2012年4月14日土曜日

ユダヤの告白 第六章

      
 それでは粛々と、「ユダヤの告白」 を続けますです。


ユダヤの告白 (1990年)
P・ゴールドスタイン J・スタインバーグ 共著
発行:エノク出版 版権:宇野正美


<転載>

第二部 かくてアメリカは浸触された


 第六章 ブナイ・ブリスの正体


 アメリカ侵略の野望


 1989年の夏、米国・テキサス州議会の一部議員グループが、墓場荒らしや動物のいけにえを捧げる儀式を行うサタン礼拝者たちに厳罰を科する法案を提出した。

 この立法化の動きは、メキシコのマタモロスに本拠を置く麻薬取引人の一味がテキサス大学生マーク・キルロイを誘拐、殺害したことがきっかけで起こった。マタモロスはテキサス州ブラウンズビルから国境を越えたところに所在する街である。

 1989年5月にメキシコとアメリカの警察が、マタモロスの近くにあるコカインとマリファナの隠し場所と見られる農場を手入れしたとき、集団埋葬を行った墓地とサタン礼拝の祭壇を発見した。キルロイを含む少なくとも15人が、拷問にかけられた上そこで殺されていた。死体はばらばらにされて大鍋の中に入れられていた。その麻薬取引人一味のリーダーであるキューバ系アメリカ人、アドルフォ・デ・ジーザス.コンスタンッオは、人間を生贄として捧げ悪魔礼拝をすれば、サタンの力が警察から自分たちを守ってくれると一味の者たちに説いていたのである。

 この思いがけない出来事、それに犯罪的な儀式がもたらす気味悪い恐怖の念にテキサス中は大変な衝撃を受けた。悪魔礼拝というおどろおどろしい儀式を禁止し、悪魔礼拝者に長期拘留と多額の罰金を科そうというこの法案は、ほとんど全員の支持を得た。テキサス州知事はこの法案を通過させるために特別州議会を召集した。

 しかしブナイ・ブリスのADLは、この法案を 「反ユダヤ主義」 と決めつけ、法案通過阻止のためのキャンぺーンを大々的に張った。まずユダヤ人共同体の間で反対運動を起こそうと必死になったADLは、この新しい法案が通ればラビが男児に割礼を施すと起訴される恐れが出てくると主張した。しかしダラスやヒューストンの有力なラビたちをはじめテキサスのユダヤ人共同体の大半は、ADLの圧力に従うことを拒否しこの法案を支持した。

 これはADLのやり口の典型的な例である。

 ADLというのは何であるのかそれを深く理解する上においても、またアメリカの内側において彼らが悪しき役割を理解するためにも、悪魔礼拝を行うオカルト主義者の権利を擁護しようとするADLのこの奇妙な行動をまず見てみることは役に立つ。


 アジア秘儀に由来するシオ二ズム


 20世紀への世紀の変わり目に創設されて以来、ADLは国際的オカルト団体フリーメーソンの形だけの 「ユダヤ」 ロッジ(支部)の中心的存在であった。フリーメーソンについては、一部の歴史家は 「ユダヤ人でないユダヤ人たち」 と称している。ADLの母体であるブナイ・ブリスは、スコティッシュ・ライト・フリーメイソンのユダヤ人部門として1843年アメリカに創設された。その際のフリーメーソンのトップは、当時のイギリスの首相でありアヘン戦争のイギリス側最高責任者であったパーマストン卿であった。

 パーマストンの外交団はオカルト主義の温床であった。第一次アへン戦争当時のイギリスの駐中国首席外交官はエドワード・バルワー・リットンであるが、彼もまたオカルト主義者であり、ローマ帝国の異教信仰の復輿を唱える 『リエンッィ』『ポンぺイ最後の日』 など多くの書物を著している。

 ブナイ・ブリスが正式に設立される数世紀前から、ヨーロッパにおいては強大な権力を有する寡頭政治を目指す人々の集団がユダヤ人の神秘的な儀式に関する書 『カバラ』 を研究し、これを彼らの秘密結社の中に取り入れていた。

 薔薇十字団エルサレムの聖ヨハネ騎士団スコティッシュ・ライト・フリーメーソンといった秘密結社は、ルネッサンス期から近代国家が出現した時代にかけて起こってきた新しい動きに対抗し、ヨーロッパの封建時代の古い制度を守るために創設されたものである。封建制度を維持しようとするこうした者たちはカバラの儀式を取り入れた際、それに携わっていたユダヤ人の特定の家族を選んで自分たちの仲間に組み入れた。

