2013年1月31日木曜日

意味が意味を生む

 
 「蘇我氏はローマ人だった?」・・・の記事を書いた際に、ついでに「妙見信仰」についても触れましたが、北辰一刀流で有名な千葉周作が熱心な信者であったことは広く知られていますし、千葉家代々によって整備された千葉神社は、全国の妙見信仰の本宮でもあります。


妙見本宮 千葉神社HP


 で、何故?千葉が妙見信仰の中心となったのか?

 同じく千葉市に存在する蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)の縁起によると・・・


蘇我比咩神社HP

由緒

 当社は、今から千五百年前から建てられていたといわれている。
 
 古記によると、第12代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が、東国地方を統一すべく勅命を受け、弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。

 このとき弟橘姫は「竜神の怒りに触れた」とこれを静め和らげんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。そして日本武尊命は、無事航海をつづけた。身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来た。又里人達は、日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。

 この里人等の行為にに深く感激した第15代応仁天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせた。蘇我一族は、代々「春日神社」「比咩神社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇我比咩神社」を建立した「延喜式巻九神祇神名帳千葉郡記載」。その徳は山より高く海とり深く「春日様」「下總の国香取神明様」と下總の国の守護神として人々に敬神された。

 江戸時代には、徳川家康も敬神され十石を献上した。この所は江戸又上総、香取への街道の要所にもあたり参勤する大名また人々の集まる宿場町であったため参詣する賑わいをみせた。

 明治5年、社格郷社となり皇室、国家の守護となり皇族の尊宗をうけ参拝もあり、御手植の松もあったが、明治の大火事で神社も社宝、古文書、御手植の松すべて焼災してしまった。だが今もって海難防止、民政安定、家運繁栄、五穀豊穣、諸病消除、延命息災など神威をこよなくあらたかな神として近隣の人々に敬拝されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年


・・・だそうで、応神天皇の代に蘇我氏が千葉に国造として赴任して来た記録が残されていますが、さて、聖徳太子の館がペルシャのシリウス信仰(妙見信仰)に基づいて建設されていたなら、聖徳太子と縁の深い蘇我氏が妙見信仰を東国千葉に持ち込んだとしても何の不思議もないワケです。


聖徳太子はペルシャ人だった!?



 て、いうか、応神天皇の時代の方が聖徳太子の時代より300年は遡るワケですから、そもそも蘇我氏が「妙見信仰」=「シリウス信仰」をしていたと考るほうが理に適っています。

 蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)=クーデターによって滅ぶワケですが、急な出来事故に東国の蘇我氏一族は何も出来ず、天智天皇の崩御後に朝廷に対して復讐を企てたのが壬申の乱(672年)とも考えられます。

 「白村江の戦い」に敗れ亡命してきた百済の王族を天智天皇が厚遇し、各地に領地を与えた事に地方豪族の不満を募らせたのも確かでしょうが、ま、ジッサイ?土地は余っているワケですよ。当時としては。

 したがってそれだけを理由に東国の豪族が団結するというのは、動機としては弱いように思うワケです。

 それよりは、乙巳の変の恨みを晴らそうと東国蘇我氏が豪族を焚きつけ、天武天皇を神輿に担いで実行に及んだ可能性の方が高いように思えます。

 さて、ワタシは歴史に興味がある・・・というか、歴史の真実を知りたいと思うワケですが、どうなんですかね?みなさんは?

 自民党の提唱する「憲法改正」が議論を呼んでいますが、「改憲派」の言い分のひとつが「日本文化にそぐわない」というもので、自民党の西田昌司氏や文化人?の櫻井よし子氏がその論客ですが、両人とも「日本文化」というものの、正しい「歴史的認識」を持っておられるのか?・・・という疑問は否めません。

 しかし、彼らが間違っているなりにも「歴史認識」を持っていることは重要なワケです。持たざるものは持つものに負ける・・・のが常であり、「歴史認識」を持たない者は、間違っていようが「歴史認識」を持つ者に引きずられてしまうワケです。それこそが、戦時中に流布された「皇国史観」に引きずられた日本国民の姿なのです。

 大本営に騙されていた・・・なんて言い訳する以前にね?ワタシたち全員が日本の歴史に無知だったが故に、他人の創作した意味=皇国史観を自分の意味と取り違え、一億総動員で戦争遂行に協力的になれたワケですよ。

 今回の自民党の「改憲草案」にしても、まず第一に書かれていることは前文における、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、云々」・・・と、天皇を戴く=国民の上に天皇がある・・・と言い放っているワケですが、ここでひとつ、知る人ぞ知る「熊沢天皇」についてお話したいと思います。
 

熊沢天皇(熊沢寛道)


 一般的には、第二次大戦後に現れた「自称天皇」のひとりと言われていますが、ジッサイは明治時代・・・即ち皇国教育が徹底されている時世下にて、父親である熊沢大然(ひろしか尊憲王)が、明治天皇に熊沢家の南朝皇系正統を上奏し認められた事は、ほとんど知られていません。

 偽者であれば「皇室侮辱罪」?で特高・・・は未だありませんが、警察に逮捕され投獄されて当然のところ、お咎めが一切無いどころか、「北朝」の明治天皇が即位しているにもかかわらず、明治政府は「南朝正統」とする・・・という、何ともチグハグな状況も生まれています。

 それに対して当時の人たちが疑問も抱かないのは、政府による情報統制もあったでしょうが、何より・・・


歴史に対する無知、無関心


・・・に他なりません。

 そして今、自民党の憲法改正案によれば、日本国民は再び天皇を「国の元首」として戴く・・・と、憲法を書き換えようとしているワケですが、相変わらずワタシたちは天皇という存在についてよく知らないワケですし、同時に、日本国の歴史についてもあまりに無知です。

 一例として、室町時代の日本は、中国(明)の柵封を受けていたんですよ?学校で教わりました?

 おそらく日本の真実の歴史を知っているのは、日本の学者よりも欧米の学者です。日本国内では諸々の利害関係があり、真実の歴史を公表できない学術土壌が出来上がってしまっているのでしょうが、そこに欧米が付入る隙が生じるワケです。現在のアラブのように・・・。

 現在のアラブが斯くも混乱している原因のひとつは、アラブ民族の歴史認識の欠如でもあるとワタシは推察しています。

 オスマントルコからアラブを独立させる前にイギリスがしたことは、大掛かりな学術調査隊を派遣したことです。彼らの調査により、歴史、文化、風習といったあらゆるアラブ地域の情報が収集され、それらのデータを体系づけることで、アラブの各地域の関係性を見極め、アラブ人以上にアラブのことが冷静に見えてくるワケです。

 そうなれば後は・・・つまり素材を手に入れた後の調理法は、イギリス次第であると言えます。大英博物館は侮れないワケですよ。

 翻って日本はどうなのか?未だに学者連中は、「邪馬台国」はどこだ?・・・と、いうレベルなワケですよ。もしイギリスの学術調査隊が来たら、あっと言う間に結論を出すんじゃないんですかね?いつまでもダラダラ調査してるのは、研究費を引っ張るためでしょ?でしょ?でしょ?

 正しい歴史を待たない国民は不幸です。未来は過去の歴史の上に築かれるものであり、間違った過去認識の上には間違った未来が築かれるからです。だからワタシは歴史に拘るワケです。

 人は「意味」を求め、「意味」無くして前に進むことは困難です。意味とは進む道を与えてくれるものであり、未来における「意味」とは過去からの投影なのです。したがって過去における意味=歴史が重要なワケですし、正しい歴史認識が求められるというのがワタシの自論です。

 過去の歴史を全て捨てて、ゼロから未来に向かうという選択もありますが、そのためには新たなる「意味」の創造=「未来のビジョン」が必要とされるでしょうし、その「ビジョン」の柱となる「理性」を確立できなければなりませんが、果たしてそれだけの精神力をワタシたちが持ち得るのか?はなはだ疑問ではあります。

 であれば現実的なのは、正しい歴史認識をすることで、正しい「意味」を未来に投影し続けることではないか?・・・と。





人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年1月27日日曜日

来wるw♪きっと来るw♪


 日本が・・・というか、世界が石油に依存しないようになったら、石油で経済が成り立っている国はどうなるんだろう?・・・と、漠然と考えてみる。

 オイルマネーをしこたま溜め込んでいるだろうから、新規の産業を興すのであれば「資金」の面での心配はないんだろうけど、新規産業を興す「技術」が産油国諸国にはあるのか?

 ワタシが不勉強なのかも知れませんが、サウジアラビヤだのカタールだのに、石油以外に突出した産業があることを知りません。

 以前は「真珠」がドバイ辺り?の主要輸出品目だったようですが、日本の「ミキモト」の真珠貝の養殖に成功によって廃れてしまったそうです。

 同様に、石油に代わるエネルギー源の開発が進めば、石油の輸出に頼っている国は大きくその経済規模を縮小させるでしょうし、それは「産業革命」によって生産工程が人手から機械に代わったのと同じく、不可逆性の時代の流れとも言えます。

 砂漠の緑化によって農業生産物の収穫量を上げることも試みられているようですが、収穫された作物を輸出品目の一角に加えられるかどうかは未知数です。国内で消費する分だけでも生産できれば「御の字」なのではないでしょうか?

 そういえば「シリア」は、石油がほとんど出ないかわりに農地には恵まれているそうで、砂漠だらけの国にしたら羨ましいでしょうなw。

 何度も繰り返してアレですが、アラブのことはアラブの人が決めるしかありません。アラブの王政を批判するようで気が引けるのですが、王族が石油利権を独占し、その膨大な収益を国民に分配することで「国体」を維持しているワケですよね?サウジアラビヤとか?

