2013年1月18日金曜日

蘇我氏はローマ人だった?

    
 過去何度か藤原氏、天智天皇、天武天皇の関係について言及し、未だにその答えを見出せずにいるワケですが、ま、エライ学者のセンセ方も喧々諤々とやりあっているワケですから、ワタシ如きにそう易々と答えを出せるワケも無いですw。

 「鹿男あおによし」・・・というドラマの中で語られた、京都=狐、難波=鼠、奈良=鹿、と言う関係性は何を暗示しているのか?気になって気になって夜も・・・。

 そんな中、あるひとつの非常に興味深い動画を発見しました。



蘇我氏はローマ人だった!?


 で、ワタシが無知だったのですが、蘇我氏と新羅とは件の「ローマ製ガラス器」の存在からして、何らかの関係があるのではないか?・・・ということです。そこから歴史を繋ぎ合わせてみると、ナカナカに面白い「流れ」が見えてきます。

 蘇我氏のルーツは武内宿禰とされていますが、一説には、武内宿禰は神功皇后の愛人とも言われており、夫である仲哀天皇が崩御された後に神功皇后は、武内宿禰との間に子(応神天皇)をもうけますが、子を身ごもったまま何故か?新羅成敗に向かいます。俗に「三韓成敗」と言われるアレですが、「古事記」と「日本書紀」とではその内容が大きく違っています。


縄文と古代文明を探求しよう!

『古事記』の場合、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。

これに対して、『日本書紀』の場合、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。


 神功皇后の故郷が新羅であるならば、里帰りして子供を産むというのは現代にも通じる当然の行為となりますし、尚且つ、日本国内では産めない事情も考えられます。そのひとつが容姿です。

 新羅がローマ人、もしくはヨーロッパ系の民族によって建国された国だとすると、新羅出身の武内宿禰が同じく新羅をルーツに持つ神功皇后の寵愛を受けるのは当然のことであると同時に、武内宿禰にヨーロッパ系の特徴・・・金髪、蒼い目、白い肌、などの特徴が顕著であった場合、その子供・・・即ち応神天皇にも同じ特徴が顕れるワケです。



応神天皇を抱く、武内宿禰と神功皇后


 そうなると、神功皇后が朝廷内で出産した場合、赤ん坊の容姿を第三者に見られたら、武内宿禰との不義密通?の証拠となってしまうワケですよ・・・応神天皇が。


応神天皇- Wikipedia


 それを避ける目的もあって、新羅で出産しようとワザワザ海を渡ったと考える方が、ワタシには合理的に思えます。

 ちなみに、武内宿禰は「300歳まで生きた」と伝承されていますが、彼が「金髪」であったなら、それを知らない日本国内の先住民には「白髪」に見え、そこから武内宿禰の長寿伝説が生まれたとも考えられます。

 以上が、蘇我氏のルーツとされる武内宿禰のあらましです。この後、蘇我氏が勃興するワケですが、蘇我氏の最大の業績は、ナンと言っても「飛鳥京」の建設です。そして、よく知られているように、「飛鳥京」には「石造り」の遺跡が多く残されています。



石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)


 蘇我氏がローマ人、もしくはその末裔である新羅系であるとすれば、飛鳥京に「石造り」の遺跡が多く見られるのも、ローマ風の、石を使った建造物への郷愁がそうさせたのかも知れません。



新羅人の微笑 石窟庵


 蘇我氏は「仏教」を広めましたが、ワタシには権力を掌握するための「道具」として使ったのではないか?・・・と、思えるのです。それが後々、純粋に「仏教」の教えを広めようとする聖徳太子と、蘇我入鹿との確執の原因になったとも考えられます。

 さて、実際問題として、「飛鳥の宮」のお寺の多くは「高句麗の建築技法」にて建てられているそうです。尤も、新羅風の木造建築技法があったのかどうか定かではありません。先の「石窟庵」のように、「石造り」の技術には長けているとしても「木工技術」を持ち合せていなかったら、お隣の「高句麗」から職人を呼び寄せることでしょう。



聖徳太子はペルシャ人だった!?


妙見信仰とは

 この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かである。


 で、妙見信仰のルーツは古代バビロニアにまで遡るそうで、それがギリシャ、ローマに伝わったであろうことは想像に難くないワケです。


妙見菩薩 - Wikipedia



ギリシアから日本に来た神々

 
 蘇我氏、および新羅人が純粋なローマ人であったかは定かではありませんが、少なくとも「石窟庵」の遺跡を見る限り、「高度な石工技術」を持っていたことは疑いようも無く、そのための道具・・・物差しなどが発達していたこともまた然りです。

 ペルシャ人にしても同様の「石工技術」を持っていたのでしょうが、その先・・・つまり、現在の日本文化に対してどれだけ影響を及ぼしているかを検証してみると、「日本神話」と「ギリシャ神話」の類似性を鑑みても、ローマ系の文化の影響が非常に強いと言えます。

 その点からワタシは、蘇我氏は新羅系≒ローマ系であると考えた方が、後の「乙巳の変」からはじまり「白村の江の戦い」を挟んで「壬申の乱」に到る歴史の「流れ」が見えてくるように思えるワケです。

 蘇我氏宗家は滅ぼされ、宗家に所蔵されていた蔵書も焼却されてしまったとのことですが、もしその中に「ギリシャ神話」に関する蔵書が含まれていたなら、それを「原書」として後日、天武天皇と藤原不比等らによって「日本神話」としてデフォルメされ、同時に「日本書紀」が編纂されたとも考えられるワケですよ。

 もしかしたら「原書」は、いまも何処かに保管されているのかもしれませんなw。宮内庁の書庫の奥深くとか・・・。

 ところで「新羅」といえば、埼玉県の旧新座群一帯と東京都の清瀬市も一部含まれますが、このあたりは「新羅」からの渡来民が住みついた土地で、「新座」の旧地名は「新羅座」といい、もうね?読んで字の如し。「高句麗」にしても、埼玉県の高麗川周辺が高句麗渡来民の本拠地であり、多摩地区と古代朝鮮半島との繋がりも深いワケですよ。

 そうした現状を踏まえると、現在の歴史研究は「百済」と皇室との関係に比重が置かれているようにも見え、もっとバランスの取れた朝鮮半島との歴史的関係の見直しが必要だと思うワケです。

 それも、朝鮮半島と皇室の関係性ばかりでなく、日本全体を視野に入れた民族の交流を検証することで、本当の日本史が浮かび上がってくるのだと思う次第です。はい。





人間ナメんなよ!


でわっ!