 このような特定のユダヤ人の家系の者を意味するものとして 「ホフユーデン」(宮廷ユダヤ人) という言葉がつくられた。こうしたユダヤ人は、寡頭政治の下で首席宮廷顧問という特別の地位に就いた。だが、その一方で彼らの同胞であるユダヤ人が迫害され、見せしめの犠牲者となり、隔離されたゲットーの中で貧しい生活を強いられるということがしばしば起こった。

 17世紀中頃にスコティッシュ・ラィトの指導的フリーメーソンであったエライアス・アシュモールがイギリスのオックスフォード大学を 「秘密の知識」 研究の中心機関につくり変えるよう命じられたことをきっかけに、ヨーロッパの秘密結社はカバラ儀式の採用に一段と積極的になった。アシュモールの伝記作家C・H・ジョスターによれぱ、「1652年2月、アシュモールは自分のそれまでの研究にもうひとつの主題を加えた。その主題というのは、カバラの記号を使った魔術用の印章を彫る儀式、および彼の目にとまった、ユダヤ人こそが最高とするユダヤ史料に関する研究である」 という。

 1645年、アシュモールは出来たばかりのイギリスのフリーメーソン支部に入り、すぐにこれをスコティッシュ・ライト結社に改組した。またその一方で同じ頃、彼はカバラの神秘主義の流れをくむユダヤ教などのアジアの秘儀を研究するためにアシュモール博物館を設立した。シオニズムは、こうした研究を母体に生まれてきた考えである。


 アメリ力独立戦争の背後で


 1763年、寡頭政治を目指すイギリスのグループは、ホフユーデン初の組織であるユダヤ評議会を設立した。それは今日もなお存在している。この評議会の構成員はカバラ主義のラビと有力なユダヤ人金融家たちであった。金融家としては、モンテフィオール、セバッグ、そして後にはロスチャイルドといった一族が名を連ねていた。この評議会の構成員となったカバラ主義者には、アシュモール博物館やオックスフォードで直接訓練を受けた人々が多かった。

 アメリカ独立革命すなわちアメリカ植民地の反英闘争の頃には、イギリスの寡頭制支持者たちは、後のADLのような 「汚いトリック」 を受け持つ特別な組織としてカバラ主義者のネットワークを利用していた。これらカバラ主義者の中には、ユダヤ人の血を全く承けていない人たちも混じっていた。そのような人物の存在を示す一例として、次のような事実を挙げることができる。

 1780年、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンであり、イギリス東インド会社を動かす 「秘密委員会」 の会長でもあったシェルボーン卿は、当時首相であったノース卿率いるイギリス政府に対し政治闘争を仕掛けた。シェルボーンはこのノース卿に対して北米における惨澹たる敗北の責任を負っていた。

 英国議会がアイルランドのカトリック教徒に一定の自由を認める法律を通過させた時、シェルボーンは彼の手先の一人ジョージ・ゴードン卿を使ってプロテスタントを煽動し、議会で反カトリック暴動を起こさせた。

 ロンドンの浮浪者や地方からやって来た農民からなる群衆が何日にもわたって暴徒と化し、放火と略奪を行った。暴動の参加者は東インド会社の手先から買収されていた上に、酒を振舞われていた。

 彼らは議会の中にまで乱入し、上院議員たち、中でもシェルボーンや 「東インド会社」 に反対していた上院議員たちは、2階の窓から放り出された。上院の公安委員会議長であったシェルボーン卿は、これに対してあえて暴動法を発動したり警官の出動を要請したりすることもせず、混乱を2日間も放置した。

 暴動が鎮圧された後、ゴードン卿はほんのしばらくロンドン塔に監禁されただけだった。ノース内閣は恐慌をきたし、その後しばらくして内閣は辞職してしまった。新内閣においてシェルボーンは植民地大臣となり、その後アメリカ独立戦争を終結させるべくパリ条約が話し合われた大切な時期に総理大臣に就任した。

 コードン卿はロンドン塔から解放された後、カバラ主義ユダヤ教に改宗し、名もイスラエル・べン・アフラハムという名に改めてオランダに再びその姿を現わした。別の人間になり代わったゴードン卿は、ルイ16世末期のフランスで活動し、フランス人の魔術師やフリーメーソンの手先であったメスマーと共にマリー・アントワネットの中心的オカルト・アドバイザーとなった。


