2012年7月14日土曜日
個体に全体が宿る。
首相官邸前抗議集会の主催者の女性の方が、「反原発と政治を絡めたくない。」と、頑なに「IWJ」の岩上氏のツっ込みに応対していましたが、ワタシ、彼女の考えに
ナルホドねwww。
と、感心した次第です。
岩上氏の理論としては、ワタシたちの主張を実現するために、「選挙」を絡めた運動に発展させた方が良いという提案で、ワタシも、これだけの人が集まる集会に何らかの実効性を持たせるには、(即効性のある手段をボチボチ用いるべきではなイカ?)と思っていました。
しかし彼女の言うところの、「シングル・イシュー」=「再稼動撤廃」にこだわる意味と、この抗議集会の存在意義が理解できました。ワタシ自身、「個人革命」をさんざん煽っておきながら、ヤッパリ「功を焦る欲」が出ていたんですねえ...。お恥ずかしい。
野田総理を、その他の政治家を、「失脚」させたところで、
旧いシステム
が温存されたままではダメなのです。本質は、「システムの管理者」を変えることではなく、「システムそのものを変える」ことにあるのです。
そして、「システムそのものを変える」とは、正に「システムの構成要員」である
ひとりひとりの心を変える
ことに他なりません。「個人革命」に他ならないのです。(手前味噌ですが)
安富センセの講義でも言われていましたが、「共有」ではなく「共感」によってのみ、人は繋がれる(だったかな?)ということです。つまり何と言うか、不特定多数の人が集まったときに、余分なエゴを取り除き、最後の最後に残る共通事項となると、もうね?「お互いの命」しかないワケですよ。
生きるか死ぬかとなれば、善人だろうと悪人だろうと、右翼だろうと左翼だろうと、
自分の命がカワイイ
という点において、まあ、
100%の共感
が得られるでしょうから、「命を脅かす原発」に対して首都圏反原発連合(でしたか?)が、一致して行動可能なのは自明であり、また、抗議集会に集う人たち(ワタシも)にとっても同様です。
首相官邸前の抗議集会が、「原発再稼動撤回」であることは勿論なのですが、その先に見えるものはそれぞれ違うことでしょう。自分の農地を守りたいと思う人、風評被害で商売があがったりな人、所有する不動産資産の価値が下がることを恐れる人...etc。
そんな中に「政治的野心」を持っている人がいても不思議ではないし、そういった人たちが「共感」以外の「エゴ」を、自分の「野心」のために巧みに利用することだって考えられます。てか、「頭のキレる人間」だったらそう考えるでしょうよ。
したがって、そうした「頭のキレる人間」に利用されないためには、できるだけ「利用価値を低く設定」して、「干渉」を未然に防ぐのもアリですよね?それが、彼女たちが
シングル・イシュー
にこだわる理由なのだと、ワタシは理解しました(誤解しているかも知れませんが)。
そして、首相官邸前の抗議集会が「全てを解決」するのではなく、
不十分で十分
なのだと。
抗議集会で満たされない部分をどうするかは、各々が自分で考えるしかないのです。それが「ひとりひとりの自立」の呼び水となり、各地方においても、「独自の運動」への発展にも繋がるのだと。
ひとりひとりの目覚め
に繋がるのだ。...という論法です(誤解しているかも知れませんが)。
そこで今夜、7月13日の抗議集会を振り返ってみるに、警察による「分断工作」はありましたが、それによる大きなトラブルは無く、分断されたそれぞれの区画内で抗議集会を決行しました。これが、旧来の階層的なシステムであれば、「命令系統」が切り離されることで全体の収拾がつかず、大きな混乱を招いていたことでしょう。
然しながら、各ブロックで自然発生的に抗議集会が続行されたという事実は、旧来とは全く違った形態の抗議集会であることを、如実に物語っています。「南方熊楠」が研究した「粘菌」とか、「風の谷のナウシカ」の陰の主役?である「オーム」のように、
個体と全体の融合。
という「生命概念」を、ホーフツとさせます。本来人間とは、そう在る生き物なのかも知れません。であれば、「共感」という現象も生じるのでしょう。
ま、それはソレとして、今回警察が厳重なバリケードを築き抗議集会を「封殺」しようとしたのも、
それだけ恐れている
ことの表れであり、何らこの先の活動において支障を来たすものでないことがハッキリしましたし、逆に、今回の「封殺」に不満や疑問を抱いた人たちは
さらに自分の頭で考える
ようになり、「個人革命」を促進してくれる結果になるワケですし、そこから「地方の目覚め」にも繋がるワケですから、今夜の抗議集会の「収穫」は大きかったように思える次第です。
警察の関係者のみなさん、
ご協力感謝します!
いやwww、ワタシも年ばっかりくって、まだまだ考えが浅いわwww。
人間ナメんなよ!
でわっ!