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2013年11月8日金曜日

日本合衆国の夜明け 2

  
日本人~はるかな旅 黒潮の民 【1/5】




日本人~はるかな旅 黒潮の民 【2/5】




日本人~はるかな旅 黒潮の民 【3/5】




日本人~はるかな旅 黒潮の民 【4/5】




日本人~はるかな旅 黒潮の民 【5/5】




 最近、「猫侍」ってドラマが気になっているワケですが、チョッと・・・その・・・下らない理由でお恥ずかしいのですが、主役?の斑目久太郎を演じている北村一輝さんの顔が、


大魔神に似ている!


・・・と、思うワケですよ。特に、「しかめっ面」が。




斑目久太郎


大魔神

 
 ソコが気になって、ついつい観てしまうワケですが、勿論ドラマ自体も演出、脚本共に作り込まれていると思います(素人目にですが・・・)。

 逆にドラマの出来が良すぎて、劇場版にする意味があるのか?・・・とも思えてしまうワケですが、ま、イロイロあるんでしょうから、ソレはアレとして、「猫侍」を観ている人の感想としては、


猫(玉之丞)に癒されるw!


・・・という意見が大半を占めています。

 昔から動物を脇役・・・もしかしたら主役?にしたTVドラマはありましたが、


わんぱくフリッパー


・・・あたりが、そのハシリではなかったか?と。

 その他にも「名犬ラッシー」なんつーのもありましたが、これらアメリカのTVドラマに遅れること幾星霜、日本で最初のアニマルドラマ?と呼べるのは何だろうとツラツラ想い起こしてみるに、おそらく・・・


刑事犬カール


・・・が、本格的な日本最初のアニマルドラマ?ではなかったかと記憶しています。

 で、犬好き、猫好きに限らず、ペットを飼育する人が一様に口にするのは、


「癒される」


・・・という言葉です。

 別にペットが肩を揉んでくれるワケでもない(猿ならあるか?)ので、この「癒される」とは、


「心(精神)が癒される」


・・・で、あると理解することにして話を進めますが、ではなぜ?「心が癒される」のかという点について考えてみるに、前回の話に繋がるのですが、


人間以外は、「根本」を踏み外さずに生きている。


・・・ということであり、動物の持つ「根本」に、人間本来の「根本」が共鳴して「癒される」・・・のではないか?というのが、ワタシの推論です。

 「イルカ・セラピー」だの、「ホース・セラピー」だの、動物と触れ合うことを治療法とし、また、ある程度効果が得られている理由は、先の「根本の共鳴」という観点からすれば、説明することも可能です。

 逆に、人間に飼われている犬や猫はノイローゼになってしまうワケで、ま、それだけ「根本」は生物全般・・・特に「脳」が発達した生物にとっては、重要なのだと言えるのでしょう。



【てくてくJAPAN】 競艇場に大魔神が出現
2008年08月21日


 昭和の特撮映画の名作「大魔神」シリーズに登場するキャラクターの像2体が、江戸川競艇場(東京都江戸川区)の出入り口に“降臨”し、来場者を驚かせている。

 映画シリーズは3作あり、いずれも1966年に制作。戦国時代を舞台に、柔和な表情を浮かべた武神の埴輪像が支配者に理不尽な扱いを受けた民衆の怒りを代弁、憤怒の形相の大きな大魔神の姿に変身する場面が見どころだった。

 競艇場の向かって左側に褐色の大魔神、右側に変身前の白っぽい武神が立って見下ろす。著作権を所有する角川映画の許可を得た競艇場が今年5月、映画の設定と同じ高さの像を再現、台座を含めると5・7メートルにも達する。大魔神の怒りの表情は迫力十分。足を止め、携帯電話で記念撮影する年配客の姿もみられるという。

 施設内には、昔ながらの丸形の郵便ポストがあったり、往年の名作映画の看板が飾られたりと昭和レトロの雰囲気が漂う。大魔神もそうした演出の一環で、担当者は「競艇に興味がない若者や家族連れにも楽しんでほしい」と話している。

江戸川競艇場の問い合わせは電話03(5658)1717


で、何ゆえ競艇場に大魔神なんスか?


(つづく)








人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年11月7日木曜日

日本合衆国の夜明け

  
日本人~はるかな旅 マンモスハンター 【1/5】




日本人~はるかな旅 マンモスハンター 【2/5】




日本人~はるかな旅 マンモスハンター 【3/5】




日本人~はるかな旅 マンモスハンター 【4/5】




日本人~はるかな旅 マンモスハンター 【5/5】



 ワタシたちの祖先は、はるかな昔にこの地・・・日本に住むことを「好し」とし、変化に富む豊かな自然の恵みと、時には災害をもたらす地震、火山、台風、津波などの地理的条件を秤に掛け、


住むに値する


・・・と判断し、この地(日本)に定住を始めたワケです。

 生活に必要な一切の物資を無償で与えてくれる、山海の自然を愛しみ、敬い、恐れ、「アニミズム(自然崇拝)」が芽生えるのは、洋の東西を問わず、古代人の「無垢な心」の表れと言えます。

 「生きる」ことへの渇望・・・そして、「生きられる」ことの喜びは、人間の根本的な生理的欲求であり、先日お亡くなりになった「やなせたかし氏」の言うところの「絶対善」・・・


飢えている人と食べ物を分け合う


・・・とは、言葉を換えれば


根本善


・・・と言うこともできます。

 現代社会はこの「根本」を見失い、「人間が人間であること」を蔑ろにし、「便利さ」だとか「豊かさ」だとかに、心が囚われているのではないか?

 「便利さ」や「豊かさ」は、人間が生きる上での「方法」、「道具」であり、主体である「人間」を差し置いて「道具」が幅を利かせているが故に、社会全般にわたる「真の繁栄」が実現できないのではないか?・・・とも思うワケです。そこで・・・


人間回帰


・・・を提案しているワケであり、「人間回帰」に至るプロセスとして、


個人革命


・・・は、必然的なプロセスになるであろう・・・とも考えているワケです。

 で、ワタシにこのことに気付かせてくれたのが、


バカの壁


・・・で、あったというワケで、ワタシの一連の書き込みは、「バカの壁」を表現を変えてなぞっているに過ぎないのですw。

(つづく)







人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年10月6日日曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ 6

  
 寄り道をしていて中々先に進みませんが、前回は、秦氏は「ミトラス教」を信仰していたようだ・・・と、いうところで終わりました。その裏付けとして、秦酒公が建立した「大酒神社」の「牛祭り」と、秦河勝が建立した「広隆寺」の当初の本尊は、「弥勒(マイトレーヤ=ミトラ)菩薩像」であったことを根拠として示したワケです。

 秦氏に関しては不明な点がまだまだありますが、話のスジを再度整理すると、織田信長公暗殺(謀殺)に千利休が係わっていたのではないか?・・・という疑念を抱いたことから始まりました。

 それは、「本能寺の変」の当日、本能寺では信長公主催の「茶会」が催され、信長公の「自慢のコレクション」が披露されたのですが、信長公の遺体同様、これらの茶道具も、忽然と姿を消してしまっているからです。