 アメリ力に渡ったフリーメーソン


 アメリカ独立革命に続いて、イギリス東インド会社と同様にイギリス政府情報部をも支配していたイギリスのスコティッシュ・ライトの指導者たちは、大西洋の反対側アメリカで新しく建設された共和国を転覆し、最終的にアメリカをイギリスの手に取り戻すことを企てた。この目的を果たすため、南カロラィナ州チャールストンをはじめいくつかの都市にスコティッシュ・ライト結社が創設された。当然のことながらそのような都市にはユダヤ商人の小さな社会も出来はじめており、その後まもなくユダヤ人共済会やユダヤ人孤児援護会も創られた。こうした初期の活動で名のある人物として、モーゼス・コーエン、モーゼス・リーバイ、アイザック・ダ・コスタ、モーゼス・べイクソットなどが挙げられる。彼らの多くはオランダ東インド会社の代理人として西インド諸島に定住したスファラディ・ユダヤ人の家系の出であった。

 こうした団体の中でも最初のものは、1784四年にすでにメンデス・ロべスの手でチャールストンにつくられていた。南北戦争中イギリスが支援するアメリカ南部連合側の中心として活躍したジュダー・P・べンジャミンも、1827年にチャールストンのユダヤ人孤児援護会に入っている。

 しかしこれら名ばかりの 「ユダヤ人」 組織は結成当初から、ウォルター・スコット卿やアイザック・ディズレーリ卿といった大物メーソンの手でイングランドやスコットランドに創られたフリーメーソンの聖ヨハネ騎士団や、エルサレム・ホスピタル騎士団あるいはユダヤ人文芸協会といった組織の単なる下部機関にすぎなかった。ディズレーリの著書 『イギリスにおけるユダヤ人の歴史』 は、寡頭政治を企む集団の陰謀に与してアメリカ合衆国を攻撃することが思想的にいかに正当なものであるかを英米両国にいるホフユーデンに向かって記したものである。

 ユダヤ人共済会やユダヤ人文芸協会というものには神秘的な意味合いが込められているが、それには実際的な目的もあった。中央ヨーロッパにおけるポグロムを避けてアメリカにやって来た大量のユダヤ移民は、自由と繁栄を手に入れることができるという希望を抱いていた。ユダヤ・フリーメーソンの集団はこうした移民をふるいにかけ、野心がありかつ堕落しそうな人々を選ぴ出して自分たちの仲間に引き入れようとした。

 こういう形で仲間に加わったユダヤ人が、20世紀の初めになるとアメリカにおける組織犯罪の中核を形成することになる。後の章で詳しく述べる通り、禁酒法時代を経る過程でアメリカには大規模な組織犯罪の基盤が出来上がったが、この禁酒法自体がアメリカ共和国初期の時代から続いているスコティッシュ・ライトとホフユーデンの共謀によって成立したものだった。禁酒法時代にブロンフマン一族、レインフェルド・シンジケート、パープル・ギャングやメイヤー・ランスキーといったユダヤ・ギャングが全国のもぐりの酒場に酒を供給したが、こういったユダヤ・ギャングにスコッチ・ウイスキーを流したのが、ヘイグ卿のようなイギリスの貴族たちだったのである。


 ブナイ・ブリスの創設


 1801年、ロンドンのスコティッシュ・ライトのグランド・マスターたちは、昔から継承されてきたスコティッシュ・ラィト・フリーメーソンの位階において第33階級に位置し、ソロモン神殿の家騎士団の団長からなる最高会議である、エルサレムの王子の大会議に、支部設立許可状を与えるという思いきった手段をとった。こうしてアメリカにおける最初のユダヤ人フリーメーソン支部は、南カロライナ州チャールストンに創設された。当然のことながらこの都市は、その後半世紀以上にもわたって合衆国に楯突く勢力の拠点となった。

 このチャールストンにスコティッシュ・ライトの南部地域を管轄する本部が置かれた。この支部の最初のメンバーの中には、ダ・コスタ、コーエン、イスラエル・デ・リーべン、アイザック・へルド博士・モーゼス・リーバイ、ジョン・ミッチェル、フレデリック・ダラチョといった人々がいた。

 そしてこれらのユダヤ人スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの要職にあった者たちが、1843年にブナイ・ブリス(契約の子孫の結社)を設立したのである。ブナイ・ブリスの組織はフリーメーソンの 「ロッジ」 に倣って創られた。

