2012年10月25日木曜日
決戦は金曜日
「In Deep」さんのトコを覗いたら、なかなかに「哲学的な命題」を取り上げていたので、ワタシも相乗り?して「存在の空虚」について考えてみようかと・・・。
「存在の空虚こそが世界への殺意を呼び込む」
で、さっそくですが・・・、
「どうしてわたしはこの世にいるのだろう?」
思春期に、ほとんどの人が通り抜ける疑問ではないでしょうか?もう「遠い日の記憶」になってしまいましたが、恥ずかしながらワタシにもそういう時期がありました。
で、そういう時期をワタシは、そしてみなさんは、どうやって通過してきたのか?簡単に言えば、
みんな同じコトを考えていた。
・・・というコトなんだと思います。
「ワタシ」・・・という孤立した存在と、「ワタシ」以外の世界の「接点(存在の意味)」は何なのか?それが、
「どうしてわたしはこの世にいるのだろう?」
・・・という「自問」になるワケですが、まわりの友人聞いてみるとどうやら友人も、
「どうしてわたしはこの世にいるのだろう?」
・・・と、「自問」しているらしいことを知り、
「ナンだよwww、同じかよwww。」
・・・というワケで、「ワタシ」という孤立した存在が、「ワタシ」以外の存在(友人)と「同化」することで、この世界(自分以外の存在)との「接点(連帯)」を意識するようになるのだと思いますし、実際ワタシはそうだったように記憶しています。
しかしそれは、「学生時代」という比較的似通った環境の中に置かれている時期に限られ、社会に出て全く違った環境に置かれると「接点(連帯)」も希薄になってしまうので、また新たな環境の中で「同化努力?」をするワケですが、これが所謂・・・
大人になる
・・・という過程だと思う次第です。はい。
しかし過去の「連帯感」に対する「郷愁」は捨て難く、みなさんお幾つになっても「同窓会」には顔を出すワケですよね?
では、そうした「接点」を思春期に上手く築けなかった場合は?もしくは、社会に出てから「接点」を見出せなくなってしまったら?
「引きこもり」と呼ばれる人たちにしても、家で何もしていないワケではありません。ネットを徘徊したり、オンラインゲームに興じたり、外部からの「刺激のI/O」に没頭しているワケですよね?
自己の内部だけで完結する「メンタル」なものか、外部との接触を要する「フィジカル」なものかの違いはあっても、人間の本質的な欲求=「刺激のI/O」を行っている点では「同等」と看做せます。
そういう面で見ると、他人を傷つけたり、破壊的な欲求に見舞われたりするのは、「フィジカルな接点」を求める人の「コミュニケーション障害」と考えることができます。
「自分がこの世にいる理由がわからないのなら、この世を愛せない」
というのは、簡単に言えば「触れ合いに餓えている」と言えます。「自分という存在を認めて欲しい」という渇望と、「自分に対する周囲の評価(態度)」の落差が「コミュニケーション・ジレンマ」を生み、ジレンマの捌け口として暴力的行動に走る・・・つまり、「復讐衝動」に駆られるワケです。
それは「個人」に対しての復讐もあるでしょうし、「社会」に対しての復讐もあるでしょうが、基本的には「子供が駄々をこねている」のと変わりません。
その点では、「メンタルな接点」で完結している「引きこもり組」の方が社会的には無害?とも言えますが、肉体は空腹を覚えるし、睡魔にも勝てないワケで、死なない限り、外界との「フィジカル・コミュニケーション」を100%遮断することはできないワケです。
つまり、この世界に生まれてしまった時点で、この世界に「強制参加させらてしまった。」・・・と、諦めるしかないワケです。
その上で、どうしても「この世界が愛せない」のであれば・・・
「愛せないときは立ち去れ。」
・・・と、ニーチェが確か?「箴言」に認めているように、この世界を愛せず「立ち去る」ということは「自殺」することに他ならず、他人に対して攻撃的(フィジカル)に振舞うのは、この世界に対する「愛の裏返し(執着)」であるとワタシには思えるワケです。
そういえば昔読んだ本で、確か「異邦人」だったか?の主人公は、殺人を犯しその理由を・・・
太陽のせいだ
・・・として死刑の判決を受けるのですが、彼にとっては、自分の刑が執行されるその刑場に詰め掛ける全ての人が、
彼を心から憎悪する
ことが希望であり喜びなワケです。彼にとってはそれこそが「世界との確かな接点」であり、それ故に・・・
自分という存在も肯定される。
・・・と、いったような内容だったと記憶しています。つまり彼も「存在の空虚」を抱えながら生きていたワケで、何も今に始まった現代社会の問題じゃないワケですよ、「存在の空虚」わ。
そうそう、ワタシがこの本を読んだのは、高校の「国語」の先生に薦めらたからでしたw。
異邦人 (新潮文庫) [文庫]
カミュ (著), Albert Camus (原著), 窪田 啓作 (翻訳)
なんで生徒に勧めたんですかね?文部省(当時)の学習指導要綱に載っていたワケでもないだろうに・・・。でも、読んでおいてヨカッタと今にしてシミジミ思います。「空虚」に対しての免疫ができて・・・。
個人的な救済の完成
世界的な救済の完成
で分けるのなら、他人に憎まれることで「個人的な救済の完成」を果たし、なお且つ、死刑になることで「世界的な救済の完成」になるのであれば、彼の死刑執行はむしろ「慶ぶべきこと」のようにも映ります。
さて、スイスの神学者・カール・バルトは、「再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒が遅延しているのである。」、「終末は既に神によってもたらされている。」・・・との認識だそうですが、ワタシ流に身も蓋も無い言い方をすれば、
世界は昔から病んでいる。
・・・と、いったトコロですかね?