 つまり、すでに「ベーシック・インカム」が導入されているワケですが、その財源である「石油」の価値がなくなれば「ベーシック・インカム」も維持できなくなり、同時に「国体」も維持できなくなるワケです。


ある国の繁栄と崩壊の物語−「ユートピアの崩壊」
2012年03月16日 22:17

前略

国民は一周30分で回れる狭い国土に不要だと思える高級外車を買い漁り、食事は外食しか行わなくなり、海外にショッピングに出向き散財しました。驚く事に彼らは働いて稼ぐことを知りません。欧州諸国に"発見"される前は主に漁業で自給自足の生活をしていたのですが、イギリスの植民地時代には強制労働に徴用され、そして独立後はリン鉱石の輸出により何もしなくてもベーシックインカムで金が勝手に口座に振り込まれるようになりました。リン鉱石の採掘作業を行うのは専ら中国人などの出稼ぎ労働者達であり、小売りや外食店を営むのも外国人達。彼らはただ消費するだけでした。その結果、富は失っても、いまだにダントツで世界一の肥満国(2008年のWHOの調査によると、国民の79%が肥満)であり、多くの国民が糖尿病で苦しんでいます。リン鉱石が枯渇し、国に唯一あった国立銀行も破綻して預金の引き出しも出来なくなった今では、働いて稼ぐ経験をしたことがない彼らは、生きていくには漁業による自給自足の生活に逆戻りするしかないのです。かつての遠い祖先が行っていたように。

後略


 ま、余計なお世話とは知りつつも、このまま経済基盤を石油だけに頼っていれば、中東の産油国諸国も「ナウル共和国」の二の舞になることでしょうし、石油が枯渇しないにしても、石油をめぐる争い事に巻き込まれるのを、どの国も望んではいないワケです。

 加えて、欧米が音頭を取っている「地球温暖化問題」も、世界的な石油消費の減少の要因となるでしょう。

 つまり、石油の消費量が頭打ちになる可能性の方が、増加するという可能性より確実に高いワケで、産油国の経済規模も縮小するとしか考えられません。

 そうなった場合に備えての「ビジョン」が、産油国諸国の王族たちにはあるのか?・・・と。

 おそらくそうなった場合=国が貧しくなった場合でも、きっとイスラム教が人々の心の支えになるのでしょうが、王族の特権=石油利権による国体の維持・・・が不可能になれば、政治体制の変革も避けては通れないでしょう。

 その際に必要とされるのは「人材」なワケですが、果たして中東産油国諸国に次世代を担う「人材」は育っているのか?はなはだ疑問ではあります。

 その点ではイランは、石油を産出しながらもそれだけに頼らず、賛否はありますが原子力技術だとか、宇宙ロケット開発だとか、最先端の技術に対しての取り組みを怠っていないトコロは賞賛に値します。

 前回、「世界中が資源獲得に血道を上げている」・・・と述べましたが、「資源だけ」あっても宝の持ち腐れなワケです。それを加工する「技術力」があってこそ、「資源」に価値が生まれるワケです。よね?

 さらに言うならば、「資源」がなくても「技術力」があれば世界と互角に渡り合えるワケで、日本は金融立国を目指すべきだと「妄言」吐く経済学者も見受けられますが、もうね?アホなの?ヴァカなの?・・・と。

 確かに、貿易収支の赤字は認めますし、日本国内での「モノ造り」の先行きは明るくないかも知れませんし、安い海外製品が市場に出回るのは仕方ありません。しかし見過ごしてはならないのは、技術貿易の分野では黒字を維持しているという事実です。


木走日記
「特許で中国を支配する日本」(中国紙)は本当なのか?~日本の技術貿易収支を徹底検証

前略

 韓国聯合ニュース記事に補足いたしますと日本と韓国の2国間の技術貿易収支に限れば、日本から見ると輸出:879億円、輸入:15億円、技術貿易収支倍率は58.60倍と開きが出ます。

 事実上技術貿易においては日本から韓国へ一方的な輸出傾向になると言ってよいでしょう。

 また、中国「北方網」の記事に補足いたしますと、「特許を通じて、高成長する中国から栄養を吸い上げていくという日本の「国家利益モデル」がある」との指摘ですが、今検証したとおり、日本中国2国間では日本から見ると輸出:3,411億円、輸入:24億円、技術貿易収支倍率:142.13倍と確かに一方的ですが、日本の場合、中国だけでなくアメリカやヨーロッパからも特許使用料が発生しており、中国の割合は14.0%にすぎず、日本の技術貿易輸出国はアメリカの35.4%が一位である事は指摘しておかなければなりません。

 別に日本は中国だけ狙った「寄生虫国家」というわけではないのです。

 今回は、「特許で中国を支配する日本」(中国紙)は本当なのか?、具体的数値で検証いたしました。


 で、こうした技術力を維持しさらに発展させる上でも、日本国内での「モノ造り」を疎かには出来ないワケですよ。例えばですよ?ご飯を炊くことひとつをとっても、日本人は他の国から見たら「アホか?」・・・と、思われるくらいこだわるワケですよ。おいしくご飯を炊くにはどうしたらいいか?と、頼まれもしないのに熱中したりするワケです。

 そうした一見無駄な努力こそが「職人技」の根本にあり、その結果として極上のご飯が炊き上がりみんなが「おいしい!」・・・と、喜ぶワケですから、いわばボランティア精神にも繋がる部分があるのかも知れません。

 で、昨今はそうした職人技を、IT技術によって家電製品にも移植するようになったワケです。

 「職人技」なんて簡単に「数値化」できるものではありません。しかし、そうした困難に取り組むことで技術力が磨かれ、思いもしない技術とか製品の誕生にも繋がるワケです。富士フィルムのように。


《公式》 富士フイルムの化粧品


 この一見無駄な努力が「モノ造り」のレベルを上げるのには欠かせないワケですが、ソロバンを弾いているだけの人間に言わせたら、ただの「無駄」として切り捨てられ、「モノ造り」も衰退してしまうことでしょう。

 何度も「モノ造り」の重要性を訴えてきましたが、それは「モノ造り」によって蓄積される技術、ノウハウが、日本にとって貴重な「資源」になるからです。そしてそれが可能なのは、「細部にこだわる」・・・という、日本人の国民性によるものでもあり、であれば、「日本国民一人一人が、未来に向けての貴重な資源である」・・・という理屈にもなるワケです。はい。

 然るに現在の政府は、貴重な資源である国民を大切に扱っていますか?・・・と、問いたいワケですよ。「原発」にしても、「TPP」にしても、「増税」にしても、「改憲」にしても、ワタシたちの望むこととは真反対のことを、「不正な手段を使って」まで押し通そうとしているじゃwあwりませんかっ!?え?


いいかげんにしろ!


・・・と。

 ところで「モノ造り」にしても、大量生産の時代は既に終焉を迎えたと言えます。例として「電気」を挙げると、福島第一原発の事故後に明らかになったことは、東京電力による地域電力市場の独占には多くの弊害があったことに、今更ながら気付かされたということです。

 つまり、東京電力は電気を大量生産していたワケですよね?ま、独占状態にあるのですから当然と言えば当然なのですが、そのことによる東京電力の一方的な電力支配(計画停電)とか、価格操作(総括原価方式)とか、原発補助金(メディア懐柔費)などの存在を知ることとなったワケです。

 そうした弊害から抜け出すために、地産地消の・・・つまり必要な分だけ発電可能な地域密着型の小規模発電設備であるとか、発送電の分離による効率的な電力の分配であるとか、原発の廃炉による周辺環境の保全であるとかが、現在、全国的に求められているワケです。

 産業全般に置き換えると、大企業による大量生産(大規模発電)は市場の寡占を招き、消費者から見ればバリュー・メリットはあるものの、一旦市場が寡占されてしまうと自由度が失われてしまいます。それよりは、様々な企業(小規模発電)が並存していた方が市場本来の姿としては健全であり、リスクに強い(安定供給)市場であると考えられます。

 つまり、大企業がひとり勝ちするような時代は既に過去のものである・・・と言えますし、その兆候は既に大企業の大幅な人員削減(リストラ)に顕れています。

 で、大企業からリストラされた労働力を吸収可能な労働市場が無いが故に、結果的に失業者が増えているワケですが、それもこれも旧来の産業構造が、基本的に大企業という「親亀」の上に「子亀」「孫亀」と乗っていたので、「親亀コケたら、皆コケた」・・・となるワケです。

 産業が消費を生み出すのか?消費が産業を生み出すのか?従来は前者であり、マーケティング(心理操作)によって消費者の購買意欲を掻き立てていましたが、ある程度市場にモノが行き渡り欲望が満たされると、心理操作の効果も薄くなってくるワケです(大衆心理操作の歴史)

 「お腹いっぱい」の人の目の前に「高級料理」を差し出したところで、一向に食指が動かないのと一緒なワケで、とりあえずお腹に入る分だけは箸を付ける・・・くらいの購買意欲しか期待できないと、覚悟したほうがイイのかも知れませんし、それに気付いた企業がこれからの時代を生き残るんじゃないか?・・・と。

 具体的な企業イメージとしては、成長の限界を自ら設定できる企業とか?・・・すなわち、発展の上限を自らに課すことのできる企業というか、己の則を越えない企業と言うか、うまく説明出来ないんですが、成長路線一辺倒の企業というのは「恐竜(爬虫類)」のようなもので、どこまでも大きくなることは出来ても、いずれ大きな体が仇となり自滅したり、環境の変化にも素早く追従できないワケですよね?

 それに対して「哺乳類型企業」は、大きくなることは出来ませんが「温血動物」であるので、外界の温度変化に適応して生き残ることが可能なワケです。

 つまり「温血」とは、社員、労働者が企業によって重要な要素であると言いたいワケで・・・あwwwもうっ!うまく説明できませんが、企業の利益を優先に考えて社員を疎かにすれば、恐竜と同じ道を辿ると言いたいワケです。・・・たぶん。

 で、社員がベストの状態で働ける環境と企業の成長とは、必ずしもイコールではないと思うワケです。

 大きい会社に発展することもアレですが、仕事内容そのもにみんな働き甲斐を求めるんじゃないんですかね?そしてそれってやっぱり、日本人特有?の「こだわり精神」だと思うワケです。

 ここで話を再びサウジアラビアに戻しますが、サウジアラビアでは「ベーシック・インカム」が実践されているワケですが、その財源=石油に依存している限り「ナウル共和国」と同じ道を歩みかねませんし、石油以外の「ベーシック・インカム」の財源の確保は急務と考えられます(余計なお世話ですが)。

 で、世界全体の産業構造を見渡しても、この先消費は頭打ちになる確率の方が高いと思われ、どの国も労働力は余る方向に向かうと考えざるを得ません。しかしそれは、大企業の存続を前提とした産業構造の未来予測であり、恐竜=大企業が滅びた後、哺乳類=ベンチャー企業が隆盛を迎えるとも予測されえます。

 またそうでなければ、余剰労働力(失業者)は社会保障を食い物にする「お荷物」として、企業だけでなく社会からも疎んじられる憂き目に遭い兼ねませんし、下手をすれば「戦場」に送られ、「整理」されてしまいそうなご時世です。自民党の憲法改正とかで・・・。