 プナイ・ブリスが創られたのと時を同じくしてイギリスではシャフツべリ伯爵、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの最高位の座にあったパーマストン卿、モーゼス・モンテフィオーレ卿、それにナサニエル.ロスチャィルドといった人たちの後援によってパレスチナ植民協会が設立された。そのアメリカ支部であるパレスチナ在住困窮ユダヤ人救済北米協会は、アメリカのホフユーデンから集めた資金を、パレスチナに 「ユダヤ人の国」 を建設しようとする初めての植民計画に注ぎ込んだ。


 リンカーン大統領の暗殺


 シャフツべリ伯爵は当時、アメリカのホフユーデンの資金を利用しようとするイギリスの寡頭政治家たちの巧妙なやり口について、さも満足そうに、次のように記している。

 「ユダヤ人はその地に対し古えの想い出と深い愛着の念を持っている。・・・・彼らはほとんどいたるところに住んでおり、各々に勝手な規律の下で暮らしており、政治には全く無関心で、忍従と自己否定にすっかり慣れきってしまった人々が辛うじて手にし得る楽しみだけを喜びとして生きている。・・・・彼らは現に存在する政府にはそれがいかなるものであっても従い、自分たちで何か別の考えを持っということもない。そして専制政治に対しても、いかなる地にあっても絶対服従する訓練はできている」

 スコティシュ・ライトゃロンドン側のホフユーデン組織からすれば、アメリカにブナイ・ブリス、別名契約の子孫の結社を設立する目的は、南部諸州を合衆国から脱退させ、間もなく仕掛ける北軍への全面攻撃に備えてユダヤ人フリーメーソンの基盤を拡げることにあった。こうして南北戦争が始まり、アブラハム・リンカーン大統領が暗殺されることになった。ブナイ・ブリスが奴隷所有者の一派に属しリンカーン暗殺に係わっていたことは、紛れも無い歴史上の事実であるが、そのことは身内の者たちにも知らされていなかった。

 ブナイ・ブリスはフリーメーソンの集団だなどと言おうものなら、今日では反ユダヤ主義者のレッテルを貼られるのがオチだ。しかし、設立当時においては、ブナイ・ブリスがスコティッシュ・ライトの組織を範としてつくられたものであることは公然の事実だった。

 ブナイ・ブリスが設立されて間もない頃、その公式機関紙 「メノラー」 の中で次のような経緯が紹介されている。

 「ブナイ・ブリスとスコティッシュ・ライトの間では頻繁に会合が行われていたし、その構成員の中には当時存在していたフリーメーソンや秘密相互扶助団体のオッド・フェローズといった慈善団体にも加盟していた人が何名かいた。そこで、彼らの間で 『ユダヤ人の思想』 に基づいてこれらと同じような組織を創るのが一番よいとの結論に達した。ユダヤ人の宗教の中には秘密結社にも見られる同じ儀式やしきたりが数多くある。例えばシナゴーグは支部の集会場に該当し、昔は日に2回使用された。友人を見つけたいと思うユダヤ人が行く場所といえばそこしかなかったし、また決められた動作や合い言葉を使って自分の意志を相手に伝えるしかなかった。・・・・その動作とは両手による特殊な握手の仕方だったし、決まった言葉というのはシャローム・アラへンという呪文だった。戸口の側柱に掛けられたメズザは互いの目印であったし、シェマ・イスラエル(聞け、おおイスラエル)という語が彼らの合い言葉であった」


 ユダヤ人秘密結社の危険性


 ユダヤ人秘密結社としてブナイ・ブリスが設立されたことを快く思わないユダヤ人は多かった。ブナイ・ブリス設立の当初、アメリカにいて事の成行きを目撃したヨーロッパのユダヤ人、イスラエル・ジョセフ・ヘンジャミンは、自分の体験を記した著書 『アメリカでの3年間、1859-62年』 の中で、この結社について次のように述べている。

 「これは秘密結社である。合い言葉などを使ったりするあのフリーメーソンと同じ秘密結社である。そして私にはそれまで無かった全く新しい組織のように見えた。・・・・それでも、全く創る必要のないもののように私には思えた」

 エドワード・E・グラスドが著した半ば公式のブナイ・ブリス史 『ブナイ・ブリス-契約の歴史』 でさえ、初期の支部が排他的なほどにユダヤ的特性を持っていたことを強調しているだけで、ブナイ・ブリスがフリーメーソンを母体にして出来たという事実を少しも隠そうとはしていない。

