2012年8月10日金曜日

言葉の権威


 安富センセのトークセッションを見て、「言語体系と独立意識」の関係について疑問を抱いたワタシではありますが、よくよく安富センセの言わんとすることを慮ってみるに、「言葉」に「魂」がこもっていないことを揶揄していたのだと思えてきました。




原発危機と「東大話法」
傍観者の論理・欺瞞の言語

安冨 歩 (著)


 簡単に言うと・・・「I Love You」「愛してる」では、日本人としてどっちに「思い」が込められるか?どちらから「思い」が感じ取れるか?ということであり、さらには、「愛してる」という言葉にしても、口先だけの「空虚」な「愛してる」もあるということです。

 ワタシは上記の本をまだ読んでいないので、「東大話法」が如何なるものなのか窺い知ることは出来ませんが、3.11以降の・・・福島での原発事故以降の「政治家」、「官僚」、「役人」、「東電職員」、「知識人」などの言葉に、


全く心がこもっていない


のは十分に感じ取っていますし、それが「東大話法」に依るものであるならば、「東大話法」とは、何と「空虚」な言葉の羅列なのだろうと思わざるを得ない次第です。

 「プロレタリアート」だの、「ブルジョア」だのという外来語を聞くと頭が痛くなる性質なワケですが、なぜそうなるのか?というと、「雑音」にしか聞こえないから・・・生理的に受け付け無いから・・・だと思う次第です。言葉の意味そのものは簡単なワケですよ、日本語にすれば。それを何故?ワザワザ「横文字」で話し合う必要があるのか?


ミwはフランス帰りザンスwww。


・・・て、「イヤミ」か?っつーの。

 ま、オジサンの辛気臭い昔話になりますが、そういった「気取った連中」はバカにされたものですよ。「質実剛健」という言葉が生きていた頃には。家庭でも、そう親に教育されましたし、学校でも見掛け倒しなヤツ


カッコ満点。中身0点。


と、冷やかされたものです。

 ま、それはソレとして、そうした生い立ちからか?外来語の「言葉の権威」に頼っているだけの「薄っぺらな知識人」には「生理的嫌悪感」を覚え、中途半端(空虚)な外来語を聞いたときの「頭痛の種」になるのでしょう。

 安富センセが言うように、「言葉の権威」すがること、之即ち「自我の確立の欠如」の表れであり、「独立心の欠如」とも言えます。「言葉」を自分の都合のイイように「使い分ける」ことにのみ長け、議論の中身はカラッポであり、「議論の中身」=「当事者」の存在しない議論が、何も生み出さないのは当然です。

 そうした「言葉の権威」の由来が「欧米礼賛」から来るものであれば、「心の植民地」から脱却することは難しいでしょうし、欧米の進んだ文明をただ取り入れるだけでなく、それを「消化」し、自らの「血肉」にしようと「翻訳」に心血を注いだ先人の思いとは、遥かにかけ離れています。





 進んだ文明を「コピー」して満足するだけでは、「オリジナル」を超えることは出来ません。自分の頭で考えてこそ、「オリジナル」とは別なもの・・・「独自のもの」が生まれるワケです。日本が欧米の「コピー」に甘んじていたら、日本からノーベル賞受賞者も現れなかったことでしょう。

 で、例えば「官僚」などが使う「イミフ」な話法は、早い話が「言葉の権威」を最大限に利用した「暗号」なのです。霞ヶ関とは、「暗号」を理解できる者だけが集まっている「暗号村」なのです。その「暗号」の言語体系こそが「東大話法」の正体なのも知れませんし、「言葉の権威」にすがっていること自体が、「植民地」における「行政官根性」の表れに思えます。

 そうした「言葉の権威」に負けないためにはどうすれば良いか?昔の人はイイことを言いました。


聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥。


 「言葉の権威」を以って「屁理屈」をこねてくる輩には、徹底的に、こちらが理解できるまで問い詰めるまでです。「言葉の権威」の持つ虚構の部分を全て剥ぎ取り、こちらの土俵に引きずり下ろすまでです。

 日本人は、「空気」とか「呼吸」を読んでのコミュニケーションを得意としますが、それも場合によりけりです。少なくとも相手と同じ土俵の上に立たなければ、対等なコミュニケーションは成立しません。

 つまり、「言葉の権威」に平伏して「暗号」の羅列のような話し合いを重ねているようでは、話し合いの土俵にすら上がっていないということです。口の上手い詐欺師に丸め込まれているのと何も変わりません。

 ましてや相手が政治家や役人であれば、「国民に分かりやすく説明する義務」があり、それを怠るのは「職務怠慢」です。だからどんなに些細なことであっても、遠慮なく質問する権利がワタシたちにはあるのです。

 


人間ナメんなよ!


でわっ!