 そうならない為にも、大企業に頼らない生き方・・・というか、企業そのものに頼らず、自分自身で「起業」するくらいの意気込みも必要とされるのでしょうが、何分、先立つ「資金」は必要ですし、その資金を得る為に「派遣労働」などでボロボロになるまで働いていては、「起業」のチャンスも遠のくばかりです。

 そこで「ベーシック・インカム」の有効性について議論する時代が来たことを言いたいワケです。
 

スイス:全市民のためのベーシック・インカム制定を求める国民発議が正式に発効
翻訳掲載 2012/06/19 4:34 GMT
 

 スペインでは、今年に入って若年層の失業率が60%を越えたそうで、こうなると政策が云々という問題ではなく、社会構造・産業構造が変わった=時代が変わった・・・と見る方が現状に則しており、時代の変化に対応した社会構造に変わらなければ、「混乱」を招くだけでしょう。



スペイン失業率(25歳未満)


 つまりスペインに限って見れば、「ベーシック・インカム」の導入は不可避の選択となるでしょう。問題はその財源の確保と、若者の「起業」の支援にあるのでしょうが、こうなってからでは遅いワケですよ。

 先に「ベーシック・インカム」によって若者、もしくは個人の「起業」の下地を均しておく必要があり、失業者が増えすぎてからでは、ベーシック・インカム導入の効果が現れるのに時間が掛かるし、その分、財政の圧迫にもなります。

 スイスなんて失業率が低いワケですから、「ベーシック・インカム」なんて俎上にものぼらないように思えるワケですが、ま、慎重派というか、何事にも抜かりのないスイスのことですから、それが「ベーシック・インカム」の導入を検討し始めているということは、世界的に「ベーシック・インカム」が必要とされる事態が起る可能性も考慮する必要がありますなw。ヨーロッパの金融破綻と、それに続く世界大恐慌とか・・・。





人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年1月25日金曜日

サウジアラビアが抱える問題


 アルジェリアでの痛ましい事件の報道から、「サラフィー」という言葉をよく耳にしますが、「サラフィー」とは、「サラフ」=「先祖」を敬う人たち・・・の意味で、ほぼ「イスラム原理主義」と同義と捉えられるでしょう。 
 
 JETRO(日本貿易振興機構)の資料によれば、「サラフィー」の萌芽はサウジアラビアのイスラム教=ワッハーブ派の中にみられますが、サウジアラビアでは「政教分離」が行われていることが、その原因と推測されます。

 アラブ独立以前はアラビア半島の一地方部族であったサウード家が、やはり、一イスラム教宗派であったワッハーブ派と協力関係を築き、イロイロあってその後勢力を伸ばし、今日のサウジアラビア建国に到ったワケですが、協力関係の条件・・・「ワッハーブ派は、政治には口を出さない」・・・は、今日も継続されています。

 オスマントルコの支配下では異文化(欧米)と直接対峙することもなかった人々が、アラブの独立を契機にそうした異文化に直面するようになると、異文化に対する警戒心から、「サラフ」=「先祖」を敬おう・・・という気運が生まれるのは、自然の流れと言えるでしょう。

 当初は単なる精神的運動であった「サラフ主義」でしたが、1990年の「湾岸戦争の勃発時にアメリカ軍がサウジアラビアに駐屯したことにより、聖地メッカが冒涜されるのではないかという危機感から、政治的活動への流れが強まり表面化するワケですが、ワッハーブ派(本家)は政治不介入を貫いており、「サラフ主義者」の国内での政治活動は不可能。そこで、多くの「サラフ主義者」は国外に散っていきます。

 そうした「サラフ主義者」=「サラフィー」のひとりがビン・ラディンであり、アフガニスタンパキスタンが彼の拠点(アル・カイーダ)になったワケです。そして、サウジアラビア国内の「サラフ主義者」から潤沢な資金援助を受け、亡命「サラフ主義者」たちは活動を活発化させていきます。

 以上が、「JETRO」の資料から読み取れる「サラフ主義」=「サラフィー」の概要ですが、サウード家とワッハーブ派の盟約=「お互いの領分には不介入」・・・という状態が、ある意味「サラフ主義者」の活動を増長させていると言えます。

 サウード家としても何とかしたいところでしょうが、聖地メッカを抱え、イスラム世界の盟主的な立場にある以上、先祖・・・すなわちマホメットを敬うことを掲げる「サラフィー」を迂闊に弾圧すれば、サウド家自体の権威の失墜に繋がりかねません。したがって、国内の「サラフ主義者」が海外の仲間を援助していても、見て見ぬ振りをするしかないのでしょう。

 それとこの資料によれば、サウジアラビア国内の「サラフ主義者」の割合に、スンニ派教徒が増えているとのこと。であれば、スンニ派と「サラフ主義」はほぼ同質の存在とも考えられ、「サラフ主義」の敬う「先祖」とは、「スンニ派の先祖」ということになるんですかね?

 以上がJETROの資料からのまとめですが、これが全てであれば、「ビン・ラディン」はCIAの援助を受けていたと言う情報とはかみ合わないような気もするワケですが、考えてみれば、当時の「共通の敵」はソ連であり、それ故、CIAがビン・ラディンらに軍事訓練を施し、アル・カイーダ、タリバン側もそれを望んだと考えられます。

 ソ連のアフガニスタン侵攻 (1978年-1989年)があって後、イスラム武力勢力が世界的にクローズアップされるようになりましたが、ソ連が瓦解(1991年)した後、9.11(2001年)の事件を境にテロリスト=イスラム過激派が決定付けられたワケです。

 では、国外に亡命した「サラフ主義者」の本心はどこにあるのか?・・・と、考えるに、最終的にはサウジアラビアにおける「政教一致」にあるのではないか?・・・と。

 当然、サウード家の権威は下がり、サウード家に取り入っている欧米もその利権を減らすことになるでしょうから、「サラフ主義者」は両者にとって邪魔な存在になるワケですが、ワッハーブ派の傘の下にいる限り、過去の盟約によってサウード家には手出しができず、したがってサウード家が石油利権を独占している限り、その潤沢なオイルマネーは、結果的に「サラフ主義者」に流れていくという構図になります。

 同じような問題はサウジアラビア一国だけでなく、一部の王族が利権を独占しているその他のアラブ諸国に関しても言えるですし、そうした王族と組んでいるのが、欧米(日本も含む)のグローバル企業なワケですよ。

 同時に、アラブの石油によって文化的生活を営んでいるワタシたちにしても、「他人事」として済ましてしまうワケにはいきません。実際、アルジェリアでは邦人の被害者が出ているワケですから。

 で、どうすればいいかなんて、簡単には答えは見つからないでしょうし、日本人には答えが出せない問題かも知れません。それでも、問題から目を逸らしていたら、何の解決策も浮かばない事だけは確かです。これからのアラブ世界の在り方を決めるのはアラブの人たち自身ですし、日本人としては、協力できる部分に関しては協力していく・・・というスタンスでいくしかないのでしょう。 

 最後に、フランスのマリ侵攻について、「地下資源目当て」・・・という論調が多く見られますが、ワタシも同意見です。しかし何故?そこまで地下資源に固執するのかを考えると、ヨーロッパの金融危機がその要因として浮かび上がります。「世界中が資源獲得に血道を上げている」・・という論の裏を返せば、「お金がアテにならなくなっている」・・・ということの証でもあります。

 すなわちこれからの世界は、「現物を持っている者が一番強い」・・・ということになり、銀行口座に積み上げられた数字など、何の価値もなくなる。・・・かも知れないということです。

 で、ドイツがアメリカに預けてある金塊を引き上げようとしているのも、そうした「現物回帰」の流れの中にあるのかな?・・・と。


ドイツが米国に預けている“金塊”(約1700トン)を回収へ:実存するかどうかも話題に:対米自立への道?日本は?


 金本位制云々など、金をめぐる話題も少し盛り上がっているようだ。

 そのようななか、日本では報じられていないようだが、ドイツ政府とドイツ連銀が、米国NY連銀に預けている金塊(約1700トンと推測)を回収するという報道がなされた。

 ご存じのように、日本の金備蓄(約850トン)も、実物は米国NY連銀の金庫にあるとされる。

 金に限らず、外貨準備の中核をなしている米国債も、NY連銀の“帳簿”にのみ存在し、支払われる利息も、その“帳簿”に記載されるだけという仕組みである。

 それゆえ、米国連邦政府やFRBは、対日債務がどれほど積み上がろうともたいしたことだとは感じていない。

 被援助国の発展途上国もそうだが、日本やドイツといった敗戦国は、自国の公的保有金や対外公的債権が米国を中心とした連合国の“人質”に取られてきたと言えるだろう。


※ FRBが保管する米国の公的金自体が、“曖昧な存在”になっているともいう。

 9千トン近いといわれる米国の公的保有金の“監査”を求める動きが何度かあったが、その都度、費用がかかり過ぎるという理由で却下されてきたといわれる。


 10月26日早朝にNHKBS1で放送された「ドイツZDFニュース」は、ドイツが保有する金3,936トンについて指摘されている問題や米国に預けているとされる部分について回収する意向であることを報じた。


報道された内容の要点:

● ドイツの公的保有金は、1/3(1,300トン)がフランクフルトのドイツ連銀金庫に保管され、残り2/3がニューヨーク・パリ・ロンドンに預けられている。

● 米国NY連銀に預けている金をドイツに移す意向

● これまで一度も、外国にある金が本物かどうか?重量もきちんとあるのか?が確認されていない。

● 与党であるキリスト教民主同盟国会議員団の外交担当責任者(スプレヒャー氏)
も、「ドイツ連銀が、これほど長い間、これほど杜撰に、ドイツの財産を取り扱っているのはなぜなのか説明できない。簡単に、ニューヨークとパリ・ロンドンに置きっぱなしにしているのは解せない」と問題している。

● ドイツの金取引業者の専門家も、「ドイツ連銀の金の備蓄は、数十年もチェックされていません。そのため、国民のあいだに、金の備蓄が実際にあるのかどうかよいう疑問を生じさせている」