 「今日でも時々語られる一つの伝説がある。それは、ブナイ・ブリスが創設されたのは、1843年にユダヤ人がフリーメーソン結社とオッド・フェローズの構成員から除外されたからだというものである。これは明らかに事実に反する。というのはブナイ・ブリスの創設者の中に、これらの組織に加入していた人が何名か居たからである。ジョーンズやローゼンバーグ、ルノー等をはじめブナイ・ブリス設立直後に加入した人々が書いた記録が断片的に残っているが、それを見てもこの点については全く疑問の余地はない。・・・・『神の助けによって、アメリカに住むイスラエルの子孫を一つにまとめる手段』 としてのユダヤ人組織であるといったようなことをジョーンズは書き残している」


 二股がけの戦術


 ブナイ・ブリスは勢力拡大のために大規模な人集めを行ったが、その最初の試みはバルーク・ロスチャィルドの手によるものだった。彼は、メイヤー・アムシェル・ロスチャィルドが興したロスチャィルド一族の人物だった。彼がそういう活動を始めた理由は 「構成員は同等の教育を受けてはおらず、知的能力に大きな差があった」 点を心配したからだった。言い換えれば、ヨーロッパ封建時代の貴族の秘密結社が採っていた加入者全員に同一の厳しい資格要件を課するという方法を、ブナイ・ブリスも採用したわけである。

 ブナイ・ブリスが優秀な人々を求め出した裏には、この団体が中心になってアメリカ共和国に対してかつてなかった程の反逆的な陰謀を巡らしていたという事情がある。この陰謀については、米国情報部職員であり発明者でもあったサミュエル・B・モースが1860年に著し、人口に膾災した有名な情報レポートに記されている。「アメリカ合衆国解体を目論む今日の試み-イギリス貴族の陰謀」 と題するこのレボートだった。その中で、モースは次のように記している。

 「アメリカ合衆国に対するイギリスの態度を見ると、アメリカという国家に対し敵対的な態度をとっている二つの党派がはっきりと存在する。一つは南部側につく綿花の利害関係者、もう一つは北部側につく奴隷制廃止を唱える人たちである。そしてイギリスはこの二つのグループ間のバランスを巧妙にとりながら事を進めている。すなわちこうした党派を自己の政治目的のために米国内において自分の持ち駒のように使うわけで、常に双方がいがみ合う形をとらせておくために、一方または他方の側に、あるいは両方同時に援助を与えるというやり方をしている」

 特に二人の人間の存在が、モースが露いた陰謀にブナイ・ブリスがどういう役割を果たしていたかを端的に示している。その二人のうちの一人は南部連合の要職にある人物であり、もう一人は北部民主党の大物であった。

 最初の男の名はジュダー・P・べンジャミン(1811-84)「南部連合の闇の貴公子」「ユダヤ人南部連合支持者」「南部連合の頭脳」 といった様々な名で知られた人物である。南カロライナ州チャールストンでスファラディ・ユダヤ人の両親から生まれたべンジャミンは、2年間エール大学で学んだ後、なぜかこの名門大学を去り、その後ルイジアナ州ニューオーリンズに再び姿を現した。エリ・N・エバンスによる好意的な彼の伝記によれば、べンジャミンが突然エール大学を退学した理由は、彼が何人かの学生の持ち物を盗んだことがスキャンダルになったからだという。

 1852年、べンジャミンはアメリカ合衆国上院議員となり、南北戦争が始まった時もその地位に留まっていた。戦争開始とともに彼は初代司法長官として南部側に加わり、後には陸軍長官や国務長官となった。その後、彼は南部連合大統領ジェファーソン・デービスとともに、アブラハム・リンカーン大統領の暗殺を命令した嫌疑で公式に起訴されたが、バージニア州アポマトックスでロバート・E・リー将軍が北軍の前に降伏した時、カリブ海のビ二ミ島経由でイギリスへ逃亡した。そしてイギリスは彼に対し、合衆国解体を狙う自分たちのために多大の功績があったという理由で弁護士として特別の地位と富を与えた。べンジャミンはロンドンへ亡命した後も、アメリカ共和国を倒すため、クー・クラックス・クラン(KKK)の見えざる帝国といった秘密結社を創るために引き続き奔走した。ブナイ・ブリスの正式なメンバーではなかったにも係わらず(ある記録によると彼はプロテスタントに改宗さえしたという)、べンジャミンはスコティッシュ・ライト南部地区の重要人物であっただけではなく、チャールストンを拠点にしたブナイ・ブリスの国家に対する背信行為の全てを操る黒幕でもあった。


