2012年4月13日金曜日

言霊(ことだま)

          
 「ユダヤの告白」 第一部が終わったところで一息。

 淺川センセイのトコロにフライングダッチマンの 「human ERROR」 の動画が紹介されていたので、ワタシも勝手に拡散させて頂きます。

 ま、淺川センセイのトコロは 「4次元」 だとか 「宇宙人」 だとか、読む分にはオモシロイのですが、それが真実かどうか?という話になると、ワタシには 「保留」 としか答えようがありません。


<転載>

ユーリイ・ガガーリン:「UFOは実在する」
アンドレイ イワノフ 11.04.2012, 22:56


 1961年4月12日、ソビエト連邦のユーリイ・ガガーリン空軍少佐は、宇宙船 「ボストーク1号」 に乗り、世界初の有人宇宙飛行に成功した。

 歴史的快挙となった飛行については全てが明らかとなっている。しかし、公式メディアはある1つの話題だけを慎重に避け報道していた。その話題とはUFOに関するものだ。ユーリイ・ガガーリンは 「UFOは実在します。お望みなら、もっと詳しくお話しすることもできます」 との言葉を語ったとされている。

 驚くべきことには、それ以降、宇宙飛行士らはUFOに関する話題をメディアに提供してはいけないこととなった。しかし、UFOと遭遇したという宇宙飛行士の告白は少なくない。以下はその中でもひときわ異彩を放つものである。

 ガガーリンの次に宇宙に到達した宇宙飛行士のゲルマン・チトフは、61年の宇宙飛行中に宇宙船 「ボストーク2号」 の周りを旋回する7つのUFOを見たと話している。そして、62年の2月26日に、宇宙船 「マーキュリー・フレンドシップ7号」 に乗ったジョン・グレン飛行士は、まばゆい光を放つ未確認シガー型物体を撮影している。なお、グレン飛行士が撮影した写真は公開されている。

<後略>

</転載>


 んんん・・・。そうですか・・・。ガガーリンがそう語ったのであれば、信じてもイイかな?


「小噺」

宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。

総主教
 「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」

ガガーリン
 「見えませんでした。」

総主教
 「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」

 しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンは先ほどとは違うことを答えた。

ガガーリン
 「見えました。」

フルシチョフ
 「同志よ、神の姿が見えたことは誰にも言わないように。」

・・・お後がよろしいようで。チャンチャン♪


 基本、ワタシはまだまだ知識と経験が欠如しているワケで、判断のしようが無いというのが率直な見解です。

 ま、だからといって思考停止に陥るのではなく、様々な事件、ニュースの断片をつなぎ合わせ、「象の全体像」 を模索していく所存です。はい。


FRYING DUTCHMAN in 鴨川




 で、思ったのが、やっぱり人間の 「生の声」 が一番インパクトがあるんじゃなイカ?というコトで、ワタシ自身もこうやってブログなんぞを続けているワケですが、やっぱりね?ネット空間は 「非日常的空間」 だと思うワケですよ。

 ネット空間でいくら 「真実」 が語られようとも、それをネットという 「非日常的空間」 から血の通った 「日常生活空間」 にフィードバックできないと、社会、政治というシステムを変えることはできない・・・というか、時間がかかるでしょうなあ。


言霊(ことだま) 


 言葉の持つ力・・・例えばヒトラーは、言葉に強い力を持っていました。最近で言えば橋本市長ですか?所謂カリスマ的要素のある人は、言葉に言霊を持っているように思うワケです。

 本来、言霊は全ての人が平等に持っているもので、では何故?ある一部の人間の言霊が強い力を持ち得るのか?と考えるに、言霊に力を与えるバックボーン・・・「理論」 とか 「ヴィジョン」 とか 「意思」 をしっかり持っているからだと思うワケです。

 ワタシがある事に関して 「正しい」 と言ったとして、じゃあ何故?それが 「正しい」 のかと質問されたときに、「正しいと思うから正しいんだ!」 ・・・じゃ、理論的に 「間違っている」 と反論された場合、多くの人の賛同は得られません。

 したがって、言霊に力を与えるにはシッカリとした 「理論構築」 が必要とされるワケです。そしてシッカリとした 「理論構築」 をするためには、しっかりとした 「知識」 が必要とされます。

 で、「知識」 を吸収し、「正しい理論」 を構築するうえでは、ネット空間は非常に有益なメディアだと思う次第です。はい。

 あとは、正しい理論を如何に 「血の通った日常空間」 にフィードバックするか?という 「方法論」 になるのですが、ま、フライングダッチマンのように野外ライブという手段もありますが、大正デモクラシーの頃によく見られた 「弁論大会」 を各地で定期的に開催するのも一案かと思われます。

 つまり各地の公共施設で弁論大会を開催し、参加者を一般から募り、ひとつの 「娯楽」 として定着させてしまえばイイんじゃないか?と。つまり・・・


NHKのど自慢


をモデルにするワケです。

 弁論大会の開催によって、みんなが 「国政」 に関心を持つようになるでしょうし、田舎の爺ちゃん婆ちゃんのいい娯楽にもなるでしょうし、顔見知りのご近所の演説を聞けば、地域のコミュニケーションも深まると思うんですケドね?

 民主主義の根幹は、ひとりひとりが声をあげることです。選挙という手法もありますが、所詮は紙切れ一枚に集約されてしまうワケで、もっと 「血の通った政治」 を実現するためには、やはり・・・


ひとりひとりの生の声


に耳を傾ける社会にならなければと思う次第です。はい。

 全国には 「箱もの」 と呼ばれる施設が有効に利用されないまま放置されています。そういった施設の有効活用、地域の活性化、そして日本の民主主義の進歩のためにも、「市民運動」 などという仰々しい?活動以前に、民衆の、民衆による、民衆のための、


弁論大会


開催と普及は有益な自治体事業のように思えます。



人間ナメんなよ!


でわっ!