● ドイツの会計検査院は、そのような輿論動向を受けて、27万3千本の金の延べ棒すべてを正確に数え点検するよう求めた。

● 外国に金を預けている理由として“東西冷戦”で起きるかもしれない不測の事態を考慮して、東ドイツとの国境線からできるだけ遠ざけたかったという説明がなされている。

● ドイツ納税者団体の会長は、「国外の備蓄場所をなくし、1ヶ所にまとめて備蓄することも考えるべきだ。東西冷戦はもうない」と語った。

● ドイツ連銀は、預けている各国の中央銀行に最高度の信頼を置いていると語り、数年前に、ロンドンに備蓄している金を検査したときは1gの不足もなかったと説明しているという。


 つまり、金融資本(信用創造)による世界支配=グローバリズムに、綻び(信用破綻)が生じ始めているのかも知れませんし、そうなると、金融を支配してきた勢力の生き残りを賭けて、更なる混乱(ショックドクトリン)が用意されているかも知れませんなw。

 剣呑剣呑。




人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年1月23日水曜日

アラブとイスラム


 アラブとイスラムについては何度か言及しましたが、基本的には「世俗主義」と「原理主義」の軋轢が続いているものと、ワタシとしては考えています。

 今回、日揮のアルジェリア駐在社員の方々が「テロ」に巻き込まれ、命を落とされたことは誠に痛ましく、同じく海外在住の身として、心からお悔やみを申し上げます。

 と、同時に、強硬な救出作戦?を敢行したアルジェリア(フランス)政府に対して、憤りを覚える次第です。パリは「文化の都」と呼ばれるそうですが、聞いて呆れますなw。え?今回フランス政府が採った行動のどこに「文化」があるのか?「武力」に頼るだけの「蛮族」と変わらないワケですよ。

 服だの、バッグだの、香水だの、料理だの、etc。どれもこれも「フランス文化」のレベルの高さとして語られるものですが、そうしたもの全てが「植民地」の犠牲を糧にして成り立っているのであれば、「フランス文化」とやらには犠牲者たちの怨みが染み付いているだろうし、「血の匂い」すら漂って来るようで顔を背けたくなります。

 ま、「フランス文化」を全否定するワケではありませんが、もうひとつの文化・・・革命にしても、革命側が多くの王族、貴族をギロチン台送りにしたことと、その後の革命政権内部での内部抗争の歴史的事実からすれば、フランス人は本来「野蛮」な民族性を持っているのかも知れません。

 フランス人が自国の「文化的レベル」を誇りにしているのであれば、今回の政府の判断に対して「抗議行動」のひとつも見られてイイように思えるワケですが、今のところ政府の判断に同調しているようなので、「フランス文化」のレベルも早晩、世界中から疑問視されることでしょうなw。

 もちろん、事はフランスに限った話ではなく、イギリスもフランスに同調しているワケですから、当然イギリスの「文化的レベル」の疑われますが、ま、フランスの方が「自国の文化」というものに、より自信を持っているように見えるので、余計にその綻びが目に付くワケです。

 グローバル化が進むと世界中の政治体制も似てくること示唆しましたが、まさにアメリカ流・・・と言うか、グローバル主義の政治・経済の流れが、今回のアルジェリアにおけるアルジェリア(フランス)の強行作戦や、自民党の「憲法改正」の根低に感じられ、したがってそうしたグローバリズムに反旗を翻す、世界的な「人間回帰」も反作用として生じるワケですよ。

 つまり、グローバリズムによって世界中の政治体制が似てくると、世界中の「善良な市民」の連帯も加速する・・・と、いうワケです。

 その意味でも、日本における「反原発」であったり、軍国主義に向かうであろう「憲法改正」であったり、在日米軍による「戦後占領」の継続であったり、「TPP」などによる大企業優先の経済政策であったり、「不正選挙」による不適切な政治家の台頭であったり、もうね?国家の主権が国民にあることを無視した状態が続いていることに対する反発、および目に見える抗議は、


必ず世界に伝播する!


・・・と、確信している次第です。はい。

 政治・経済のグローバリズムが進めば進むほど、人間のグローバリズムも進む・・・というか、人種・民族を超えた人間の「要素」も際立ってくるワケですよ。なぜならグローバリズムは、個人の幸福という、一番根源的な権利さえ侵害しようとするものだからです。

 で、話をアラブとイスラムに戻しますが、先に述べたようにイスラム教には・・・というか、あらゆる宗教には「世俗派」と「原理派」が存在し、ワタシが「汎アラブ主義」を支持するのは、それが「世俗派」の一形態であるからで、逆に言えば「原理派」とは、厳格な規律?によって統一を図るという「宗教的グローバリズム」に思えるからです。

 してみると、同じグローバリズム同士、利害が一致する部分があるのかも知れませんなw。「イスラム原理主義」と呼ばれる勢力と、「欧米グローバリズム」は。

 大きく分けてスンニ派、シーア派というイスラム教の対立はあるのでしょうが、両派が総力を挙げて抗争しているワケではありません。一部の原理主義的過激派が先鋭的な抗争を繰り返していて、その他の殆どの信者は平穏に日々を暮らすことを望んでおり、信仰に従って生活しているワケです。

 例えばエジプトでは、イスラム同胞団がムバラク政権を倒しましたが、「原理主義的」なイスラム同胞団をすべての人が受け入れているワケではありません。ムルシー現大統領の選出にしても、約半数の国民はイスラム同胞団出身の同大統領を支持していません。

 つまり、「イスラム原理主義」を押さえつけてきたことが、チュニジアから始まった「フラワー革命」とやらの引き金になったという見方だけでは、今回のアルジェリアにおける痛ましい事件の発生原因としては不十分であるようにワタシには見えるワケです。

 アラブとイスラム。そして宗教的な「世俗派」と「原理派」の存在。この入り組んだ状況を解きほぐすのは並大抵ではありませんし、まして「異教徒」である日本人には、その答えを見つけ出すことは出来ないでしょう。アラブの人たち自らがその答えを求め、「平和なアラブ」の実現に尽力するしかないのです。

 ワタシたち日本人としては、「同じ人間として」、戦火で家族を失った悲しみや、日々の食料にも事欠く難民キャンプでの暮らしや、子供の将来を案じる親の気持ちや、故郷を失ったことへの絶望感などに「共感」できるハズです。特に、東日本大震災とそれに続く原発事故による被災者の方々の身の上に重ねれば・・・。

 同じような苦しみを抱えている人たちが遥か海の向こうにもいて、「お互い辛いけど、がんばろうね。」・・・という世界的な連帯感こそが、グローバリズムを押し止める最大の力であり、その、「がんばっている姿勢」を世界に示し、同じようにがんばっている世界中の人たちを勇気付ける上でも、日本における抗議運動が一過性のものでなく、「勝利の日」まで続けられることが大切なワケですよ。

 必ず世界は、日本国憲法・・・というか、人類の普遍的原理=国家の主権者は国民である。・・・ということに目覚める時が来るでしょうし、この理念を掲げる日本人であればこそ、世界の・・・いやさ、新時代の魁となるくらいの自覚が欲しいものです。





人間ナメんなよ!


でわっ!
 

新羅についてアレコレ

       
 前回、蘇我氏はローマ人で云々・・・。という、お話をしましたが、ま、TV番組の内容をまんま受け売りするのもアレなんで、少しは自分でも検証しようかと。

 いずれにせよ、新羅の時代にあれだけの石窟(751年着工 - 774年完成)が建造されたことに素直に驚くとともに、異質な文明の手によるものと直感した次第です。韓国の人には申し訳ありませんが、現在の韓国人の直接の祖先があの「石窟」を建造したとはとれも思えないワケですよ。何と言うか・・・「美的感覚」が根底から違うような気がして・・・。

 一目見て思った・・・というか、連想したのは、アフガニスタンの「バーミヤン」の石窟群ですかね?一部がタリバンに破壊されてしまい非常に残ですが、カイザル政権下で、国際協力により修復も進んでいるとか?

 で、件の動画(TV番組)の中で、新羅人は言葉が通じないとナレーションが入ったトコロで画面に映し出されたのは、「無文字」の3文字であり、(文字が無いのと言葉が通じないのは別問題だろ?)・・・と、文献をアレコレ検索してみましたw。


梁 (502年 - 557年)


「梁書」=「南史」 新羅伝

新羅者、其先本辰韓種也。
辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。
其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。
相呼皆為徒、不與馬韓同。

新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。
辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。
その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。
皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。

又辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王、明其流移之人故也、恒為馬韓所制。
辰韓始有六國、稍分為十二、新羅則其一也。其國在百濟東南五千餘里。
其地東濱大海、南北與句驪、百濟接。
魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。
其國小、不能自通使聘。
普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。

また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。
辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に五千余里。
東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。
三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。
小国なので、自ら通使を派遣すせることができなかった。
普通二年(521年)、王姓を秦の名から募り、初めての使者は百済の遣使に随伴して方物を献じた。

其俗呼城曰健牟羅、其邑在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中國之言郡縣也。
國有六啄評、五十二邑勒。
土地肥美、宜植五穀。
多桑麻、作縑布。
服牛乘馬。
男女有別。
其官名、有子賁旱支、齊旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。
其冠曰遺子禮、襦曰尉解、○曰柯半、靴曰洗。
其拜及行與高驪相類。
無文字、刻木為信。
語言待百濟而後通焉。

そこの習俗では、城を健牟羅、村落を有する城を啄評、村落を持たない城を邑勒と呼ぶ。中国で言うところの郡県である。
国内には六啄評、五十二邑勒がある。
土地は肥沃で五穀の栽培に適している。
多くの桑や麻が採れ、短い衣服を作る。
牛を飼育し馬に乗る。
男女の別がある。
官名には、子賁旱支、斉旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支がある。
そこの冠は遺子礼と言い、襦は尉解と言う。
儀礼や行為は高麗に類している。
文字なし、木に刻みを入れて通信に使う。
言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり。


 「梁書」によれば確かに中国語を解せず、しかも文字も持たないとなると文明が遅れている人たちのように思えますが、件の「石窟」を見ても、文明が遅れているどころか、高度な技術を持っていたことが伺えます。

 通訳を介さないと意思の疎通が図れないのは、やはり「異民族」、もしくは「異人種」と考えられますが、そうなると中国人には「文字」として認識できなかった「木に入れた刻み」すら、実は漢字とは全く違う文字であることも考えられます。

 で、そうした「刻み」のような文字を使う「高度文明」として、スグに頭に浮かぶのが古代バビロニア文明における「楔形文字」でり、また、「ラテン文字」ですら単なる「刻み」に見えたのかも知れません。特に数字となると。