 べルモントの活動


 もう一人の人物の名はオーガスト・べルモントであった。1837年5月14日、彼はニューヨークにやって来た。彼はここへ、ロスチャィルド家の利権に関する仕事を口実にキューバへ行く途中、立ち寄ったものにすぎなかった。ところがべルモントがニューヨークに到着したちょうどその時、金融大恐慌が起こり、19世紀最大の不況が始まった。彼はロスチャイルド家が抱える従業員のために緊急の事業を始める任務を急遽命ぜられた。べルモントはそのままニューヨークに留まった。そして、1856年に民主党党首にまで上り詰めたあとも、20年間その地位に留まった。

 ジュダー・P・べンジャミンとオーガスト・べルモントはともに、ブナイ・ブリスやスコティッシュ・ライトの幹部たちとも組んで合衆国を崩壊させるべく様々な活動を行った。

 この活動はべルモントがブナイ・ブリスのチャールストン支部の幹部だったエドウィン・ディリオンに、「若きアメリカの現状と果たすべき役割」 と題するパンフレットの作成を命じた時から本格的に始まったと言える。 ディリオン家は奴隷商人で、南部連合において重要な役割を果たすようになった。パンフレットの作成にとりかかった時期、エドウィン・ディリオンとオーガスト・ベルモントはロンドンにあるスコティッシュ・ラィトの上部組織の支部が2人の人物を使って始めた合衆国の転覆工作を支援するために働いていた。2人の人物とは、オカルトを信じるエドワード・バルワー・リットンとべンジャミン・ディズレーリの2人だった。この活動には 「ヨーロッパ青年(ヤング・ヨーロッパ)運動」 という名が冠せられたが、この運動が後に共産党第一インターナショナルの活動に受け継がれていくことになる。それはアメリカのみならずヨーロッパの全ての国々の内部にも、イギリスの代理人のネットワークを築き上げることを目的としたものだった。


 アメリ力解体の目論み


 アメリカ国内では、アメリカ青年(ヤング・アメリカ)運動が起こされ、そこにイギリスの手先の人間が多く集まった。ブナイ・ブリスのエドウィン・ディリオン、オーガスト・べルモント率いる民主党から遣わされたジョージ・サンダーズ、空想的理想主義者でこの運動の機関誌 『ヤング・アメリカ』 の編集者でもあるラルフ・ワルド・エマーソンといった人たちもそれに含まれていた。

 アメリカ青年運動は、自由貿易を主張し、中欧におけるロシアとオーストリアの覇権に対抗するため英米が手を結ぶ必要性があると主張した。1853年6月、パーマストン卿とシャフッべリ伯爵が直接後ろ楯となり、欧米双方で青年運動を進めている指導者たちがロンドンに集まって一連の会議を開いた。その目的はヨーロッパ大陸と北米一帯にイギリスの影響力を拡大するための政府転覆計画を話し合うことにあった。出席したのはオーガスト・べルモント、ジョージ・サンダース、イタリア青年運動からきたマッツィーニとガリバルディ、ドイツ青年運動からきたアーノルド・ルージ、ロシア青年運動からきたアレクサンドル・ホルツェン等々であった。

 スコティッシュ・ライトが後援するアメリカ青年運動の中心人物の手で、ブナイ・ブリスの幹部の顔ぶれが目立つ秘密結社ゴールデン・サークル騎士団が組織された。この結社はアメリカ共和国解体を推し進めるというはっきりとした目的の下に設立されたものである。この団体にはジュダー・P・べンジャミン、オーガスト・べルモント、南部地区スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの騎士団長アルバート・パイク将軍、後の南部連合大統領ジェファーソン・デービス、ジョージ・サンダース、それに南カロライナ州チャールストンのブナイ・ブリスの創設者で後に会長になったべンジャミン・ぺイクソットが加わっていた。


 連邦解体の陰謀


 アブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国の第16代大統領に選ばれたとき、アメリカに送り込まれたイギリスの手先は行動を起こした。リンカーンが首都へ立ち寄ったところを暗殺し、財務省とワシントンの鉄道駅を占拠した上で軍事暴動を引き起こす、そして南部の連邦脱退を実現するために戦争を開始するという内容の計画が、密かにかつ入念に話し合われた。リンカーン暗殺の後には、ゴールデン・サークル騎士団の秘密団員であったジェームズ・ブレッケンリッジがアメリカ合衆国大統領に就任することになっていた。また彼は戦争が勃発した場合、戦闘がほぽ全て北軍の領域内で行われるようにするための工作を担当することにもなっていた。

