2012年11月26日月曜日

思想は「フィクション」だ


 右翼の重鎮であられる鈴木邦夫氏のブログ、「鈴木邦夫をぶっとばせ!」のなかで、作家の司馬遼太郎氏の言葉として書かれていたのが、「思想はフィクション」です。

 つまり、民主主義にしろ、共産主義にしろ、あらゆる主義=思想は「フィクション(架空)」の存在だというワケです。

 ま、よくよく考えてみれば、ワタシたちが「民主主義」を口にするとき、民主主義という実在を指しているワケではなく、民主的な社会を想像し、そのような社会状態を維持しようとする意思とか、それに向かおうとする情熱を民主主義と呼ぶワケです。

 民主的であるということは、ひとつの「状態」であり、したがって変化するものでもあります。

 民主的に「独裁政権」を選択するかもしれませんし、「共産社会」を選択することもありえるワケです。

 どのような社会でも必ずマジョリティーに対してマイノリティーが存在しますが、マイノリティーに対する対応如何で、「独裁的」か「民主的」かに分かれるのでしょう。

 で、前回の「事実をあるがままに見る」の続きになるのですが、「事実」はフィクションではありません。ノンフィクションです。だから「思想」とは別なるものです。

 そこで具体的な例を挙げると、原子力発電の副産物である「核廃棄物」の処理ができないのは事実です。誰もこの事実に異を唱えることはできません。

 そうした危険な「核廃棄物」はいらないし、だから原子力発電を止めるというのは事実に沿った見解です。

 しかしながら経団連などは、「経済に悪影響を及ぼす」という理由から原子力発電の推進を謳っています。

 どちらが「理に適っている」かは子供でも分かりそうなものですが、ひとつ言わせてもらえば、「経済」もフィクションに過ぎないということです。

 「こうすれば経済が発展する」などと経済学者は実しやかに言いますが、あくまでも経済学者の考えるフィクションに過ぎません。ジッサイ、未来なんて誰にも分からないのです。

 そんなものが「学問」と呼べるのか甚だ疑問ですが、経済学的フィクションの道具として「統計学」とかが利用され、「数字としての経済」に現実世界が矮小化されるきらいがあるように思うワケです。はい。

 早い話が、「核廃棄物」という事実と、「経済発展」というフィクションと、


イッタイどっちを信じるの?


・・・という、いたってシンプルな選択なワケですよ。ね?

 「安全神話」というものにしても同じです。原子炉内部は非常に複雑な構造になっており、地震などの衝撃に弱いワケですよ。福島第一原発にしても、「安全神話(フィクション)」を盲信した結果事故を引き起こし、それに対する釈明が


想定外


・・・の一言ですから、それで許されるのなら事実なんて何の価値も持たなくなってしまいます。

 日本は昔から地震が多い国であり、これは事実として重く受け止めなければなりません。100年に1度の大地震を想定しているなどと言ったところで、ソレが100年後に来るのか?それとも明日来るのかすら分からない「フィクション」の安全性なワケです。



 「不確定な未来」を、さも事実のごとく吹聴する政治家、学者、知識人に騙されないようにするには、


事実をありのままに見る


・・・しかないワケですし、それが一番確実だと言えます。

 しかしながら、自分自身の都合、利害関係によって事実を歪めて見てしまうのも、人の心の弱点であるのは確かです。

 その弱点を克服するために、「個人革命」が必要であろうと言い続けているワケであり、それこそが「新世界」への入り口の扉を開く「鍵」になると考える次第です。

 フィクションで構築された「旧世界」を終わらせるには、事実をありのままに見るという、ただそれだけで十分なワケですよ。そして、「事実」と「フィクション」のどちらを選択するかで、今後の日本も含めた世界の在り様も大きく変わることでしょう。

 最後に、注意しなくてはならないのは事実をどう判断するかですが、従来であれば新聞、テレビニュースを事実として鵜呑みにしていたワケですが、福島での原発事故以降、ワタシたちはマスメディアが「虚偽の報道」をすることを知ってしまったワケです。

 したがって、新聞、テレビニュースに代わる「第3のメディア」、インターネットでの事実の確認は怠れません。ただし、ネット上の情報は珠玉混同なので、情報を比較し自分自身で判断するメディアリテラシーも求められる時代にあるワケです。はい。




人間ナメんなよ!


でわっ!