 これらの茶道具のなかには、信長公が、半ば強引に堺の商人から譲り受けた一品もあったと思われ、堺商人・・・即ち、「同朋衆」から信長公が反感を買っていた可能性は否めないワケです。

 尚且つ、何処まで本気だったのかは計りかねますが、信長公は大陸・・・当時の「明」を征服し、日本の「天皇」を玉座につけると語っていたそうで、思うにその「本意」は、「明」との貿易を牛耳っていた「同朋衆」の排除にあったのではないか?・・・と。

 そうなると、「同朋衆」が信長公に危機感(殺意)を抱くのは当然なワケで、つまり、信長公を「暗殺」する「動機」は十分にあったと考えられますし、そこで「同朋衆」である、千利休にも繋がるワケです。

 太閤秀吉による「朝鮮出兵」は、信長公の「グランドデザイン」の延長線上にあったと考えられ、「明」までは一気に攻略できなくとも、そのための前線基地として、朝鮮半島を支配下に置く・・・という目的くらいはあったのではないか?

 そしてそれは、秀吉公の治世となっても、依然、堺の「同朋衆」が貿易の実権を握っていたことの表われではないのか?・・・と。

 更に千利休が、秀吉公に突然「切腹」を言い渡されたのも、千利休(同朋衆)が信長公謀殺に深く関与していたことを秀吉公が知り、その責任を取らせたと考えれば、信長公に心酔していた秀吉公の心情を鑑みれば、理路整然と説明がつくワケです。勿論、ワタシの頭の中でだけですが・・・。

 実は、徳川家康公の先祖も「同朋衆」の出自であるらしいのですが、家康公に関してはまた別な機会にします。

 で、そうなると、「同朋衆」とは如何なる者たちであるのか?・・・ということを検証する必要があり、「同朋衆」=「阿弥衆」の信仰する宗教筋からその実態に迫ろうというのが趣旨であり、その目的で仏教の日本伝来にまで遡っているワケですが、その当時・・・奈良、飛鳥時代に仏教の拡散に係わった豪族として、「秦氏」が浮上してくるワケです。そこで、


「秦氏」とは何者なのか?


・・・となるワケですが、どうやら「ミトラス教」を信仰していたようだ・・・というトコロまでで前回は終わりました。

 で、今回から更に検証を進めるワケですが、その前に少し目先を変え、時代が下り平安時代になるのですが、「陰陽道」の話を少しします。


陰陽道


 ざっくり解説すると、「木」、「火」、「土」、「金」、「水」という5元素と、陽(プラス)と陰(マイナス)という2極の相互作用によって、森羅万象は構成されているという考え方で、古代ギリシャの哲学や、「ヘルメス錬金術」にも通じるものがあります。


錬金術


 で、「陰陽道」と「錬金術」に共通するシンボルが、「五芒星(ペンタクル)」です。


Pentacle(五芒星形)


ピタゴラス教団のシンボルマークでもある

錬金術の魔術師は、小宇宙である人間の模型として五芒星形を用いた。男性の像は宇宙を表す円の内部に置かれた。手と足と頭は、描かれた五芒星形の示す各先端で円と接し、生殖器はまさに円の中央に位置した[7]。このイメージは、人間は「5つの星」に支配される小宇宙であるというフィルミクス・マテルヌスの見解に関連があった[8]。


 「五芒星」の起源は古代バビロニアにあり、シュメール文明では「五芒星」を、「UBU(ウブ)」と呼んでいたそうです。

 そうすると「陰陽道」は、古代バビロニアから受け継がれてきた系統だともいえるワケで、かの「安倍晴明」も、そうした流れの末裔ということになります。


安倍晴明


 この、安倍晴明と対立(ライバル)関係にあったのが蘆屋道満であり、してみると道満は、バビロニア系ではない別系統の「陰陽師」だったのかも知れません。


蘆屋道満


Cult Web 歴史に残る陰陽師 


■蘆屋道満(あしやどうまん生没年不詳)

蘆屋道満は朝廷に勤務する陰陽師ではなく、庶民、もしくは貴族などに雇われて活動する播磨流の民間系陰陽師。安倍晴明のライバルとして多くの伝説が残され、「式神対決」などが有名である。また、安倍晴明の霊符セーマン(五芒星)に対し、道満は九字と格子で構成されるドーマンを霊符として使用したことで知られている。

ライバルとされた理由は、晴明が当時の関白・藤原道長と懇意であったのに対し、道満は道長の政敵と言われる藤原顕光に用いられることが多かったためである。顕光に呪詛を依頼された道満は晴明に見破られたために播磨に流され、死亡したとする。しかしその後も道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだとされる(室町時代の播磨地誌「峰相記(ほうしょうき)」。

また、歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる悪役として道満は描かれることが多い。しかし、晴明は道満の「九字」をも自己の呪術に活用しており、両者はライバルというよりも、共に神秘なる叡智を切磋する間柄だったと考えることもできる。

ここで道満の素性・正体について、秘史史観からの解釈も加えておきたい。蘆屋道満の蘆屋は、兵庫県の芦屋のことであり、当時この地帯は多数の民間陰陽師の拠点であった。道満の本名は謎とされているが、一説には「秦道満」とする説がある。もしこの説が正しければ、秦氏=賀茂氏=安倍晴明という関連から、道満と晴明は、同じ秘教を継ぐ同志ということになる。つまりセーマン・ドーマンは陰陽の関係を構成する対なる思想・術であるとも考えられる。

道満が活用した九字と格子のドーマンは、最後に十字を切って祈ることで効果をあげる、という俗説も流布している。陰陽師が十字を切るとき、それは九字にひとつ加えた十字(つまり九字が表ドーマンで十字が裏ドーマン。これも陰陽関係)であり、キリスト教徒の十字架と同じ象徴を指すことになる。このことからも、陰陽道とカバラは無関係ではないという説もある

真相は定かではないが、道満が民間ながらも卓越した陰陽師であったことは、晴明伝説同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっていることから推察できる。「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く日本各地に残されている。


 陰陽道の術式はアレとして、「セーマン」と「ドーマン」が表裏をなすという見解には、多少無理があるように思えます。陰陽道の「肝」は「陰(マイナス)」と「陽(プラス)」の2極にあり、陰陽の「器」の中での「5元素」の相互作用というのが「清明流」・・・もしくは「バビロニア陰陽道」であるとすれば、「ドーマン」の「九字法」は別なイデオロギー、思想に.基づくと考えられるからです。

 で、道満が「秦氏」の血族であるとするならば、秦氏一族が「バビロニア系」ではないということにもなり、バビロニア系=広義のアラブ(ユダヤを含む)ではないとすると、「新撰姓氏録」に記された記述、「弓月君(融通王)」の故郷であるとされる、「大月氏国(アーリア系)」の出自であることが反証されることにもなります。

 で、ワタシ、「ドーマン」=「九字結界」を見て、何処かで見たような?・・・と。




九州大宰府


「ドーマン」は、「京(みやこ)」の形なのでは?