カール・バルト - Wikipedia
「存在の空虚」なんて、遥かギリシャ時代からあるワケですよ。
ソクラテス - Wikipedia
ソクラテス師匠に言わせれば、「神のみぞ知る。」・・・という人間の身の丈を越えた、現代人の「傲慢な性分」が「存在の空虚」をつくりだし、その「空虚(自分自身)」と勝手に格闘している。・・・となるワケです。
ま、それでも大方の人間がこれまで「存在の空虚」に囚われずに、社会を何とか維持できたというのも結局のトコロ、「人間であること」から離れられなかったからだと思うワケで、「刺激のI/O」を求めるという「生理的な欲求」には打ち勝てないことと、更なる刺激・・・
もっと知りたい
・・・という欲求が、人間を推し進めてきたからだろうと思うワケです。
ま、「存在の空虚云々・・・」からは少しズレてしまいましたが、ひとつ言えることは「空虚」とは0(ゼロ)であり、即ちそれ自体が「完結した答え」でもあるワケで、「空虚」の先は思考する必要が無い、もしくは思考を放棄できるという、ある意味では「思考の逃げ道」であり、「人間の可能性の放棄」であるとも言えるワケです。
そして、「神でもない人間」がそう易々と「答え」を導き出せるものなのか?・・・と、ソクラテス師匠は仰っているワケで、その点でワタシも師匠の意見に同意するワケです。はい。
で、ここから現代日本における「存在の空虚」の実体を検証したいと思うのですが、ワタシが思うに「存在の空虚」が生まれる原因のひとつに、「無力感」があるように思うワケです。
先の例で言えば、他人とのコミュニケーションが上手く取れないという「無力感」が社会との「接点」の喪失という状態に自己を追い込み、そして社会の中での自己の「存在の空虚」という被害妄想に繋がるのではないか?と。
で、自分は「被害者」であるのだから、「加害者」に対して反撃してもイイのだという「大義」を自己構築し、復讐=暴力が肯定されるワケです。
そういうワケで、無闇に「無力感」に苛まれるのは危険なワケですが、時には、「社会全体が無力感に包まれる」ケースもあるワケです。
具体的に言うならば「放射能汚染」などです。福島第一原発の爆発事故以降、東日本全体に・・・いやさ、日本全体に・・・もとい、世界中に「放射性物質」が飛散し生活環境を蝕んでいるワケですが、人間にはどうすることもできないワケです。「放射能を無害化する技術」なんて、どこの国も持ってないワケですから・・・。
つまり「人間は無力」なワケで、それを感じ取っている人は「存在の空虚」に陥っていることでしょうし、特に放射能によって故郷を失った人たち、仕事を失った人たちは「存在の空虚」を強く感じているハズで、それ故に「自殺」する人が後を絶たないワケですよ。
福島県外に住む人にしても放射能に対しての「無力感」は感じているワケで、そうした「無力感」が日本全土を覆っていると思えるワケです。
で、「無力感」から生じる「存在の空虚」の感覚。そして「存在の空虚」に対する「復讐」が、「In Deep」さんの言われる「世界に対する殺意」であり、「世界を狂気に向かわせる衝動」であろうと理解することができます。
したがって、国民の声を無視して原発を再稼動したり、国民の声を無視してTPPに加盟したり、国民の声を無視して増税したり、何でもかんでも国民の声を無視して政策を強行するということは「コミュニケーションの断絶」であり、それによって「無力感」を覚えた国民が「存在の空虚」の感覚に囚われ、その結果として攻撃的な社会になるというのは、当然の流れだと言えるワケです。
社会に対する「復讐」の感情がひとつにまとまれば、それが「革命」という形で現われるのでしょうが、「復讐」である限り一過性の衝動で終わってしまい、根本的解決にはならない場合が多々あるワケですよ。最近の中東における数々の革命のように。
だからこそ・・・
革命のその先を見よ!
・・・と、言いたいワケです。
で、社会に蔓延する「無力感」が諸悪の根源であるならば、それを克服する必要があるワケですが、ここでソクラテス師匠の教えに立ち戻るならば、
「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」
という、「人智の在り方」を再認識する必要があります。
師匠は、「人間は神の前には無力だ」・・・と、言っているワケではありません。人間の「もっと知りたい」という欲求は神から与えられたものであり、その時々の身の丈に合わせて欲するものだと言っているワケです(ワタシはそう理解してします)。
したがって、「無力感」に苛まれる人は自分の身の丈以上のものを欲しているから「無力感」に苛まれてしまうワケで、おそらく「神と肩を並べる」くらいでないと気が済まない「強欲な人間」なのかも知れません。
「もっと知りたい」という欲求・・・というか、刺激を求める脳の生理的衝動でもあるワケですが、何事も段階を踏むのが肝心なワケでしょ?恋愛にしてもね?
恋はあせらず
なんかテーマが散漫になってきましたが、強引に締めるならば「人間は不完全な存在」であり、「無力感」に苛まれるなんて「100万年早いわ!」・・・と、いうことになり、「無力感」から生じる「存在の空虚」、そして「世界に対する復讐」なんぞ、「子供が駄々をこねているのと、どう違うんじゃい!?」・・・と、ソクラテス師匠は喝破されているワケですよ。
「謙虚に」・・・なんてありふれた言葉ですが、「自分にできることをやる」というのも、当たり前のようでなかなか難しいものです。それでも尚、倦むことなく「自分にできること」をやり続けていれば、少しずつですが・・・
必ず道は開かれる!
・・・というのが、師匠がその命を以ってワタシたちに示してくれた教えなワケです。
決戦は金曜日 by Dreams Come True
師匠ォォォwww!!! orz
人間ナメんなよ!
でわっ!