前回、「同朋衆」=「阿弥衆(時衆)」について、「オリジナルの仏教徒」という表現をしましたが、日本に仏教が伝来した当初の史実をググっていたら、スゴイことを発見・・・と、いうか、知りました。それは・・・
日本には三蔵法師の愛弟子がいた!
・・・と、いうことで、ここベトナムでも中国のTVドラマ、「西遊記」が大人気で、ウチの嫁も「シーフー、シーフー」と、イイ年して喜んで観ているのですが、つーことはアレですな・・・
日本にも、師父の弟子がいたんだゼぇw。
・・・と、自慢できますなw。
「役行者」だの、「最澄」だの、「空海」だのより、
こっちのほうがスゴくね?
・・・と、思ったりもするワケですが。
玄奘三蔵 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧である。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。尊称は三蔵法師。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像等を持って帰還。大唐西域記はその時の旅行記である。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。 なお、『西遊記』の映像化・舞台化の際には演出上の観点から三蔵法師役に女性があてられることも多いため女性と誤解されることがあるが玄奘三蔵は男性である。 |
道昭 道昭(どうしょう、道紹や道照とも、舒明天皇元年(629年)- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日)は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。 略歴[編集] 白雉4年(653年)、遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。摂論教学を学んだという記録もあるが、摂大乗論に関する注釈は現存していない。 年時不明、玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅した。 斉明天皇6年(660年)頃に帰朝、同時に持ち帰った多くの経論・経典類は、平城京へ遷都後、平城右京の禅院に移され重用された。 年時不明、飛鳥寺(別称は法興寺、元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。 680年、天武天皇の勅命を受けて、往生院を建立する。 晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。 700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付された。その記録も現存している(『続日本紀』)。 |
法相宗 教義[編集] 法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。 さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。 基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識) |
日本への仏教伝来は6世紀中頃(飛鳥時代)に百済から持ち込まれた仏具、仏典に始まり、第29代欽明天皇は仏教を受け入れるか否かを臣下に問うのですが、このとき賛成したのが蘇我稲目であり、反対したのが物部尾輿であったとされています。
蘇我稲目が試験的に仏教を導入することになったのですが、その後イロイロあって仏教の布教は頓挫し、稲目の息子、馬子の代になって、再度百済からの渡来人鹿深臣(こうかの臣)から弥勒菩薩の石像を譲り受け、渡来高麗人恵便を教師?として雇い再挑戦します。
しかし、当時流行していた疫病が仏教のせいにされ、第30代敏達天皇は物部尾輿の息子、守屋の進言を聞き入れ「仏教禁止令」を出し、これによって多くの寺院が焼き討ちに合うのですが、疫病の流行は一向に収まらず、心変わりした敏達天皇は馬子に仏教信仰の許しを与えます。
第31代用明天皇が在位期間わずか2年で夭折し、次代天皇を誰にするかで馬子と守屋は対立するのですが、馬子は守屋の推す穴穂部皇子(欽明天皇第3皇子)を、無礼な振る舞いを理由に処断し、馬子の推す泊瀬部皇子(欽明天皇第12皇子)を第32代崇峻天皇の位に就けます。
この対立が引き金となった「丁未の変(587年)」により、物部氏は蘇我氏勢(廐戸皇子、秦河勝など)に滅ぼされ、実権を握った蘇我氏は仏教の普及の手始めとして、588年に法興寺(飛鳥寺)の建築に着手します。同時期(581年 - 618年)、大陸では「隋」が中原の統一を果たしています。
さて、この後「遣隋使(600年 - 618年)」が派遣されるようになり、仏教の本格的な伝来が始まるのですが、その一端が「隋書」に曰く、
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。 上令所司訪其風俗。 使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。 高祖曰「此太無義理」。 於是訓令改之。 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。 上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。 使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。 高祖が曰く、「これはとても道理ではない」。 ここに於いて訓令でこれを改めさせる。 |
大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。 使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」 其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。 帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。 使者が曰く、「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。 その国書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。 帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿が曰く、「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。 |
明年(608年)、上遣文林郎裴清使於倭國。 度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。 又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。 其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。 又經十餘國、達於海岸。 自竹斯國以東、皆附庸於倭。 翌年(608年)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。 百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。 また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。 そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。 疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。 竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。 |
倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。 後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。 既至彼都、其王與清相見、大悅、 曰「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」 清答曰「皇帝德並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」 既而引清就館。 其後清遣人謂其王曰「朝命既達、請即戒塗。」 於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。 倭王は小德の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。 十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。 既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、 曰く、「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。 裴世清が答えて曰く、「皇帝の德は併せて二儀、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。 既に裴世清は引き上げて館に就く。 その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く、「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。 ここ於いて宴を設け、裴世清を遣わして享受させ、再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。 この後、遂に途絶えた。 |
今回は、余談が過すぎましたが、歴史は「因果の連続」であり、やがて「織田信長暗殺」へと怒涛の如く収斂してゆく・・・かも?ま、そもそもワタシ、こうした歴史ネタが好きなんです。時事ネタにも首をツっ込みますが、表面的な出来事の裏には必ず因果関係が存在し、歴史を知ることで現代の「本質?」が見えてきますよ・・・と、。
>>つづく・・・。
人間ナメんなよ!
でわっ!