・・・というのが、ワタシの思い付きであり、そして、


条坊制


・・・という、「儒教」の教義を知りました。

 そうなると秦氏・・・少なくとも「道満」には「儒教」の知識があり、そうした知識を自分の「陰陽道」の中に取り入れていた・・・と、いうことになるんですかね?

 「ミトラス教」と孔子の「儒教」が、どうしたら融合するのか想像もつきませんが、「儒教」は学問の一種であり、「ミトラス教」の信仰に支障を来すことは無いのかも知れません。

 とにかく、厩戸皇子と秦河勝は、蘇我馬子の物部氏討伐に加勢し、物部氏宗家(物部守屋)を討ち滅ぼし、仏教(ミトラス教?)による「国体」造りへの下地を馴らしていくワケです。

 そして、秦氏が雑多な渡来人(帰化人)たちの「まとめ役」のような立ち場であったことを踏まえると、秦氏が監督する帰化人たちをひっくるめて「秦氏」と呼んでいた可能性も高く、「秦氏」を単一の民族、血族と思い込んでしまうと、歴史を見誤るかも知れません。

 つまり、「蘆屋道満」が「秦道満」だったとしても、「弓月君(融通王)」に繋がるとは限らないということで、秦氏の配下?の帰化人の中の一人でしかなかった・・・とも考えられます。

 でないと同じ「秦氏」でありながら、「安倍晴明」と「蘆屋道満」が対立する根拠が見えません。

 ま、ソレはさて措き、秦氏から「能」などの「芸能」に携わる一派が派生しているのも、また、殖産・土木技術に長けているのも、先に述べたように、


「秦氏」とは渡来人の集団全体を指す


・・・と、考えれば、「秦氏」のスーパーマルチな活躍も納得できます。


「秦氏考」より


 まだまだ「本能寺の変」までは先が長いワケですが、実はつい先日、信長公の遺体は既に発見され、荼毘に付されていた・・・ということを動画で知り、


マジですか?


・・・と。




 そうなると、「首塚」だとか、「デスマスク」だとか、その信憑性が大いに揺らぎますなw。ま、「デスマスク」に関しては、肖像画とも木像とも似ていないのでアレですが・・・。


信長公デスマスク?(タラコくちびる)


信長公木像(おちょぼ口)


 ちなみに明治2年に、明治天皇により信長公を祀る神社・・・「建勲神社」が建立されているのですが、明治天皇はどうして信長公を顕彰する気になったんですかね?ま、この件もおいおい・・・。


建勲神社HP








人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年9月24日火曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ 5

  
 仏教伝来の黎明期を調べているうちにひとつ分かったことは、「秦氏」はユダヤ系ではなさそうだということです。他にも、「徐福」の子孫だという説や、景教(キリスト教ネストリウス派)を日本に持ち込んだという説がありますが、秦氏の素性は、建立した神社、寺院から伺えます。結論から先に言うと、


秦氏はミトラ教を信仰していた


・・・と、いうことです。

 秦氏の始祖、「弓月王」の孫に当たる「秦酒公」の代に、朝廷(第21代雄略天皇)から「太秦」の姓を賜り、「大酒神社」を建立しますが、この神社に残る「奇祭」こそ、秦氏が「ミトラ教」を信仰していたことを伺わせます。


広隆寺

牛祭

牛祭(都年中行事画帖 1928年)太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。仮面を着けた「摩吒羅(またら/まだら)神」(摩多羅神)が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明を持ってそれに従って四周を巡行し、薬師堂前で祭文を独特の調子で読んで参拝者がこれに悪口雑言を浴びせる。祭文を読み終わると摩吒羅神と四天王は堂内に駆け込む。


大酒神社 牛祭図


牡牛を屠るミトラス


大酒神社社伝によれば、平安時代、比叡山の恵信僧都(源信)が極楽浄土の阿弥陀如来を拝する願いを持っていたところ、広隆寺絵堂(講堂)のご本尊を拝めばよいと夢のお告げがあり、恵心は大いに喜んで三尊像を手彫りして念仏会を修た。そして常行念佛堂を建立し、念仏守護の神、摩吒羅神を勧請して祈祷したのが始まりとされている。かつては毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっている。


 ウィキペディアによれば、大酒神社はもともと広隆寺(別称:蜂岡寺)の境内にあったそうですが、建立時期は広隆寺よりも先であり、後年、秦河勝が、大酒神社を取り込む形で広隆寺を建立したのでしょう。

 で、大酒神社の「牛祭」に登場する「摩吒羅神(またら神)」が、ミトラ教におけるミトラであることは、広隆寺の創建当初の本尊が「弥勒菩薩(マイトレーヤ)」であることからも、ほぼ確実と思われます。

 秦氏を景教徒と観る人たちは、聖徳太子=厩戸皇子が、イエス・キリストに因んで付けられた名前であり、従って秦氏をネストリウス派キリスト教徒(景教徒)であると捉えているようですが、キリスト教には、ミトラ教から引用された部分も多分に含まれています。

 尚且つ、唐に景教が伝来した時期と「厩戸皇子」が政務についていた時期とでは、景教伝来のほうが30年以上後の時代になり、「厩戸皇子」は後年(死後)命名されたとも考えられます。

 従って、「厩戸皇子」が実在したとするならば、生前は、「厩戸(うまやど)」ではなく、「磐戸(いわやど)」であったと考えれば、ミトラは岩(磐)から生まれたとするミトラ教にも合致し、秦氏の存在がそれを裏付ける証拠にもなるワケです。

 
ミトラ教


 で、先の結論、「秦氏はミトラ教を信仰していた」・・・に戻るワケですが、「弥勒菩薩信仰」に姿を変え、巧妙に「仏教」として日本に広めようとしたのではないか?・・・という推測も成り立つワケです。

 秦氏が「ミトラ教」を信仰していたとすると、秦氏=古代ユダヤ人とは考え難く、どちらかと言えばペルシャ系の渡来民であった可能性が高く、「祇園祭」の山鉾に飾られるペルシャ絨毯にその痕跡が残されているとも言えます。

 最後に、秦氏は百済から渡来して来たとされていますが、朝鮮半島でペルシャというか、地中海文明の影響がより色濃く残っているのは新羅の方であり、秦氏は新羅もしくは大陸から渡来した可能性が高いように思われます。


「梁書」 新羅伝

新羅者、其先本辰韓種也。

辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。

其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。

相呼皆為徒、不與馬韓同。



新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。

辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。

伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。

その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。

皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。



「梁書」 新羅伝

其俗呼城曰健牟羅、其邑在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中國之言郡縣也。

國有六啄評、五十二邑勒。

土地肥美、宜植五穀。多桑麻、作縑布。

服牛乘馬。

男女有別。

其官名、有子賁旱支、齊旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。

其冠曰遺子禮、襦曰尉解、○曰柯半、靴曰洗。

其拜及行與高驪相類。

無文字、刻木為信。

語言待百濟而後通焉。



そこの習俗では、城を健牟羅、村落を有する城を啄評、村落を持たない城を邑勒と呼ぶ。

中国で言うところの郡県である。

国内には六啄評、五十二邑勒がある。

土地は肥沃で五穀の栽培に適している。

多くの桑や麻が採れ、短い衣服を作る。

官名には、子賁旱支、斉旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支がある。

そこの冠は遺子礼と言い、襦は尉解と言う。

儀礼や行為は高麗に類している。

文字なし、木に刻みを入れて通信に使う。

言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり。


 なかなか織田信長の死に辿り着けませんが、気になっている「同朋衆」=「阿弥衆」≒「白足袋族」のルーツを解明するには、「仏教」の政治的な役割を見過ごすワケにはいかないので、クライマックスはもう少し先の話になります。はい。