 この陰謀を企てた主な人物には、ジュダー・べンジャミン、スコティッシュ・ライトのグランド・マスターであるロバート・トゥームズ、悪名高いオカルト信奉者でカバラの研究者でもあったアルバート・パィク将軍などがいた。ニューヨークとボルチモアで銀行業を営み、ブナイ・ブリスを財政的に支えていたセリグマン一族は、この陰謀工作のために多額の資金を醵出していた。

 結局この陰謀は陽の目を見ることなく終ったが、陰謀を企てた者たちに手抜かりがあったわけではない。暗殺が実行に移される前に、連邦脱退派の軍隊がチャールストン港のサンプター要塞に砲撃を仕掛けたことがきっかけで戦争が始まってしまったからである。ただ、大統領がボルチモアを通過した時、暗殺計画が実行に移されはしたものの、失敗に終わった。当時ボルチモァはブナイ・ブリスとスコティッシュ・ライトの活動の拠点になっていた。


 誰が奴隷売買をしたのか


 1861年4月、連邦を守ろうとする合衆国軍が首都の守備増強のためにボルチモアを通過しようとしたとき、地元のブナイ・ブリス支部の指導者が率いる暴徒とぶつかった。ブナイ・ブリスがゴールデン・サークル騎士団に加担し、合衆国を壊減させようとするイギリスの陰謀に協力していることなどは無いと考えていた人も、ブナイ・ブリスの率いる暴徒が、奴隷制反対を唱える新聞 「シナイ」 の出版者のラビ、デービッド・アインホーンの事務所を襲撃し印刷機を打ち壊した事件を目の当りにして、その考えをすっかり改めてしまった。

 ボルチモア暴動の後に逮捕された者の中には、ブナイ・ブリス支部で活動する著名なユダヤ人家庭の子弟ジョセフ・フリーデンワルドがいた。数年後、フリーデンワルド家の一員であるアーロン・フリーデンワルドの仕事上のパートナー、モーゼス・ワイゼンフェルドが工場に南部連合の戦争用物資を隠していたことにより逮捕された。奴隷制度を支持する連邦脱退主義者と急進的奴隷制廃止論者たちは裏で密かに繋がっていた。ワイゼンフェルドの裁判において、その弁護を務めたのがボルチモア地区の急進的奴隷制廃止運動を率いるクエーカー教徒のジョンズ・ホプキンスであったことは、この事実を裏書するものであった。

 ブナイ・ブリスの支部の大半は北部に置かれていたが、その個々の構成員はどこに住んでいるかに関係なく南部連合の味方をした。連邦脱退の動きが最高潮に達し、1861年には南北戦争が始まった。その頃ニューヨーク市のラビ、モーリス・ラファルは広く世に知られるようになった 「聖書から見た奴隷制度」 と題する説教を行った。それは黒人の人身売買にブナイ・ブリスが果たした役割を釈明する最低の内容のものだった。

 ジュダー・べンジャミンに繋がるオラング人奴隷商人により設立されたボルチモア・ユダヤ人会も、やはりブナイ・ブリスの傘下にあるシナゴーグのひとつで、南部連合の側に立った。ブナイ・ブリスの指導者の中にはフリーデンワルドのように極めて活動的な人々がいたが、このシナゴーグもそれに負けず劣らずの活発な活動を行った。ラビのバーナード・イロメイは、ラファルの考えを支持する有名な説教を行ったが、その中で次のように彼は語った。

 「自分たちの願いなど叶えられそうもなく、彼らを暴力と専制の足枷の下に縛りつけておこうとするような政府の支配から抜け出ようとしている南部の同胞を、一体誰が非難することができようか。彼らの財産権や合衆国が享受している特権を守ることができないばかりか、守ろうともしない政府が支配する社会から脱退しようとする南部の同胞を一体誰が非難することができようか」