 いずれにせよ新羅人は、周辺国とは異なる文明を持った人たちであったようで、そのような人たちがイキナリ朝鮮半島に出現するワケもなく、件の「石窟」の建造技術にしてもそうですが、俄然、新羅という国に興味が沸き、その他の文献もついでに確かめてみたワケです。


新羅 (503年 - 935年)


576年頃の半島図


南北朝時代 (439年 - 589年)


「北史」 新羅伝

新羅者、其先本辰韓種也。
地在高麗東南、居漢時樂浪地。
辰韓亦曰秦韓。
相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。

新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。
領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。
辰韓または秦韓ともいう。
相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。

其言語名物、有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼皆為徒、不與馬韓同。
又辰韓王常用馬韓人作之、世世相傳、辰韓不得自立王、明其流移之人故也。
恒為馬韓所制。

その言語や名称は中国人に似ており、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴といい、皆を徒と呼び合うが、馬韓と同じではない。
また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民の故である。
恒久的に馬韓が領土を制している。

辰韓之始、有六國、稍分為十二、新羅則其一也。
或稱魏將毋丘儉討高麗破之、奔沃沮、其後復歸故國、有留者、遂為新羅、亦曰斯盧。

辰韓の初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。
あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に奔走、その後、故国に復帰したが、居留する者があり、遂に新羅を立てた、斯盧ともいう。

其人雜有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓、濊之地。
其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。
初附庸于百濟、百濟征高麗、不堪戎役、後相率歸之、遂致強盛。
因襲百濟、附庸於迦羅國焉。
傳世三十、至真平。
以隋開皇十四年、遣使貢方物。
文帝拜真平上開府、樂浪郡公、新羅王。

その族人は華夏(漢族)、高麗、百済に属す人々と雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。
その王は元の百済人、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。
初めは百済に従属し、百済が高麗に征圧されると、苦役に堪えられず、後に連れ立ってここに帰属、遂には強盛となった。
百済を因襲し、迦羅国を臣従させる。
伝世三十代の真平(王名=金姓)に到る。
隋の開皇十四年(594年)には遣使を以て方物を貢献する。
文帝は真平を開府に上京させて、楽浪郡公、新羅王の爵位を拝受させた。

其官有十七等:一曰伊罰干、貴如相國、次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏干、次大奈摩干、次奈摩、次大舍、次小舍、次吉士、次大烏、次小烏、次造位。

その官には十七等級がある。初めが伊罰干、(中華王朝の)相国の如く高貴とされる、次に伊尺干、迎干、破彌干、大阿尺干、阿尺干、乙吉干、沙咄干、及伏干、大奈摩干、奈摩、大舍、小舍、吉士、大烏、小烏、造位と続く。

外有郡縣。
其文字、甲兵、同於中國。
選人壯健者悉入軍、烽、戍、邏倶有屯營部伍。
風俗、刑政、衣服略與高麗、百濟同。
毎月旦相賀、王設宴會、班賚群官。其日、拜日月神主。
八月十五日設樂、令官人射、賞以馬、布。
其有大事、則聚官詳議定之。

外に郡県がある。
文字や甲兵は中国と同じである。
壮健な者を選んで悉く軍に入れるが、烽、戍、邏倶など五部の屯営がある。
風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。
正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は日月神を祭祀して拝む。
八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。
大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める。

服色尚畫素。
婦人辮髮繞頸、以雜綵及珠為飾。
婚嫁禮唯酒食而已、輕重隨貧富。
新婦之夕、女先拜舅姑、次即拜大兄、夫。
死有棺歛、葬送起墳陵。
王及父母妻子喪、居服一年。
田甚良沃、水陸兼種。
其五穀、果菜、鳥獸、物産、略與華同。

服飾は質素ではない。
婦人は髪をまとめて頚(頭の誤記?)に巻き、色々な色彩の宝玉を飾りとする。
婚礼は酒食をもてなせば成立し、貧富の差に応じて軽重がある。
新婚の夜、女は先に舅姑に拝礼し、次に長男と夫に拝する。
死ねば棺に納め、葬送は墳陵で始める。
王や父母妻子の喪は一年の服喪とする。
農地はとても肥沃で、水稲と陸稲の種を兼用する。
五穀、果菜、鳥獣、物産、すべて中華と同じである。

大業以來、歳遣朝貢。
新羅地多山險、雖與百濟構隙、百濟亦不能圖之也。

大業以来、毎年遣使が朝貢した。
新羅の地は険しい山が多く、百済に隙をみせても、百済もこれを包囲することは不可能である。


隋 (581年 - 618年)


「隋書」 新羅伝

新羅國、在高麗東南、居漢時樂浪之地、或稱斯羅。
魏將母丘儉討高麗、破之、奔沃沮。
其後復歸故國、留者遂為新羅焉。
故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬、兼有沃沮、不耐、韓、獩之地。

新羅国は高句麗の東南に在り、漢代の楽浪の地に居住、あるいは斯羅とも称す。
魏の将軍の毋丘儉が高句麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に敗走。
その後、故国に復帰したが、留まる者があり、遂に新羅を立てた。
それ故に、そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。

其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。
傳祚至金真平、開皇十四年、遣使貢方物。
高祖拜真平為上開府、樂浪郡公、新羅王。
其先附庸於百濟、後因百濟征高麗、高麗人不堪戎役、相率歸之、遂致強盛、因襲百濟附庸於迦羅國。

その王は本の百済人で、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。
温祚(おんそ)から伝世、金真平(王名=金姓)に至り、開皇十四年(594年)に遣使を以て方物を貢献した。
高祖は真平を拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜る。
その先祖は百済に従属し、後に百済が高句麗を征したが、高句麗人は戎役に堪えられず、相次いで帰国し、遂に強勢となり、百済を襲い迦羅国を従属国とする。

其官有十七等:其一曰伊罰干、貴如相國;次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏干、次大奈摩干、次奈摩、次大舍、次小舍、次吉土、次大烏、次小烏、次造位。

官には十七等級がある。その一(初め=首=長官)は伊罰干、相国の如く高貴とされる。次は伊尺干、次は迎干、次は破彌干、次は大阿尺干、次は阿尺干、次は乙吉干、次は沙咄干、次は及伏干、次は大奈摩干、次は奈摩、次は大舍、次は小舍、次は吉土大烏、次は小烏、次は造位。

外有郡縣。
其文字、甲兵同於中國。
選人壯健者悉入軍、烽、戍、邏倶有屯管部伍。
風俗、刑政、衣服、略與高麗、百濟同。
毎正月旦相賀、王設宴會、班賚群官、其日拜日月神。
至八月十五日、設樂、令官人射、賞以馬布。
其有大事、則聚群官詳議而定之。

外に郡県がある。
そこの文字、具足、兵器は中国と同じである。
人選して壮健な者は悉く軍に入れる。烽、戍、邏倶など五部の屯管(屯営の誤記?)がある。
風俗、刑罰、政治、祭祀、衣服いずれも高句麗や百済と同じである。
正月元旦には皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や多くの官を招き、その日は太陽と月の神を祭祀して拝む。
八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。
大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める。

服色尚素。
婦人辮髮繞頭、以雜綵及珠為飾。
婚嫁之禮、唯酒食而已、輕重隨貧富。
新婚之夕、女先拜舅姑、次即拜夫。
死有棺斂、葬起墳陵。
王及父母妻子喪、持服一年。
田甚良沃、水陸兼種。
其五穀、果菜、鳥獸物産、略與華同。

服飾は質素ではない。
婦人は髪をまとめて頭に巻き、様々な色彩の宝玉を飾りとする。
婚礼は酒食をもてなせば成立し、貧富の差に応じて軽重がある。
新婚の夜、妻は先に舅姑に拝礼し、次に夫に拝礼する。
死ねば棺に納め、葬送は墳陵で始める。
王や父母妻子の喪は一年の服喪とする。
農地はとても肥沃で、水稲と陸稲の種を兼用する。
五穀、果菜、鳥獣、物産、ほぼ中華と同じである。

大業以來、歳遣朝貢。
新羅地多山險、雖與百濟構隙、百濟亦不能圖之。

隋の大業年間(605-618年)以来、毎年遣使が朝貢した。
新羅の地は険山が多く、百済に隙をみせても、百済もこれを包囲することはできない。


唐 (618年 - 907年)


「旧唐書」 新羅伝

新羅國、本弁韓之苗裔也。
其國在漢時樂浪之地、東及南方倶限大海、西接百濟、北鄰高麗。
東西千里、南北二千里。
有城邑村落。
王之所居曰金城、周七八里。
衛兵三千人、設獅子隊。
文武官凡有十七等。
其王金真平、隋文帝時授上開府、樂浪郡公、新羅王。

新羅国、昔の弁韓の苗裔である。
その国は漢代には楽浪の地に在り、東と南方は大海を限界とし、西は百済と接し、北隣は高句麗である。
東西に千里、南北に二千里。
城邑や村落があり。
王の居城は金城といい、周囲七~八里。
衛兵は三千人、獅子隊を設ける。
文武官には凡そ十七等級ある。
王の金真平、隋の文帝の時代に上開府、楽浪郡公、新羅王を授かる。

武德四年、遣使朝貢。
高祖親勞問之、遣通直散騎侍郎庾文素往使焉、賜以璽書及畫屏風、錦綵三百段、自此朝貢不絶。
其風俗、刑法、衣服、與高麗、百濟略同、而朝服尚白。
好祭山神。
其食器用柳桮、亦以銅及瓦。
國人多金、朴兩姓、異姓不為婚。
重元日、相慶賀燕饗、毎以其日拜日月神、又重八月十五日、設樂飲宴、賚群臣、射其庭。
婦人髮繞頭、以綵及珠為飾、髮甚長美。

武德四年(621年)、遣使が朝貢。
高祖は親しく労を問い、通直散騎侍郎の庾文素を答礼使として行かせ、璽書および書画屏風、錦紗三百反を下賜、これより朝貢は絶えなかった。
そこの風俗、刑法、衣服は、ほぼ高句麗や百済と同じで、而して朝服も白を尊ぶ。
山神の祭りを好む。
食器に柳桮を用い、また銅や陶器もある。
国人には金、朴の両姓が多く、異姓との婚姻はしない。
元日を重んじて皆で慶賀し、宴に饗じる、その日が来るごとに日月神を拝む。また、八月十五日を重んじて行楽を設け、酒宴を催し、群臣は庭園で射撃競技を賜る。
婦人は髮を頭に巻き、錦紗や宝珠で飾り、髮はとても長くて美しい。