人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年9月22日日曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ 4

  
 前回は、仏教派の蘇我氏が物部氏を排除し、第32代崇峻天皇を推し立てることで、仏教による国体づくりの基盤を固めたトコロまででしたが、崇峻天皇を推し立てておきながら馬子は、言い掛かりをつけて崇峻天皇を暗殺してしまいます(と、いうことになっています)。

 しかし、歴史に残る一大事・・・天皇暗殺・・・でありながら、朝廷内の混乱に関する記述が見られないのは奇妙であり、その理由として考えられるのは、蘇我氏の威光が既に天皇を凌駕するほどであったか、崇峻天皇自身が欽明天皇の第12皇子という、皇位継承の正当性が低く見られた存在であったか?・・・ということです。

 で、事情はよく分かりませんが、亡き敏達天皇の皇后である額田部皇女が第33代推古天皇として即位し、厩戸皇子を摂政に置き、また遣隋使の派遣によって、朝鮮半島経由の文化交流から、「大陸」との直接的な文化交流へと時代は変わります。

 仏教にしても、百済仏教から中華仏教への方向転換を意味し、従来からの百済僧と、中華仏教を学んだ留学僧たちとの間に齟齬も生じたであろうことは十分に考えられます。

 そこで思い出したのが、「古事記(712年)」の研究者による、「古事記」の書き手は前半と後半で違うという報告です。曰く、後半の書き手の方がより漢文に対して「ネイティブ」であり、このことは、前半は百済人もしくは漢文を学習した者の手によるものであり、後半は中国人の手によるものであろう・・・と、いうものです。

 ま、ワタシ自身まだ整理できていないので、今回は資料として年表を提示します。 



★北魏、南宋、「祆教(ゾロアスター教)」伝来(400年頃)

★北魏、太平真君の廃仏(446年)・・・「道教」に帰依

●百済仏教,、日本に伝来(538年)

第30代敏達天皇(?年)

第31代用明天皇(?年)

第32代崇峻天皇(?年)

★北周、建徳の廃仏(574年)・・・儒教に帰依(仏教、道教を禁止)

★隋、中原を統一(581年)

●崇峻天皇暗殺?(592年)・・・蘇我馬子

第33代推古天皇(593年)*女帝(敏達天皇皇后)

●第1回遣隋使派遣(600年)・・・倭王:多利思比孤

●「十七条の憲法」(604年)

★唐、中原を統一(618年)

●「広隆寺」建立(622年)・・・「弥勒菩薩信仰(ミトラス教)」

第34代舒明天皇(629年)

●第1回遣唐使派遣(630年)

★唐、「景教(ネストリウス派キリスト教)」伝来(635年)

第35代皇極天皇(642年)*女帝

●乙巳の変(645年)・・・譲位

第36代孝徳天皇(645年)・・・朝貢

第37代斉明天皇(655年)*重祚・・・皇極天皇

●白村江の戦い(663年)

第38代天智天皇(668年)

第39代弘文天皇(672年)

●壬申の乱(672年)

第40代天武天皇(673年)

第41代持統天皇(690年)*女帝(天武天皇皇后)

★唐、「明教(マニ教)」伝来(694年)

●「大宝律令(701年)」




「新唐書」 日本伝


永徽初、其王孝德即位、改元曰白雉、獻虎魄大如斗、碼瑙若五升器。

時新羅為高麗、百濟所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅。

未幾孝德死、其子天豐財立。

死、子天智立。


永徽初(650年)、その王の孝德(第36代孝徳天皇)が即位、改元して白雉という。

一斗升(ます)のような大きさの琥珀(こはく)、五升升のような瑪瑙(めのう)を献上した。

時に新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。

幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財(第37代斉明天皇)が立った。

死に、子の天智(第38代天智天皇)が立った。



明年(651年)、使者與蝦蛦 人偕朝。

蝦蛦亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十歩、射無不中。

天智死、子天武立。

死、子總持立。



翌年、使者が蝦夷人とともに来朝。

蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。

天智が死に、子の天武(第40代天武天皇)が立った。

死に、子の総持(第41代持統天皇)が立った。






「新唐書」 日本伝


長安元年(701年)、其王文武立、改元曰太寶。

遣朝臣真人粟田貢方物。

朝臣真人者、猶唐尚書也。冠進德冠、頂有華蘤四披、紫袍帛帶。真人好學、能屬文、進止有容。

武后宴之麟德殿、授司膳卿、還之。

文武死、子阿用立。

死、子聖武立、改元曰白龜。



長安元年(701年)、その王の文武(第42代文武天皇)が立ち、改元して太宝という。

朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。

朝臣の真人は唐の尚書のようである。

進德冠を冠り、頂に華蘤四披があり、紫の袍に白絹の帯。

真人はよく学び、巧みに文章を書き、動作に偉容があった。

武后は麟德殿での宴席で、授司膳卿を授けて、かれを還した。

文武が死に、子の阿用(第43代元明天皇)が立った。

死に、子の聖武(第45代聖武天皇)が立ち、改元して白亀という。



第40代天武天皇(673年)

第41代持統天皇(690年)*女帝

第42代文武天皇(697年)

第43代元明天皇(707年)

第44代元正天皇(715年)*?

第45代聖武天皇(724年)

第46代孝謙天皇(749年)

第47代淳仁天皇(758年)

第48代称徳天皇(764年)・・・孝謙天皇*重祚

第49代光仁天皇(770年)



「新唐書」 日本伝


貞元末(805年)、其王曰桓武、遣使者朝。

其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業、歴二十餘年、使者高階真人來請免勢等倶還、詔可。

次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。

仁明直開成四年、復入貢。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啟元年。



貞元末(805年)、その王は桓武(第50代桓武天皇)といい、遣使が来朝。

その学子の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以て勅許す。

次に諾楽(第51代平城天皇)が立ち、次は嵯峨(第52代嵯峨天皇)、次は浮和(第53代淳和天皇)、次は仁明(第54代仁明天皇)。仁明は開成四年(839年)にあたり、再び入朝して貢献。

次は文德(第55代文徳天皇)、次は清和(第56代清和天皇)、次は陽成(第57代陽成天皇)。次は光孝(第58代光孝天皇)、光啟元年にあたる。



第50代桓武天皇(781年)

第51代平城天皇(806年)

第52代嵯峨天皇(809年)

第53代淳和天皇(823年)

第54代仁明天皇(833年)

