない人」に照らし合わせて考えると、あくまでも競争が好きな人にのみ、望まれる「主義」のように思うワケですね。はい。
「競争が好き」な人の感覚ってどうなんでしょ?「ゲーム感覚」で競争を楽しんでるんですかね?それとも上昇志向・・・所謂、「欲望が強い」ってコトなんですかね?以前も書いたように、飛び抜けた成功者になるには、ある面、「クレイジーな部分」が無いとダメなんじゃないかと。
で、「クレイジー」であることって、日常的では無いと思うワケです。社会全体がそういった「クレイジー」さで満たされるようになったらどうなるのか?ナンとなく想像がつきます。「北斗の拳」に出てきた「阿修羅の国」。幼い頃より己の力だけを頼りに生きる事が強要される、殺伐とした国。その状態が、お金だけを頼りに生きる事に置き換えられるだけの話です。
「力」も「お金」も使い様ですわな。使い方を間違えれば、両方ともただの「暴力」です。で、自由主義者、資本主義者が言うところの「競争」って、その「力」を、常に高めなさいってことでしょ?競争に打ち勝つのが「善」だと・・・「成長」だと・・・
そういった「競争」が大好きな人たちって、そんなに沢山いるんでしょうかね?せいぜい全体の10%くらいの様に思えるんですが・・・。でないと、誰もが日々競争に神経をすり減らしていたら、社会が成り立たない様にも思えますし、心安らかに暮らせるんでしょうか?
10%の競争大好きな人たちの他に、90%のフツー?の人たちがいるからこそ、社会が安定しているような気もします。ワタシわ。従って、「自由主義」「資本主義」を至上とする社会って、「阿修羅の国」を目指しているように思えてなりません。
「競争が好き」も、「競争が嫌い」も、両方とも個人的な好みの問題に過ぎません。そういった個人の嗜好を社会の潮流に摩り替えるのって、「独裁」にも繋がるんじゃないでしょうかね?つまり「自由主義独裁」「資本主義独裁」ってことに成りかねないと。
「原点」に戻って考えれば、社会とは「弱者」も「強者」も、共に生き残るために、より生き残る確立を高めるために辿り着いた生活様式であったワケで、その生活様式を10%の強者(天才?)に合わせて変えようとするのが、「自由主義」とか「資本主義」の様に思えたりもします。最近。
なぜ?90%の、「競争が好きじゃない」人たちをそっとして置いてくれないんですかね?世界は、日本は、ドッチを向いてるんですか?まさか「阿修羅の国」を目指しているんじゃ無いでしょうな。
「民主主義」とは「民」が「主」であって、けっして「金銭」だとか、「競争」が主である考え方では無いはずです。「民主主義」の「民」とは、「強い人間」であり、「弱い人間」であり、「賢い人間」であり、「愚かな人間」であり、「富める人間」であり、「貧しい人間」であり、「善人」であり、「悪人」であり、「勤勉な人間」であり、「怠け者な人間」であり、「愛ある人間」であり、「利己的な人間」であり、「ワタシ」であり、「アナタ」であって、その全てをひっくるめて「民」と言うのだと、ワタシは解釈します。
つまり全ての人がバラバラでありながら、「自分の人生」の過程において様々な局面で出会いと別れを繰り返し、「自分」という個体に自分で存在感を見出していく・・・。それは多分、この世に生まれてきた事の一番重要な命題の様にも思えるのです。
そういった「個の多様性」は、「自由主義」「資本主義」といった、経済的な思潮とは相容れないように思うワケです。「個の多様性」と相容れるのは、やはり「民主主義」であり、であれば、社会の基底に「民主主義」を置き、「自由主義」とか「資本主義」とか、その他のあらゆる「主義」はオプションと考えるべきかと。
ま・・・そんな事をTPP積極派の意見を目にして思ったりした次第です。はい。
自民党はいつから社会主義に転換したか
Mutteraway 時事問題を語るブログ より
農家という「偽の弱者」
アゴラ 池田信夫 より
電卓を弾いただけでは、人間に関する答えとか、政治に関する答えは出ないでしょう。結果を急ぐ人たちにはどうにももどかしいでしょうが、じっくりと話し合うしか他に方法はありません。勿論ワタシにしたって、明確な答えなんて持ち得るハズもなく、ジッサイ答えなんて、相対的に変化するんじゃないでしょうか?対人関係においては。
一部の経済人や企業家が、その他大勢の意見を無視して勝手な真似をすることは許されません。それは民主主義に反するからです。「自由主義」「資本主義」には適っていようが、ワタシたちが立脚するのは「民主主義」であるという「合意」を自覚しなければなりません。
もし、「自由主義」「資本主義」をどうしても「国是」に掲げたいのであれば、どこか(例えばスイスとか?)に「競争が好き」な人たちだけを世界中から集めて、「新国家」を作ることをお勧めします。そうすれば、死ぬまで心置きなく「競争三昧」の、楽しい日々が送れることでしょう。(チョット過激っスカ?)
でわっ!