高祖既聞海東三國舊結怨隙、遞相攻伐、以其倶為藩附、務在和睦、乃問其使為怨所由、對曰:「先是百濟往伐高麗、詣新羅請救、新羅發兵大破百濟國、因此為怨、毎相攻伐。新羅得百濟王、殺之、怨由此始。」
七年、遣使冊拜金真平為柱國、封樂浪郡王、新羅王。

高祖は、海東の三国が古い仇怨に固執し、順番に相手を攻伐、それによって、互いを従属させてきたことを聞き及び、和睦を仲介すべく、その使者に怨念の理由を問うた。応答して曰く「先に百済が高句麗を攻伐に行く、(高句麗は)新羅を訪れて救援を請い、新羅は兵を発して百済国を大破したが、これが仇(あだ)となり、いつも互いを攻伐する。新羅は百済王を捕え、これを殺す、仇怨はここから始まる。」
武德七年(624年)、遣使を拝謁し、金真平を柱国、封楽浪郡王、新羅王に冊封する。

貞觀五年、遣使獻女樂二人、皆鬒髮美色。
太宗謂侍臣曰:「朕聞聲色之娛不如好德。且山川阻遠、懷土可知。近日林邑獻白鸚鵡、尚解思郷、訴請還國。鳥猶如此、況人情乎! 朕愍其遠來、必思親戚、宜付使者、聽遣還家。」
是歳、真平卒、無子、立其女善德為王、宗室大臣乙祭總知國政。
詔贈真平左光祿大夫、賻物二百段。

貞観五年(631年)、遣使が女性の楽士二人を献ずる、いずれも豊かな黒髪で美しい顔をしていた。
太宗は侍臣に「朕は聲色の娯楽は好德には非ずと聞く。それに(故郷の)山河を遠くに阻まれ、郷土を恋しがるのは当然と知るべし。近日、林邑が白鸚鵡(白いオオム)を献じたが、まだ故郷への思慕が解り、国に帰りたいと請うて訴えた。鳥でさえもこの通り、いわんや人の情ならば! 朕は彼女らが遠来し、必死に親戚を思うのを哀れと思う。宜しく使者を付けて、家に帰して遣わせ」と申された。
この歳、真平が死んだが、子(嗣子)がなく、娘の善德を王に立て、宗室の大臣、乙祭總知が国政を執る。
詔を以て真平に左光祿大夫と、賻物(葬儀の支援金)二百反を下賜する。

九年、遣使持節冊命善德柱國、封樂浪郡王、新羅王。
十七年、遣使上言:「高麗、百濟、累相攻襲、亡失數十城、兩國連兵、意在滅臣社稷、謹遣陪臣、歸命大國、乞偏師救助。」
太宗遣相里玄獎齎璽書賜高麗曰:「新羅委命國家、不闕朝獻。爾與百濟、宜即戢兵。若更攻之、明年當出師撃爾國矣。」
太宗將親伐高麗、詔新羅纂集士馬、應接大軍。
新羅遣大臣領兵五萬人、入高麗南界、攻水口城、降之。

貞観九年(635年)、持節の使者を遣わして、善德に柱国を冊命し、楽浪郡王、新羅王に封じる。
貞観十七年(643年)、遣使が「高句麗や百済と何度も攻撃しあい、数十城を亡失、両国が連兵し、意中では臣の社稷(国家)を滅ぼさんとしており、謹んで陪臣を遣わし、大国に帰依し、偏師(主力軍の両翼に付く補助軍)の救助を乞う」と上奏した。
太宗は相里玄獎に璽書を持たせ遣わし、高句麗に賜いて曰く「新羅は国家の命を(隋に)委ねているが、王宮に朝献できない。汝は百済と宜しく即時に兵を撤収せよ。もし更にこれを攻めるなら、来年、軍隊を出陣させ汝の国を攻撃するであろう。」
太宗は親征軍を引き連れて高句麗を討伐、詔を以て新羅は兵馬を募って、大軍を迎えた。
新羅は大臣に兵五万人を領させて派遣し、高句麗の南界に進入、水口城を攻撃、これを降した。

二十一年、善德卒、贈光祿大夫、餘官封並如故。
因立其妹真德為王、加授柱國、封樂浪郡王。
二十二年、真德遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。
詔授春秋為特進、文王為左武衛將軍。
春秋請詣國學觀釋奠及講論、太宗因賜以所制温湯及晉祠碑并新撰晉書。
將歸國、令三品以上宴餞之、優禮甚稱。

貞観二十一年(647年)、善德が死に、光祿大夫を追贈し、その余の官位はすべて旧来の如く封じた。
その妹の真德を立てて王となしたので、柱国を加授、楽浪郡王に封じる。
貞観二十二年(648年)、真德が弟の国相、伊贊干の金春秋、子の文王を遣わして来朝。
詔を以て春秋に特進を授け、文王を左武衛將軍と為す。
春秋は国学観に訪れて釈尊(仏陀)の講義を請い、太宗は(皇帝専用の)温湯を使わせ、晋祠碑に併せて新撰晋書などを賜る。
帰国に際して三品官以上を遇する宴を催し、これの餞(はなむけ)とする。礼を尽くし優遇すること甚だしいと称された。

永徽元年、真德大破百濟之衆、遣其弟法敏以聞。
真德乃織錦作五言太平頌以獻之、
其詞曰:「大唐開洪業、巍巍皇猷昌。止戈戎衣定、修文繼百王。統天崇雨施、理物體含章。深仁偕日月、撫運邁陶唐。幡旗既赫赫、鉦鼓何鍠鍠。外夷違命者、翦覆被天殃。淳風凝幽顯、遐邇競呈祥。四時和玉燭、七曜巡萬方。維岳降宰輔、維帝任忠良。五三成一德、昭我唐家光。」
帝嘉之、拜法敏為太府卿。

永徽元年(650年)、真德が百済の軍勢を大破、弟(弟の子)の法敏を派遣したと聞く。
真德は五言太平頌を錦糸で作り、これを献じた。
その詞に曰く「大唐開洪業、巍巍皇猷昌。止戈戎衣定、修文継百王。統天崇雨施、理物體含章。深仁偕日月、撫運邁陶唐。幡旗既赫赫、鉦鼓何鍠鍠。外夷違命者、翦覆被天殃。淳風凝幽顯、遐邇競呈祥。四時和玉燭、七曜巡萬方。維岳降宰輔、維帝任忠良。五三成一德、昭我唐家光。」
帝はこれを喜び、法敏に拝謁させて太府卿とする。

三年、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王、加授開府儀同三司、封樂浪郡王。
六年、百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界、攻陷三十餘城、春秋遣使上表求救。
顯慶五年、命左武衛大將軍蘇定方為熊津道大總管、統水陸十萬。
仍令春秋為嵎夷道行軍總管、與定方討平百濟、俘其王扶餘義慈、獻于闕下。
自是新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。

永徽三年(652年)、真德が死に、(皇帝は)挙哀(声を挙げて哀しむ=葬祭での儀礼)し、詔を以て春秋の嗣子を新羅王に立て、開府儀同三司を加授、楽浪郡王に封じる。
永徽六年(655年)、百済と高句麗が靺鞨の兵を率いて、新羅の北界を攻め、三十余城を陥落させ、春秋は遣使に救助を上表させた。
顕慶五年(660年)、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管に任命し、水陸十万の軍勢を統率させた。
春秋を嵎夷道行軍総管と為し、蘇定方と百済を討って平定。その王の扶餘義慈を捕虜とし、王宮の門前に献じた。
これより新羅は暫く高句麗と百済の地を領有、その領界は広大で、西は海に至る。

龍朔元年、春秋卒、詔其子太府卿法敏嗣位、為開府儀同三司、上柱國、樂浪郡王、新羅王。
三年、詔以其國為雞林州都督府、授法敏為雞林州都督。
法敏以開耀元年卒、其子政明嗣位。
垂拱二年、政明遣使來朝、因上表請唐禮一部并雜文章、則天令所司寫吉凶要禮、并於文館詞林採其詞渉規誡者、勒成五十卷以賜之。

龍朔元年(661年)、春秋が死去し、詔を以てその子の太府卿法敏が開府儀同三司、上柱国、楽浪郡、新羅王の位を継いだ。
龍朔三年(663年)、詔を以てその国を雞林州都督府とし、法敏に雞林州都督を授けた。
開耀元年(681年)、法敏が死に、その子の政明が位を継いだ。
垂拱二年(686年)、政明の遣使が来朝し、上表して唐礼一部併せて雜文章を請う。則天武后(在位690-705年)は吉凶要礼の書写を所司に命じ、併せて文館に於いて詞林採其詞渉規誡者、勒成五十卷をこれに賜る。

天授三年、政明卒、則天為之舉哀、遣使弔祭、冊立其子理洪為新羅王、仍令襲父輔國大將軍、行豹韜衛大將軍、雞林州都督。
理洪以長安二年卒、則天為之舉哀、輟朝二日、遣立其弟興光為新羅王、仍襲兄將軍、都督之號。
興光本名與太宗同、先天中則天改焉。

天授三年(692年)、政明が死に、則天武后はこれに挙哀し、遣使に弔祭させ、その子の理洪を新羅王に冊立し、父の輔国大将軍、行豹韜衛大将軍、雞林州都督を踏襲させた。
理洪は長安二年(702年)に死去、則天武后はこれに挙哀、二日目の朝で止め、その弟の光を新羅王に立て、兄の将軍、都督の号を踏襲させた。
光の本名は太宗と同じだったので、先天年間(712-713年)に則天武后が改めさせた。(既に則天武后は崩御しているのだが?)