★唐、会昌の廃仏(845年)・・・唐代三夷教(明教・祆教・景教)の排斥

第55代文徳天皇(850年)

第56代清和天皇(858年)

第57代陽成天皇(876年)

第58代光孝天皇(884年)

第59代宇多天皇(887年)

●遣唐使の廃止(894年)・・・菅原道真、筑紫へ左遷

●譲位

第60代醍醐天皇(897年)




 織田信長が本能寺で討たれる1582年は、あと6世紀ほど後の話になるワケですが、「歴史の渦」が1582年6月21日(天正10年6月2日)に向かってどう収斂して行くのか、ボチボチ検証してみたいと思います。ちなみに、


バタフライエフェクト


・・・は予測不可能とされていますが、それはカオス系においては、「因」から「果」の予測は不可能であるというだけで、カオス系であろうと何であろうと、「果」から「因」に辿り着くことは、例え「因」が複雑であったとしても可能なワケです。

 このことは、カオス系を・・・「ひとつのモデル」・・・としてなら捉えられることを意味し・・・ま、アレです、話が逸れるのでまた別な機会にします。






人間ナメんなよ!


でわっ!
  

2013年9月20日金曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ 3

  
 前回、「同朋衆」=「阿弥衆(時衆)」について、「オリジナルの仏教徒」という表現をしましたが、日本に仏教が伝来した当初の史実をググっていたら、スゴイことを発見・・・と、いうか、知りました。それは・・・


日本には三蔵法師の愛弟子がいた!


・・・と、いうことで、ここベトナムでも中国のTVドラマ、「西遊記」が大人気で、ウチの嫁も「シーフー、シーフー」と、イイ年して喜んで観ているのですが、つーことはアレですな・・・


日本にも、師父の弟子がいたんだゼぇw。


・・・と、自慢できますなw。

 「役行者」だの、「最澄」だの、「空海」だのより、


こっちのほうがスゴくね?


・・・と、思ったりもするワケですが。



玄奘三蔵

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧である。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。尊称は三蔵法師。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。

629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像等を持って帰還。大唐西域記はその時の旅行記である。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。

なお、『西遊記』の映像化・舞台化の際には演出上の観点から三蔵法師役に女性があてられることも多いため女性と誤解されることがあるが玄奘三蔵は男性である。



道昭

道昭(どうしょう、道紹や道照とも、舒明天皇元年(629年)- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日)は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。

略歴[編集]
白雉4年(653年)、遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。摂論教学を学んだという記録もあるが、摂大乗論に関する注釈は現存していない。

年時不明、玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅した。

斉明天皇6年(660年)頃に帰朝、同時に持ち帰った多くの経論・経典類は、平城京へ遷都後、平城右京の禅院に移され重用された。

年時不明、飛鳥寺(別称は法興寺、元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。

680年、天武天皇の勅命を受けて、往生院を建立する。

晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。

700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付された。その記録も現存している(『続日本紀』)。



法相宗

教義[編集]
法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。

さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。

は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識)


 日本への仏教伝来は6世紀中頃(飛鳥時代)に百済から持ち込まれた仏具、仏典に始まり、第29代欽明天皇は仏教を受け入れるか否かを臣下に問うのですが、このとき賛成したのが蘇我稲目であり、反対したのが物部尾輿であったとされています。

 蘇我稲目が試験的に仏教を導入することになったのですが、その後イロイロあって仏教の布教は頓挫し、稲目の息子、馬子の代になって、再度百済からの渡来人鹿深臣(こうかの臣)から弥勒菩薩の石像を譲り受け、渡来高麗人恵便を教師?として雇い再挑戦します。

 しかし、当時流行していた疫病が仏教のせいにされ、第30代敏達天皇は物部尾輿の息子、守屋の進言を聞き入れ「仏教禁止令」を出し、これによって多くの寺院が焼き討ちに合うのですが、疫病の流行は一向に収まらず、心変わりした敏達天皇は馬子に仏教信仰の許しを与えます。

 第31代用明天皇が在位期間わずか2年で夭折し、次代天皇を誰にするかで馬子と守屋は対立するのですが、馬子は守屋の推す穴穂部皇子(欽明天皇第3皇子)を、無礼な振る舞いを理由に処断し、馬子の推す泊瀬部皇子(欽明天皇第12皇子)を第32代崇峻天皇の位に就けます。




 この対立が引き金となった「丁未の変(587年)」により、物部氏は蘇我氏勢(廐戸皇子、秦河勝など)に滅ぼされ、実権を握った蘇我氏は仏教の普及の手始めとして、588年に法興寺(飛鳥寺)の建築に着手します。同時期(581年 - 618年)、大陸では「隋」が中原の統一を果たしています。

 さて、この後「遣隋使(600年 - 618年)」が派遣されるようになり、仏教の本格的な伝来が始まるのですが、その一端が「隋書」に曰く、


開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。

上令所司訪其風俗。

使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。

高祖曰「此太無義理」。

於是訓令改之。


開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。

上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。

使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。

高祖が曰く、「これはとても道理ではない」。

ここに於いて訓令でこれを改めさせる。



大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。

使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」

其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。

帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」



大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。

使者が曰く、「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。

その国書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。

帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿が曰く、「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。


 
明年(608年)、上遣文林郎裴清使於倭國。

度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。

又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。

其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。

又經十餘國、達於海岸。

自竹斯國以東、皆附庸於倭。


翌年(608年)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。

百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。

また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。

そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。

疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。

竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。



倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。

後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。

既至彼都、其王與清相見、大悅、

曰「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」

清答曰「皇帝德並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」

既而引清就館。

其後清遣人謂其王曰「朝命既達、請即戒塗。」

於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。


倭王は小德の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。

十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。

既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、

曰く、「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。

裴世清が答えて曰く、「皇帝の德は併せて二儀、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。

既に裴世清は引き上げて館に就く。

その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く、「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。

ここ於いて宴を設け、裴世清を遣わして享受させ、再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。

この後、遂に途絶えた。


 今回は、余談が過すぎましたが、歴史は「因果の連続」であり、やがて「織田信長暗殺」へと怒涛の如く収斂してゆく・・・かも?ま、そもそもワタシ、こうした歴史ネタが好きなんです。時事ネタにも首をツっ込みますが、表面的な出来事の裏には必ず因果関係が存在し、歴史を知ることで現代の「本質?」が見えてきますよ・・・と、。


>>つづく・・・。




人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年9月17日火曜日

織田信長の死にまつわるアレコレ 2

  
 久しぶりに、織田信長の死にまつわるアレコレについて書きます。と、いうのも最近、「千利休」が信長殺害に深く関わっているのではないか?という疑惑がワタシの中にムクムク湧いてきたからで、この件を追求していくと、所謂「白足袋族」と呼ばれる、京都の裏の支配層として君臨する一団にも辿り付くのではないか?・・・と。

 千利休といえば茶道の開祖のように思われていますが、そもそも茶道とは何かを、歴史的経緯から検証してみます。

 茶を嗜む=喫茶の始まりは、中国の伝説上の聖人(三皇五帝)のひとり、神農大帝に遡ります。神農大帝は皮膚が透明で内臓が透けて見え、あらゆる毒物を摂取して影響が現れる臓器を特定することができたと伝えられ、それに応じて解毒薬草を発見したところから、医学の神様として拝められています。

