2012年8月3日金曜日
原発国民投票の件
IWJの動画を見て思ったんですけどね?所謂「選挙」って、
一発勝負
みたいなもの・・・謂わば「博打」に近いように感じたワケです。
民主党に投票してガッカリした人が多いと思いますが、ワタシもそのひとりです。「半」に賭けて「丁」が出たような心境?です。
で、何故?そのような心境になるのか?自己分析してみるに、そこに「期待値」が多分に含まれていたからだという結論です。
この「期待値」とは何か?というと、「他力本願」に他なりません。
誰かが代わりにやってくれる。
という思い。そうした思いが裏切られたことに、「失望感」を覚えたワケです。
「政治家は公僕である。」・・・その所以は、前にもお話したように「社会は分業で成り立っている。」という現状からすれば、分業体制から離れた「非日常」の存在でしか社会全体をマネージメントする余力は持ち合わせず、したがってそうした「非日常」の存在・・・「政治家」や「公務員」にみんなが「給料」=「税金」を払って、社会全体のマネージメントを委託しているからです。
日本国憲法
前文抜粋
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民のためにこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
第十五条 第二項
「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」
日本国憲法にここまで明確に記されていながら、何故?主権者であるワタシたちの思いとかけ離れた政治が行われてしまうのか?そこに「選挙」の弊害があるのからではないのか?・・・というのが、ワタシの私見です。
「B層」という言葉がありますが、先のグラムシの論によれば、「文化的ヘゲモニー」を持たない層と言えます。つまり、「無言の圧力」から抜け出せない層と言えます。
「無言の圧力」から抜け出せないひとたちが「選挙」に参加したとしても、その結果は、「文化的ヘゲモニー」を確立している側(原子力村など)の手の内にあると言えます。
「選挙」は「民主主義」の正当な手段である。・・・と言われ、ワタシも永らくそう信じてきました。もっと言えば、「民主主義」=「選挙」という短絡的な考え方すら可能です。
しかし、「選挙」が「民主主義」の・・・つまり、ワタシたちの総意の表明であるならば、先ず問われなければならないのは、ワタシたちの「意識」の在り方なワケです。
その「意識」が未熟なままで「選挙」により重大な決定をするなど、子供と大人が同じ権利=同じ責任を負わせれる状況に等しいように思えます。
したがって、「投票原理主義」は非常に危険だと思えるワケで、「選挙、選挙」と声を荒げる前に、自らの「文化的ヘゲモニー」を確立する方が急務だと思うワケです。
「国民投票」にしても同じことが言えます。「一発勝負」=「博打」にしてはいけないのです。山本太郎氏が言うように、「最後の手段」であるのが正しい姿の様に思えます。
ワタシたちには「ヴィジョン」があります。原発にしろ、増税にしろ、TPPにしろ、「こう在って欲しい。」と思い描く「未来の姿」があります。そうした「ヴィジョン」が十分に共有された時=文化的ヘゲモニーを確立した時に、「同意確認」という形で「投票」を行うのが、「正しい民主主義」の在り方ではないのか?
つまり「投票原理主義」とは、そうした「合意」が未熟であるにもかかわらず「決定」を急がせる、ある意味、「少数派の意見」を排除しかねない、危険な「似非民主主義」とも言えます。
今井一氏は、「自分たちの思い通りにならないからと言って、選挙(投票)を否定するのは間違っている。」と言い切りましたが、これこそ「博打」の発想です。
チガウでしょ?
ワタシたちは、ワタシたちが望む社会にする為に選挙をするワケですよ!
もうお分かりのように、「投票」を「博打」と同列で考えている「原発国民投票」は、きわめて危険であると言わざるを得ません。
ワタシたちに求められているのは、「投票」=「民主主義」という短絡的な考え(投票原理主義)を改め、「投票」=「同意確認」であり、様々な意見の意見調整こそが「民主主義の本懐」であることを理解し、意見調整は自らの「文化的ヘゲモニー」に依らなければならない。・・・という事です。
つまり、「現実・事実」を「正しく・広く」共有し、問題に対する認識の統一が形成されたうえで様々な意見の集約を図り、最善と思われる対策の取捨選択をし、最後に「同意確認」として「投票」を行う。
というのが、「選挙」なり、「国民投票」というシステムの、「民主主義的利用法」に思えるワケで、当然、決定までに時間が掛かるでしょうが、
それがどうした?
と、ワタシは言いたい。分刻みで右往左往する「株」や「外為」の金融トレーダーじゃあるまいし、「バスに乗り遅れるな!」とかね?もう・・・
アホか?
と、呆れるしかありません。
ちなみに、「バスに乗り遅れるな!」というキャッチコピーを見て(聞いて)反射的に危機感を抱いた人は、「文化的ヘゲモニー」に操作されていると言えます。つまり、「無言の圧力」に屈していると考えられます。
ところで、グラムシを知ってから「ヘゲモニー」という言葉が気に入ってしまったワタシですが、言葉の響きがね?「屁毛モニー」と脳内で勝手に変換され、クセになりそうです。
それはさて置き、世界中で発生する様々な大問題・・・例えば「リーマンショック」だとか、「地球温暖化サギ」だとか、「戦争」だとか・・・「ショック・ドクトリン」と見なされる諸事件も、「ヘゲモニー」という観点から見れば、その発生理由も理解できます。
そうした「ショック・ドクトリン」に惑わされ、「無言の圧力」に負けない為に日本には・・・というか、武士道では、
平常心
というものを説いています(禅だったかも?)。
そしてワタシの我流(こじつけ)の解釈になりますが、「平常心」は何処に在るか?といえば、「揺ぎ無い自分」に在り、繰り返しになりますが、「揺ぎ無い自分」を確立するには武士であれば「武術」の修行であり、ワタシたちであれば「学習」になるワケです。
ここに、グラムシの「陣地戦」=「ヘゲモニーの確立」=「揺ぎ無い自分」=「平常心」=「武士道」と、矛盾せずに一直線上に並ぶワケです。
優れた思想は繋がっている!
というワケです。
人間ナメんなよ!
でわっ!