開元十六年、遣使來獻方物、又上表請令人就中國學問經教、上許之。
二十一年、渤海靺鞨越海入寇登州。
時興光族人金思蘭先因入朝留京師、拜為太僕員外卿、至是遣歸國發兵以討靺鞨、仍加授興光為開府儀同三司、寧海軍使。
二十五年、興光卒、詔贈太子太保、仍遣左贊善大夫邢○璹攝鴻臚少卿、往新羅弔祭、并冊立其子承慶襲父開府儀同三司、新羅王。
璹將進發、上製詩序、太子以下及百僚咸賦詩以送之。
上謂璹曰:「新羅號爲君子之國、頗知書記、有類中華。以卿學術、菩與講論、改選使充此。到彼宜闡揚經典、使知大國儒教之盛。」
又聞其人多善奕碁、因令善碁人率府兵曹楊季鷹為璹之副。
璹等至彼、大為蕃人所敬。
其國碁者皆在季鷹之下、於是厚賂璹等金寶及藥物等。

開元十六年(728年)、遣使が来朝し方物を献じ、また上表して国人に中国の学問や教義経典を習得させたいと請い、これを許可する。
開元二十一年(733年)、渤海靺鞨が海を越えて登州に侵攻。
その時、光は族人の金思蘭先と入朝して京師に留まっていたが、太僕員外卿を拝受し、ここに至って帰国して兵を発して靺鞨を討つにおよび、光に開府儀同三司、寧海軍使を加授した。
開元二十五年(737年)、光が死去、詔を以て太子太保の位階を追贈、なお左賛善大夫邢璹、攝鴻臚少卿を遣わして、新羅に行って弔祭させ、并せてその子の承慶を冊立して、父の開府儀同三司、新羅王を踏襲させた。
璹は出発に際して、詩序を上製、太子以下と百僚が皆、これに詩を送った
皇帝が璹に曰く「新羅は君子の国を号し、頗る書記に精通して中華に類似する。卿は学術や仏法を講論し、改めて使者を選んでこれに充てる。彼の地に至って経典を宣揚し、大国が儒教の盛なることを知らしめよ。」
また、そこの人々の多くが囲碁に精通すると聞き、因って囲碁名人に府兵曹参軍の楊季鷹を璹の副として率いさせた。
璹らはここに至って、蕃人に大いに尊敬された。
その国の碁者は皆、季鷹の門下である、ここに於いて璹らに金銀宝石に医薬品を厚く支払った。

天寶二年、承慶卒、詔遣贊善大夫魏曜往弔祭之。
冊立其弟憲英為新羅王、并襲其兄官爵。
大暦二年、憲英卒、國人立其子乾運為王、仍遣其大臣金隱居奉表入朝、貢方物、請加冊命。
三年、上遣倉部郎中、兼御史中丞、賜紫金魚袋歸崇敬持節齎冊書往弔冊之。
以乾運為開府儀同三司、新羅王、仍冊乾運母為太妃。
七年、遣使金標石來賀正、授衛尉員外少卿、放還。
八年、遣使來朝、并獻金、銀、牛黄、魚牙紬、朝霞紬等。
九年至十二年、比歳遣使來朝、或一歳再至。

天寶二年(743年)、承慶が死去、詔を以て賛善大夫の魏曜を派遣し、これの葬祭に行かせる。
その弟の憲英を新羅王に冊立、并わせて兄の官爵を踏襲させる。
大暦二年(767年)、憲英が死去、国人はその子の乾運を王に立てる。なお大臣の金隱居が奏を表して入朝、方物を貢献し、冊命の加授を請う。
大暦三年(768年)、倉部郎中、兼御史中丞を派遣し、紫金魚袋を賜り、崇敬持節に冊書を持たせて行き、これを弔冊。
乾運に開府儀同三司、新羅王を賜り、なお乾運の母を太妃に冊封する。
大暦七年(772年)、遣使の金標石が来賀に参内、衛尉員外少卿を授けて、帰還させる。
大暦八年(773年)、遣使が来朝、并わせて金、銀、牛黄、魚牙紬、朝霞紬などを貢献。
九年至十二年、この歳に遣使が来朝、あるいは年に二度来る。

建中四年、乾運卒、無子、國人立其上相金良相為王。
貞元元年、授良相檢校太尉、都督雞林州刺史、寧海軍使、新羅王。
仍令戸部郎中蓋塤持節冊命。
其年、良相卒、立上相敬信為王。
令襲其官爵。
敬信即從兄弟也。
十四年、敬信卒、其子先敬信亡、國人立敬信嫡孫俊邕為王。
十六年、授俊邕開府儀同三司、檢校太尉、新羅王。
令司封郎中、兼御史中丞韋丹持節冊命。
丹至鄆州、聞俊邕卒、其子重興立、詔丹還。
永貞元年、詔遣兵部郎中元季方持節冊重興為王。

建中四年(783年)、乾運が死去、子がなく、国人はその上相の金良相を王に立てる。
貞元元年(785年)、良相に檢校太尉、都督雞林州刺史、寧海軍使、新羅王を授ける。
なお戸部郎中の蓋塤に持節を以て冊命。
その年、良相が死去、上相の敬信を王に立てる。
その官爵を踏襲させる。
敬信は従兄弟なり。
貞元十四年(798年)、敬信が死去、その子の敬信は先に亡くなっており、国人は敬信の嫡孫の俊邕を王とする。
貞元十六年(800年)、俊邕に開府儀同三司、檢校太尉、新羅王を授ける。
司封郎中、兼御史中丞の韋丹が節を持して冊命。
韋丹は鄆州に到り、俊邕の死去を聞き、その子の重興を立て、詔を宣して丹は帰還。
永貞元年(805年)、詔を以て兵部郎中の元季方に節を持たせて派遣し、重興を王に冊封する。

元和元年十一月、放宿衛王子金獻忠歸本國、仍加試秘書監。
三年、遣使金力奇來朝。
其年七月、力奇上言:「貞元十六年、奉詔冊臣故主金俊邕為新羅王、母申氏為太妃、妻叔氏為王妃。冊使韋丹至中路、知俊邕薨、其冊卻迴在中書省。今臣還國、伏請授臣以歸。」
敕:「金俊邕等冊、宜令鴻臚寺於中書省受領、至寺宣授與金力奇、令奉歸國。仍賜其叔彦昇門戟、令本國準例給、」
四年、遣使金陸珍等來朝貢。
五年、王子金憲章來朝貢。

元和元年(806年)十一月、王子の金献忠を宿衛より放ち、本国に帰らせ、なお試秘書監を加授した。
元和三年(808年)、遣使の金力奇が来朝。
その七月、力奇が上奏「貞元十六年、詔を奉じて故主の金俊邕を新羅王に冊臣、母の申氏を太妃、妻の叔氏を王妃となす。冊使の韋丹は途上で俊邕の薨じるを知り、その冊を中書省に戻した。今、臣は国に帰るを以て、臣に授けることを伏して請い願う」。
勅旨で言う「金俊邕らを冊す、宜しく鴻臚寺(外務省)は中書省に於いて受領せよ、寺に至れば宣しく金力奇に授け、奉じて帰国させよ。なお、その叔の彦昇に門戟を授け、本国の例に準じて給えよ」
元和四年(809年)、遣使の金陸珍らが来朝し、貢献する。
元和五年(810年)、王子の金憲章が来朝し、貢献する。

七年、重興卒、立其相金彦昇為王、遣使金昌南等來告哀。
其年七月、授彦昇開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、上柱國、新羅國王、彦昇妻貞氏冊為妃、仍賜其宰相金崇斌等三人戟、亦令本國準例給。
兼命職方員外郎、攝御史中丞崔廷持節弔祭冊立、以其質子金士信副之。
十一年十一月、其入朝王子金士信等遇惡風、飄至楚州鹽城縣界、淮南節度使李鄘以聞。
是歳新羅飢、其衆一百七十人求食於浙東。
十五年十一月、遣使朝貢。

元和七年(812年)、重興が死去、その相の金彦昇を王に立て、遣使の金昌南らに哀弔を告げる。
その七月、彦昇に開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、上柱国、新羅国王を授け、彦昇の妻の貞氏を妃に冊す、なお、その宰相の金崇斌ら三人に戟を賜り、また本国の例に準じて給える。
兼命職方員外郎、攝御史中丞の崔廷に持節させて葬祭を冊立し、その質子の金士信をこの副とする。
元和十一年(816年)十一月、入朝した王子の金士信らが惡風に遭遇、楚州塩城県界に漂着したことを淮南節度使の李鄘が耳にした。
この歳、新羅は飢饉、一百七十人の民が浙東で食を乞う。
元和十五年(820年)十一月、遣使が朝貢。

長慶二年十二月、遣使金柱弼朝貢。
寶暦元年、其王子金昕來朝。
大和元年四月、皆遣使朝貢。
五年、金彦昇卒、以嗣子金景徽為開府儀同三司、檢校太尉、使持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、新羅王;景徽母朴氏為太妃、妻朴氏為妃。命太子左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭冊立。
開成元年、王子金義琮來謝恩、兼宿衛。
二年四月、放還藩、賜物遣之。
五年四月、鴻臚寺奏:新羅國告哀、質子及年滿合歸國學生等共一百五人、並放還。
會昌元年七月、敕:「歸國新羅官、前入新羅宣慰副使、前充兗州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿、可淄州長史。」

長慶二年(822年)十二月、遣使の金柱弼が朝貢。
寶暦元年(825年)、その王子の金昕が来朝。
大和元年(827年)四月、皆が遣使を以て朝貢してきた。
大和五年(831年)、金彦昇が死去、嗣子の金景徽を開府儀同三司、檢校太尉、使持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、新羅王になす。景徽の母の朴氏を太妃、妻の朴氏を妃となす。太子を左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭に冊立。
開成元年(836年)、王子の金義琮が謝恩に来朝し、宿衛を兼ねる。
開成二年(837年)四月、放免して帰国させ、賜物をこれに遣わす。
開成五年(840年)四月、鴻臚寺が上奏。新羅国に告哀あり、質子および年期の満ちた学生ら一百五人と共に、一緒に放還させたい。
会昌元年(841年)七月、勅書で「歸国する新羅官、前の入新羅宣慰副使、前の充兗州都督府司馬、緋魚袋金雲卿を賜い、淄州長史とすべし」


辰韓 (紀元前2世紀末 - 4世紀)


後漢 (25年 - 220年)


「後漢書」 辰韓伝

辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。
其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。

辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。
そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。

有城柵屋室。
諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。
土地肥美、宜五穀。
知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。
嫁娶以禮。
行者讓路。

城柵、家屋、宮室がある。
諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。
土地は肥沃、五穀の栽培に適している。
養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。
嫁は婚礼をして娶る。
道で行き合えば道を譲る。

國出鐵、濊、倭、馬韓並從市之。
凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。
俗喜歌舞飲酒鼓瑟。
兒生欲令其頭扁、皆押之以石。