 そうした薬草の一つとして「茶」があることが「神農本草経」に認められており、本来は薬もしくは滋養強壮剤として認識されていたようで、唐の時代になって広く一般大衆にも飲まれるようになり、遣唐使の多くが唐から茶を持ち帰りました。最澄、空海もそのひとりです。

 茶道(茶の湯)の原型?とされるのは、鎌倉時代の僧、栄西(臨済宗開祖)が宋より伝えた「抹茶法」であるとされています。ただし、「抹茶法」にしても医療用途の域は出ていないようで、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の二日酔いの解消のために茶を進め、ついでに「喫茶養生記」なる書物を献上したとあります。

 また、鎌倉時代には禅宗も興りましたが、茶は座禅中の眠気覚ましの飲み物とされ、禅僧に愛飲されたことが禅と茶道の繋がりであるというのも興味深い事実です。つまり、「茶道の精神性が云々」などというのは後から取って付けた屁理屈であり、いまでいえば受験生が眠気覚ましに飲むコーヒーとさして違いはありません。

 ちなみに、栄西が創建した鎌倉の建仁寺では、毎年4月20日に栄西の誕生を祝する法要で、「四頭(よつがしら)茶会」と呼ばれる茶会が開かれるそうです。こうした茶会の儀式(喫茶儀礼)を、臨済宗では茶礼といい、曹洞宗では行茶というそうです。

 鎌倉幕府が倒され室町時代に移行すると、「闘茶」という遊びが流行します。これは京都・栂尾(とがのお)産の茶を「本」とし、それ以外の産地の茶を「非」として飲み比べをするもので、この遊びから現代にも繋がる「茶道」が始まったとされ、金閣寺、銀閣寺なども、こうした茶会のための「茶亭」であったと考えられます。「闘茶」は今日まで伝えられ、千家七事式のひとつに数えられています。

 「茶」の話はこれくらいにしてしておくことにして、当時、室町時代の足利幕府は「同朋衆」という存在を抱えていました。「同朋衆」とは将軍、大名の侍従で、殿中の雑役や諸芸に従事した者で、「阿弥」という「時宗」の信徒に許された号を用い、猿楽担当の音阿弥、造園担当の善阿弥、外来文化担当の能阿弥芸阿弥相阿弥、香・茶担当の千阿弥、生け花担当の立阿弥がいました。

 千利休の生家は堺の魚屋であるとされていますが、その先祖・・・曾お爺ちゃんの代は足利幕府に使えた「同朋衆」であり、単なる「魚屋のせがれ」ではないということです。それを如実に示しているのが「千阿弥」から取った「千」の一字であり、本人も「同朋衆」の血筋であることを自覚していたのでしょう。

 足利幕府がなぜ「同朋衆(時宗信徒)」を重用したのか明らかではありませんが、ただし、「時宗」と呼ばれるようになったのは江戸時代からと最近?のことであり、彼らの信仰形態は古くから・・・つまり、仏教が伝来した飛鳥・奈良時代から変わらないもので、オリジナル?仏教信徒とも呼べる存在であったようです。

 ここで重要になるのが、足利幕府三代将軍足利義満は当時の「明」に朝貢し、「日本国王源道義」の称号を与えられ、「柵封」の中にあったということで、「同朋衆」は大陸(明)とのパイプ役を担っていたのではないか?・・・というのがワタシの推測です。

 で、足利幕府がグチャグチャになり、京の都も荒廃したので商人たちは堺に移住するのですが、そうした商人の一団の中に「同朋衆」も含まれており、千利休の生家もそのひとつであったと考えられます。

 そして、室町幕府がほぼ崩壊した中で、大陸との繋がりの深い「同朋衆」が貿易を取り仕切り、堺の町に富が集中したのも頷ける話で、そこに織田信長が、「矢銭(戦費)」を出せとカチ込むのは、ま、当然の流れとも言えます。


織田信長坐像


織田信長肖像


 上の坐像は、秀吉が信長公の葬儀を執り行う際、発見できない遺体の代わりに火葬するために彫らせた、二体の木像の片割れであり、多くの武将が参列する中で代用されたものであることから、信長公の実際の外見にほぼ近いものと考えられます。でないと、他の家臣からの非難、苦情によって、秀吉の立場が危うくなります。

 下の肖像画は教科書でお馴染み?ですが、比較してみてどうだろうか?ワタシとしては「鼻の特徴」が似ているようにも見えるのですが・・・。


>>つづく・・・



 

人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年8月31日土曜日

ここにも日本とアラブの繋がりが・・・

  
 日本刀の登場と武士の世の始まりは機を同じくし、尚且つ、日本刀はアラブ刀(ダマスカス製)を原型としている・・・即ち、武士の基盤を築いたのは、アラブ地域からの渡来民である・・・というのが、ワタシの「トンデモ史観」なワケですが、その他にも、アラブと日本の古い繋がりを示すものが


鷹狩り


・・・です。


アラブの鷹狩りも日本流


2年前、「アラブの鷹狩り(ARAB FALCONRY)」という本が英国で出版された。

Arab Falconry (Revised English Edition)
£35.00


ROGER UPTON という英人の鷹狩り研究家が、アラブ首長国連邦を中心に、アラブの鷹狩りを50年以上、現地で調査して、まとめた224頁にわたる成果だ。

(中略)

アラブの鷹狩り文化は、ユーラシアの草原の鷹狩り文化とは、一線を画していることが分かった。

ある意味、日本は、アラブ系に含まれる。

前に言ったように、中国で、現存している鷹狩りは、モンゴル・トルコ系。

インドは、ムガール帝国時代の絵画を見ると、やはりモンゴル・トルコ系を示している。

(中略)

思いっきり、仮説を立ててみよう。

左手の鷹狩り文化
エジプト―アラブ~海の道~日本、朝鮮


右手の鷹狩り文化
ユーラシア草原、ペルシャ~草原の道~中国


(以下略)


 正確には、日本の鷹狩りはアラブ流・・・と、言った方が正しいのかも・・・。


日本における鷹狩


古代

日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代には主鷹司が廃止され、蔵人所が鷹狩を管掌する。奈良時代の愛好者としては大伴家持や橘奈良麻呂が知られる。

平安時代においては、初期の桓武天皇、嵯峨天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(818年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で2番目に古い。中期以降においても、一条天皇、白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られた。

鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。


 4世紀には既に鷹狩りが行われていたそうですが、鷹狩りの証拠?と思われるのは、古墳時代に作られた埴輪に見られ、飛鳥時代以前から、アラブ系の渡来民が日本に定住していたと考えられます。


群馬県太田市オクマン山古墳(6世紀後半頃)出土埴輪鷹匠


 武士の世の基礎を築いた「平家」は、ペルシャ系ではなかったのか?・・・というTVレポートもありますが、それにしても平安時代末期(1100年頃)からの話で、「鷹狩り」が既に「古墳時代後期」≒「飛鳥時代」にはアラブから伝わっていたとすると、アラブ人の日本への渡来は、イッタイどれだけ遡るのか?