 そして、彼は聴衆に向かって奴隷制度は 「神が命じたもの」 だと語って話を終えた。


 反連邦主義者の温床


 ブナイ・ブリスが連邦を解体しようとする陰謀で中心的な役割を果たしていたことを、リンカーン大統領側についた主だった人たちはよく知っていた。

 それゆえに、1862年12月17日、ユーリセス・S・グラント将軍は次のような内容の命令書第11号を公布した。

 「ユダヤ人全員が、財務省が定めた通商に関する規則および軍管区の命令にことごとく違反しており、それゆえこの命令受理後24四時間以内にユダヤ人全ては軍管区から追放されるものとする。各部隊の指揮官は、ユダヤ人全員に通行証を所持させ退去させるものとし、いかなる者であってもこの通達の後に戻って来る者は逮捕され、司令部からの許可が無い限り囚人として移送される時まで監禁されるものとする・・・・」

 ここに言う軍管区とは、テネシー、ミズーリとその他の南部および中西部の各州から成るテネシー軍管区のことである。

 ブナイ・ブリスの各支部が反連邦主義者の煽動活動の温床となっていて、南部連合の工作員や代理人の根城であることが判明した事件が頻繁に発生したため、グラントはこのように対処したのであった。この命令が発せられた後でさえ、グラント将軍は特定のブナイ・ブリスの活動家の逮捕を余儀なくされた程である。逮捕された人間の中には、後にブナイ・ブリス会長となった弁護士サイモン・ウルフも含まれていた。彼は、テネシー軍管区で逮捕された多数のユダヤ人の弁護士を務めた。


 コウモリのごときブナイ・ブリス


 半ば公式のブナイ・ブリス史 『ブナイ・ブリス-契約の歴史』 でさえ、南北戦争中にブナイ・ブリスが果たした役割を極めて異例な口調ながら次のように記述している。

 「ブナイ・ブリスと南北戦争の関係は、どこか不可思議なものがある。第一次およぴ第二次世界大戦のとき、同結社は戦争を後押しする機関へとそれ自体大きく変身した。しかし1861年から65年にかけては何百人ものブナイ・ブリスの者たちが従軍し、北部にあったほとんどの支部は軍に代わって作戦に参加したにも係わらず、全国組織として同結社が参戦したことについては記録は一切触れていない・・・・開戦から数ヵ月後の1861年7月末、ニューヨークで開かれた総本部の会合の議事録には、戦争については一言も記されていない・・・・1862年に開かれた会議の記録で南北戦争について言及しているのは、ウォーターマン博士の報告中のほんの一部分だけである。

 『私たちの政治的展望には雲がかかっており、それゆえ私たちはより一体となって力を合わせていかなければならない・・・・イスラエルの利益とイスラエルの希望は、現在のこの大いなる戦いの勝敗いかんに懸かっている。この先、私たちに未来があるのかどうか、私たちが宗教の自由を守ることができるか否かが懸かっているのである・・・・この国において私たちが得た祝福を心に留めると共に、この試練の時にあって結社のメンバ-が団結して精力的に、かつ行動をもって難局を乗り越えることを願い、信じるものである

 我々に出来ることは、あの南北戦争で全土が戦いに巻き込まれた中でこの結社の動きがそれほど目立たなかったのはなぜかを推測するだけである・・・・その原因の一つは、国家が危機に陥ると決まって台頭する反ユダヤ主義によるものであったと推測される。ユダヤ人は卑怯者で怠け者だと非難された。不当に利益を得ていると責められた。彼らは北部では南部の、そして南部では北部の工作員だと非難された


第六章ここまで・・・

</転載>


 で、アルバート・パイク将軍にリンクさせていただいた 「さてはてメモ帳」 さんによれば、パイク将軍はこんなことを言っているそうです。


<抜粋>

 「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」


 「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」


 「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている」


 「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる」

</抜粋>


 ま、最後の 「ルシファー云々・・・」 はアレとして、今まさに、イランの核問題で緊張が高まっているワケですが、でもイランて 「ペルシャ人」 ですよね?そうすると 「アラブ人云々・・・」 という計画とは少し矛先がズレてますなあ。となると、「本命」 はシリアの内戦からの第三次世界大戦への誘導?・・・ということになるんですかね?

 加えて、エジプトも社会情勢が不安定なのが気になります。なんせエジプトはイスラエルと直接交戦してますからなあ。それにフィフィさんが言うように 「アラブの誇り」 とやらが高まっているとなると、エジプトの反米感情がイスラエルに向けて転嫁される可能性も否めないワケで、ま、基本・・・


Never World War Ⅲ!


・・・というコトで、関係者の皆さんにはひとつヨロシクお願いしたいものです。



人間ナメんなよ!


でわっ!