国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。
おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。
習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。
幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。


魏 (220年 - 265年)


「三国志魏書」 辰韓伝

辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。
有城柵。
其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。
名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。
今有名之為秦韓者。
始有六國、稍分為十二國。

辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。
城柵あり。
言語は馬韓と同じではない。
そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。
楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。
今はこの国の名称を秦韓とする。
始めには六国あり、十二国に細分化した。


晋 (265年 - 420年)


「晋書」 辰韓伝

辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。
初有六國、後稍分為十二、又有弁辰、亦十二國、合四五萬戸、各有渠帥、皆屬於辰韓。
辰韓常用馬韓人作主、雖世世相承、而不得自立、明其流移之人、故為馬韓所制也。
地宜五穀、俗饒蠶桑、善作縑布、服牛乘馬。
其風俗可類馬韓、兵器亦與之同。
初生子、便以石押其頭使扁。
喜舞、善彈瑟、瑟形似筑。

辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。
初めは六国あり、後に十二国に細分した。また、弁辰があり、これもまた十二国で、合計四、五万戸、各々に渠帥がいるが、皆、辰韓に属している。
辰韓は常に馬韓人を用いて君主となす、代々の相伝とはいえ、自立することを得ず、明らかに流移の人ゆえに馬韓が全土を制している。
土地は五穀の栽培に適しており、習俗は多くの蚕や桑があり、上手に縑布を作り、牛を飼い馬に乗る。
その風俗は馬韓に類似しており、兵器もまたこれに同じである。
初めの子が生まれると、石にその頭を押し付けて扁平にさせる。
嬉々として舞い、瑟を弾く、瑟の形は筑(琴に似た13弦琴)に似ている。


 時代順に並べると、「後漢書」>「三国志魏書」>「晋書」と、途切れることなく「辰韓」について書き綴られ、その後も途切れることなく、南北朝時代の「梁書」>「隋書」>「旧唐書」と、841年までの新羅の内情が記録として残っているワケです。(使いまわしですが・・・。)

 ちなみに、倭と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」は663年の出来事とされていますが、「旧唐書」で該当する部分は、


六年、百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界、攻陷三十餘城、春秋遣使上表求救。
顯慶五年、命左武衛大將軍蘇定方為熊津道大總管、統水陸十萬。
仍令春秋為嵎夷道行軍總管、與定方討平百濟、俘其王扶餘義慈、獻于闕下。
自是新羅漸有高麗、百濟之地、其界益大、西至于海。

永徽六年(655年)、百済と高句麗が靺鞨の兵を率いて、新羅の北界を攻め、三十余城を陥落させ、春秋は遣使に救助を上表させた。
顕慶五年(660年)、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管に任命し、水陸十万の軍勢を統率させた。
春秋を嵎夷道行軍総管と為し、蘇定方と百済を討って平定。その王の扶餘義慈を捕虜とし、王宮の門前に献じた。
これより新羅は暫く高句麗と百済の地を領有、その領界は広大で、西は海に至る。


・・・ですか?


扶余義慈王


 資料を見て言えることは、新羅の前身である辰韓は、秦の圧政から逃れてきた「亡命者」の国であったことと、自らの王を持たなかったということです。

 謂わば「難民の国」であるから、自ら「王」を立てられない弱い立場にあったという見方が一般的なのかも知れませんが、別な見方をすれば、「王」を頂点とする絶対的な集権機構による「悪政」から逃れてきた身であれば、そうした「王政」による社会システムを望まず、「馬韓」の「王」を代理王・・・すなわち、誰の権力も集中しない「象徴王」として仰いだという見方もできます。

 で、そうした見方からすると、よく似ているのが日本における「天皇制」であり、辰韓および新羅の生活風習にもそこはかとなく日本文化に近いものを感じるワケですが、さすがに、生まれた子供の頭を扁平にする風習は無いわw。

 ま、長くなるのでこの続きはまた改めて。




人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年1月18日金曜日

蘇我氏はローマ人だった?

    
 過去何度か藤原氏、天智天皇、天武天皇の関係について言及し、未だにその答えを見出せずにいるワケですが、ま、エライ学者のセンセ方も喧々諤々とやりあっているワケですから、ワタシ如きにそう易々と答えを出せるワケも無いですw。

 「鹿男あおによし」・・・というドラマの中で語られた、京都=狐、難波=鼠、奈良=鹿、と言う関係性は何を暗示しているのか?気になって気になって夜も・・・。

 そんな中、あるひとつの非常に興味深い動画を発見しました。



蘇我氏はローマ人だった!?


 で、ワタシが無知だったのですが、蘇我氏と新羅とは件の「ローマ製ガラス器」の存在からして、何らかの関係があるのではないか?・・・ということです。そこから歴史を繋ぎ合わせてみると、ナカナカに面白い「流れ」が見えてきます。

 蘇我氏のルーツは武内宿禰とされていますが、一説には、武内宿禰は神功皇后の愛人とも言われており、夫である仲哀天皇が崩御された後に神功皇后は、武内宿禰との間に子(応神天皇)をもうけますが、子を身ごもったまま何故か?新羅成敗に向かいます。俗に「三韓成敗」と言われるアレですが、「古事記」と「日本書紀」とではその内容が大きく違っています。


縄文と古代文明を探求しよう!

『古事記』の場合、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。

これに対して、『日本書紀』の場合、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。


 神功皇后の故郷が新羅であるならば、里帰りして子供を産むというのは現代にも通じる当然の行為となりますし、尚且つ、日本国内では産めない事情も考えられます。そのひとつが容姿です。

 新羅がローマ人、もしくはヨーロッパ系の民族によって建国された国だとすると、新羅出身の武内宿禰が同じく新羅をルーツに持つ神功皇后の寵愛を受けるのは当然のことであると同時に、武内宿禰にヨーロッパ系の特徴・・・金髪、蒼い目、白い肌、などの特徴が顕著であった場合、その子供・・・即ち応神天皇にも同じ特徴が顕れるワケです。



応神天皇を抱く、武内宿禰と神功皇后


 そうなると、神功皇后が朝廷内で出産した場合、赤ん坊の容姿を第三者に見られたら、武内宿禰との不義密通?の証拠となってしまうワケですよ・・・応神天皇が。


応神天皇- Wikipedia


 それを避ける目的もあって、新羅で出産しようとワザワザ海を渡ったと考える方が、ワタシには合理的に思えます。

 ちなみに、武内宿禰は「300歳まで生きた」と伝承されていますが、彼が「金髪」であったなら、それを知らない日本国内の先住民には「白髪」に見え、そこから武内宿禰の長寿伝説が生まれたとも考えられます。

 以上が、蘇我氏のルーツとされる武内宿禰のあらましです。この後、蘇我氏が勃興するワケですが、蘇我氏の最大の業績は、ナンと言っても「飛鳥京」の建設です。そして、よく知られているように、「飛鳥京」には「石造り」の遺跡が多く残されています。



石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)


 蘇我氏がローマ人、もしくはその末裔である新羅系であるとすれば、飛鳥京に「石造り」の遺跡が多く見られるのも、ローマ風の、石を使った建造物への郷愁がそうさせたのかも知れません。



新羅人の微笑 石窟庵


 蘇我氏は「仏教」を広めましたが、ワタシには権力を掌握するための「道具」として使ったのではないか?・・・と、思えるのです。それが後々、純粋に「仏教」の教えを広めようとする聖徳太子と、蘇我入鹿との確執の原因になったとも考えられます。

 さて、実際問題として、「飛鳥の宮」のお寺の多くは「高句麗の建築技法」にて建てられているそうです。尤も、新羅風の木造建築技法があったのかどうか定かではありません。先の「石窟庵」のように、「石造り」の技術には長けているとしても「木工技術」を持ち合せていなかったら、お隣の「高句麗」から職人を呼び寄せることでしょう。



聖徳太子はペルシャ人だった!?


妙見信仰とは

 この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かである。


 で、妙見信仰のルーツは古代バビロニアにまで遡るそうで、それがギリシャ、ローマに伝わったであろうことは想像に難くないワケです。


妙見菩薩 - Wikipedia



ギリシアから日本に来た神々

 
 蘇我氏、および新羅人が純粋なローマ人であったかは定かではありませんが、少なくとも「石窟庵」の遺跡を見る限り、「高度な石工技術」を持っていたことは疑いようも無く、そのための道具・・・物差しなどが発達していたこともまた然りです。

 ペルシャ人にしても同様の「石工技術」を持っていたのでしょうが、その先・・・つまり、現在の日本文化に対してどれだけ影響を及ぼしているかを検証してみると、「日本神話」と「ギリシャ神話」の類似性を鑑みても、ローマ系の文化の影響が非常に強いと言えます。

 その点からワタシは、蘇我氏は新羅系≒ローマ系であると考えた方が、後の「乙巳の変」からはじまり「白村の江の戦い」を挟んで「壬申の乱」に到る歴史の「流れ」が見えてくるように思えるワケです。

 蘇我氏宗家は滅ぼされ、宗家に所蔵されていた蔵書も焼却されてしまったとのことですが、もしその中に「ギリシャ神話」に関する蔵書が含まれていたなら、それを「原書」として後日、天武天皇と藤原不比等らによって「日本神話」としてデフォルメされ、同時に「日本書紀」が編纂されたとも考えられるワケですよ。

 もしかしたら「原書」は、いまも何処かに保管されているのかもしれませんなw。宮内庁の書庫の奥深くとか・・・。

 ところで「新羅」といえば、埼玉県の旧新座群一帯と東京都の清瀬市も一部含まれますが、このあたりは「新羅」からの渡来民が住みついた土地で、「新座」の旧地名は「新羅座」といい、もうね?読んで字の如し。「高句麗」にしても、埼玉県の高麗川周辺が高句麗渡来民の本拠地であり、多摩地区と古代朝鮮半島との繋がりも深いワケですよ。

 そうした現状を踏まえると、現在の歴史研究は「百済」と皇室との関係に比重が置かれているようにも見え、もっとバランスの取れた朝鮮半島との歴史的関係の見直しが必要だと思うワケです。

 それも、朝鮮半島と皇室の関係性ばかりでなく、日本全体を視野に入れた民族の交流を検証することで、本当の日本史が浮かび上がってくるのだと思う次第です。はい。





人間ナメんなよ!


でわっ!