古墳時代





福岡・珍敷塚古墳壁画(6世紀後半頃)



エジプトのセン・ネジェム古墳壁画(紀元前1300年頃)
(茂在寅男著『古代日本の航海術・小学館』)から


 紀元前からアラブ人が日本に渡来していた・・・という可能性も否定しませんが、古墳などの「物的証拠」から確かなことは、「平家」が武士の世の基礎を築いたとしても、それより遥か以前からアラブ系の渡来民が日本にいた痕跡が見受けられ、先の「珍敷塚古墳」が九州・福岡に存在することからも、九州地方にはアラブ系渡来民のコミュニティーが点在し、熊本の菊池氏などは「鷹の羽」を家紋とするところなどからも、アラブ系の血筋を引く氏族であったのかも知れません。


【家紋World】 鷹羽紋


・・・鷹の羽は、古来武人の象徴とされてきた。たとえば元日の節会や御即位の式などには、左右近衛の両陣に鷹の羽を掲げたといわれる。中国においては、武人は冠に鷹の羽をさすことが慣わしともされていた。鷹は俊敏で、その姿は数いる鳥のなかでも群を抜いて誇りに満ちた姿であったことから、武士の間で尊ばれた。

 また、古くより鷹狩りがスポーツとして行われ、それは武を練ることにも通じ、戦国時代では武将のたしなみの一つともされていた。このように、鷹は武士を表すものとして、紋にも取り入れられたようだ。

 「蒙古襲来絵詞」と呼ばれる絵巻が伝わっている。これは文永・弘安の役に活躍した肥後の武士、竹崎季長の戦功を描いた絵巻物で、当時の風俗、武具、旗印、家紋などが、ありし日の姿のままに見られる重要な資料である。この中に、菊池次郎武房が「二枚並び鷹の羽」をかかげて異国の敵に立ち向かっている。これが、もっとも古い鷹の羽紋の記録で、かまくら時代から用いられていたことが知られるのである。

 菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆から起こっている。九世紀から十一世紀の前半にかけて宗家が有力府官として活躍したとされる。そして菊池氏は阿蘇神社の氏子で、阿蘇神社の神紋である「鷹の羽」を紋として用いたようだ。もちろん、阿蘇神社の神官である阿蘇氏も鷹の羽紋を用いていた。

 こうして、鷹の羽紋は菊池氏・阿蘇氏の一族をはじめとして、武士の間に広まっていったようである。徳川氏に仕えた、西郷氏も菊池氏の一族を称し、鷹の羽紋を使用した。・・・


 ま、「鷹羽紋」アラブ系発祥であったにしろ、「武人」のシンボルとして広まり、アラブ系ではない氏族にも浸透したであろうことは想像に難くありません。

 と、ここまで書いて来てフト思い出したのが、「神武東征」の逸話です。


神武天皇


 神武天皇の東征を助けた動物は「烏」と「鳶」ですが、「烏」は道案内をしただけであり、実戦においてその力を振るったのは「鳶」です。「鳶」とは「鷹科」の鳥であり、この神話を読み解けば、アラブ系の渡来民が神武天皇に加勢したとも取れます。




 神武天皇は九州から東征を始めたという通説?を受け入れるなら、先の「菊池氏」のような九州在住のアラブ系氏族が、神武天皇に加勢することは十分考えられますし、さらに言えば、神武天皇はアラブ系の氏族と非常に親しいか、自身がアラブ系であった可能性すら浮上してきます。

 天皇制は天武天皇から始まる制度であり、それ以前の大王(大君)制とは一線を画するのです。したがって、天武天皇以前の歴史を改竄し、天皇制というものを人工的に権威づける必要性から、神武天皇の東征にアラブ系の渡来民が関わっていた・・・もしくは、神武天皇その人自身がアラブ系?であることを秘匿するために、「鷹」を「鳶」へと卑しめた?


天武天皇(673~686年)


 そしてこのことは、明治維新を迎えて「国家神道」が国策になるまで、神武天皇の墓稜は人知れず捨て置かれたという事実と、その周辺に暮らす人たちが被差別部落民であったという事実を鑑みれば、アラブ系の渡来民・・・それも、神武天皇に近しいアラブ系渡来民は、歴史の闇に葬り去られてしまった・・・と。


おおくぼまちづくり館と洞村跡地より


・・・留意しておきたいが、もともと天皇陵より前に洞村はすでに存在していた。歴史の彼方に消えていた神武陵が現在の地に比定されたのはやっと幕末の頃である。

 「畝傍山の東北陵」という書紀の記述より、近在の塚山、丸山(洞村の最上部)、神武田(じぶでん・ミサンザイともいう)の3カ所が候補地とされ、当初は塚山が比定されたがこれは後に二代綏靖陵へ変更され、結局、神武田が神武陵となったが、丸山もなお可能性が残るということで「宮」の文字を入れた石柱で囲まれ祀られていた。

 しかしこの神武田にしても、洞村の古老の話では「ここは直径10mくらいの小塚が2つ並んでいて、もともと地元では糞田(くそだ)と呼んでいた。ひょっとすると牛馬の処理場で、掘ると牛や馬の骨が出るかも」というくらいで、そもそも紀元前660年に即位して127才まで生きたなどという伝説上の人物の墓がどこにあるかなんて分かるはずもない。

 現在ではうっかりすると、二千年以上の神代の昔からあの地に鎮座していたように錯覚してしまうが、亡き住井すゑ氏がかつて言っていたようにまこと「嘘も長いことつき続ければ本当になる」のである。・・・

・・・この江戸時代にはささやかに祀られていた神武田が、俄に現在のような立派な形に整備されていくのは明治維新後であって、そこには無論、天皇制を軸とした国家権力装置としての象徴的な目論みがあったことは言うまでもない。・・・

「驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄ましている。事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ、腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りて言語道断なり。聖蹟図志には、この穢多村、戸数百二十と記す。五十余年にして今やほとんど倍数に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おいおい霊山の全部を浸蝕する。」

後藤秀穂「皇陵史稿」(1913・大正2年)

・・・実際に、昭和天皇崩御の際には機動隊が村中を巡回したり、天皇が参拝のときに乗ってくる「お召し列車」の線路沿い(現在の部落に接している)に警官と近鉄の職員が立ち並んだりと、いまもこの村が権力の監視の対象となっているという話なども聞く。「ここほど天皇制を日常的に感じられる場所はない」とも。 ・・・

・・・せっかくだからと、帰りしなに神武陵も見ておくことにした。かつて「糞田」と呼ばれた小さな塚が、いまでは巨大な権力の衣を幾重にもかぶって、神々しく鎮座している。

 もちろん、それは空虚でひどく愚かしいまぼろしである。立ちつくした私の目の前で、それらの空間はたちどころに色褪せてかき消え、代わりに山のふもとの樹の間から、共同浴場の湯が沸いたと村中に告げる威勢のいい声が聞こえてくる。

 神武陵地に隠された旧洞村の静謐な跡地は、この国の闇を照らし出す貴重なスポットである。機会があったらぜひ一度、立ち寄られたい。・・・


 ま、あくまでも、ワタシの個人的推測です。推測www。





人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年8月30日金曜日

わずか3年で崩れた汎アラブ主義の夢

  
 もwwwずいぶん前に引用させていただいた「消滅した国々」さんのトコロから、丸々、シリアとエジプトに関するページを転載させて頂きます。

 できるだけ「オリジナル」に忠実に転載させて頂きますので、ご容赦を・・・orz

 あと、本の宣伝もさせて頂きますので、ここは「バーター」ということでひとつ・・・。


アラブ連合共和国
首都:カイロ 人口:2900万人(1959年末)



その後いろんな経緯があって、この旗は現在シリアが国旗として採用し、「本家」のエジプトはこちらの旗に変わりました


1958年2月22日 エジプトとシリアが合併し、アラブ連合共和国が成立。首都はカイロ

1958年3月 アラブ連邦共和国とイエメン王国(北イエメン)が、アラブ連合を結成

1961年9月28日 シリアがクーデターにより独立

1961年12月 アラブ連合が解散

1971年9月11日 アラブ連合共和国がエジプト・アラブ共和国に改称


アラブの反米勢力といえば、今でこそイスラム原理主義だが、かつてだったら汎アラブ主義(ナセル主義)。前者が「イスラムの大義」を掲げる宗教イデオロギーなのに対して、後者は「アラブの大義」を掲げたナショナリズムだ。

エジプトのナセル大統領はインドのネールやインドネシアのスカルノと並んで、50年代には第三世界のヒーローだった。彼は52年の自由将校団によるクーデターを経て54年に政権を握ると、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムを建設して砂漠を農地に変えようと計画したが、ナセルの中立外交に反発したアメリカやイギリスはダム建設の援助を破棄。するとナセルは56年、植民地時代から英仏資本の会社が運営していたスエズ運河を国有化して、その通行料収入で建設費を賄おうとした。驚いた英仏両国はエジプトに侵攻するが、いかにも時代遅れな植民地主義丸出しのこの出兵は国際世論の大反発を受け、英仏両軍はほどなくエジプトから撤退。このスエズ動乱でアラブにおけるナセルの名声は不動のものとなり、ダムもソ連の援助を受けて完成させた。

そんなナセルに急接近したのがシリア。シリアでは46年の独立以来、クーデターの繰り返しで政情不安定が続いていたが、やがて汎アラブ主義と国家社会主義を掲げるバース党(アラブ復興社会主義党)が権力を握っていった。そして「スエズ動乱」を契機に、シリアはナセルの下でエジプトと統合することを決め、58年にアラブ連合共和国を結成する。「アラブ連合」という国名にしたのは、やがてアラブ諸国が次々と合流して、アラブ統一が実現することを期待したから。バース党が合併の道を選んだのは、当時シリアで勢力を伸ばしていた共産党や、イギリスと結びつこうとした右派に対抗するために、アラブ・ナショナリズムを高揚させて民衆の支持を集めようとしたからだった。


エジプトとシリアの合併調印式(1958年)

こうしてエジプトはエジプト州、シリアはシリア州になったが、実際には中央政府はエジプト側に握られ、シリアはエジプトの飛び地になったようなものだった。政府や軍の幹部でシリア出身者が更迭され、エジプト人の登用が増えるとシリア州では反ナセルの声が高まり、ついにクーデターが発生してアラブ連合共和国からの離脱を宣言。統一アラブを掲げた新国家はわずか3年で破局を迎えた。

エジプトは国土の大半を砂漠が占めるが、シリアは穀物輸出をしている農業国で商業も盛んと、経済状況はまるで違った。シリアのほうが断然豊かなのに、政治的にはエジプトの支配下に置かれてしまったのだ。今はアラブ人だといっても、歴史を遡ればエジプト文明の国とメソポタミア文明の国。一時の政治的熱狂で合併しちゃっても、もとからうまく行くわけなかったですね・・・と思いきや、ナセルは1963年4月に再びエジプトとシリア、さらにバース党が政権を握ったイラクも加えて「アラブ連合共和国連邦」の結成を宣言する。もっともこの時はシリアとイラクのバース党同士が手を結び、主導権をエジプトに渡すまいとしたので、正式発足する前にナセルは結成を取り消した。


シリアの分離独立(1961年)


ちなみに58年のアラブ連合には北イエメンも加わっていた。ただしアラブ連合共和国には加わらなかった・・・どういうことかというと、アラブ連合共和国(エジプト+シリア)とイエメン王国(北イエメン)という2つの主権国家で、国家連合の「アラブ連合」を結成したということ。ちょっとヤヤコシイですね。

北イエメンがアラブ連合に加わったのは、当時イギリス植民地だった英領アデン(後に南イエメン=イエメン人民民主共和国として独立)を併合しようと英軍に攻撃を仕掛けていたからで、北イエメンはアラブ連合に加盟すると、すぐに武力支援を求めている。しかしナセルが北イエメンに兵を送ったのは、アラブ連合が破綻した後の62年のこと。北イエメンでクーデターによって王制が倒れ、ナセル主義を掲げる「イエメン・アラブ共和国」が誕生したが、国王派がゲリラとなって内戦になったからだ。北イエメンの内戦は泥沼化し、王制打倒を支援したナセルは王制を維持するアラブ諸国を敵にまわすことになった。

その後、エジプトはひとりで「アラブ連合」を名乗りつづけていたが、70年に死去したナセルを引き継いだサダト大統領は、翌年今度はエジプトと再びシリア、そしてリビアとも組んで「アラブ共和国連邦」を成立させる。加盟3カ国は国旗を統一し、国名を「×××・アラブ共和国」で揃えたので、エジプトも「エジプト・アラブ共和国」に改称した。この連邦はイスラエル包囲網を結成するために作ったもので、軍事や経済、外交の実権は各国に残したままだった。73年にエジプトとシリアは、第三次中東戦争(67年)でイスラエルに奪われた領土(シナイ半島とゴラン高原)を奪還すべくイスラエルに奇襲を仕掛けるが、緒戦はうまくいったものの失敗し、アラブ共和国連邦は77年にリビアとエジプトが対立して消滅した。

「アラブ統一」を掲げ続けることに疲れたエジプトは、78年にイスラエルと和平協定を結んでシナイ半島を返してもらうが、アラブ諸国から大ひんしゅくをかうことになり、サダト大統領は暗殺されてしまう。一方シリアのバース党政権は汎アラブ主義から大シリア主義に転換して、レバノン内戦やパレスチナ紛争に積極介入した。そしてイラクのバース党政権はといえば、サダム・フセイン大統領を最高指導者に仰ぐ「大フセイン主義」になった。もっとも、フセイン大統領はクウェートを併合しようとしたり、イスラエルにミサイル打ち込んだりしたけど、これも汎アラブ主義のつもりだったのか?






歴史ナメんなよ!


でわっ!