2012年8月28日火曜日
日本とシリアの意外な繋がり
ちょっと歴史の話をさせて下さい。ワタシの地元多摩の南側、神奈川県の西部に「秦野」という場所があります。その地名からして「秦氏」が開いた土地ではないかということです。
秦氏と秦野
で、秦氏が古代イスラエルの末裔であろうと秦の始皇帝の末裔であろうと、「渡来人」であることには変りがないワケで、「日本人はハイブリット(混血)民族」だと常々言っているワタシにとってはドーデもイイことです。
秦氏は聖徳太子にも仕えたそうですが、秦氏がキリスト教ネストリウス派(景教)の末裔であったとういう研究もあり(A.G.Gordon)、であれは、聖徳太子の別名「厩戸の皇子」とういうのも、聖書の中のイエス・キリストの生誕逸話にちなんで、秦氏が創作したとも考えられます。
キリスト教ネストリウス派は、431年のエフェソス公会議(第三全地公会)にて異端とされ、ネストリウスは生まれ故郷であるシリアに監禁されてしまい、信者たちは迫害を逃れるためにアッシリア(現在のイラク北部)から東方へ移動します。
ペルシャ、インドを経て、ネストリウス派教徒の一団は635年に唐の首都、長安に滞在が許されます。そしてその3年後に都の西に大秦寺(教会)を建立し、中国では「景教」と呼ばれました。
大秦寺は844年、第18代皇帝「武宗」の時代の廃仏毀釈のあおりを受けて破壊され、僧侶?たちも追放され「景教」は歴史から姿を消します。
ずっと時代が下り、1625年に農夫により大秦寺の石碑が発見され、この発見により中国にネストリウス派が存在していたことがヨーロッパにも知られることになります。
なぜなら碑文は、漢字と「シリア文字(ネストリウスの母国語)」で刻まれていたからです。
廃仏毀釈で大秦寺が破壊されるまでの間、約200年間はネストリウス派(景教)は中国に根付いていたワケです。
尤も、ネストリウス派が長安に滞在を許されたのが635年とすると、歴史上の聖徳太子の存在期間574 - 622年より後になるので、長安に留まったグループとは別に先に日本に渡来したグループがあり、それが秦河勝の先祖ということになります。
さて、秦氏を古代ユダヤの民と見る向きもありますが、ここでひとつ疑問が生じます。件の大秦寺の石碑が「シリア文字」で刻まれていた事です。もし秦氏が古代ユダヤ人であれば、「ヘブライ文字」で刻まれているように思えるワケです。
そして古代ユダヤ人であれば、聖徳太子にイエス・キリストを連想させる「厩戸の皇子」などという別名はつけないでしょう。したがって推測できるのは、秦氏は単なるネストリウス派キリスト教徒であるということ。
キリスト教を誤解している人も多いかも知れませんが、キリストは、「旧約聖書の預言を完成させるために来た。」と聖書の中で言っており、旧約聖書を否定しているワケではないのです。
日本に渡来した秦氏一族も当然ユダヤの風習や旧約聖書の世界観を持ち込むでしょうから、「祇園祭り」は「シオン祭り」だろう…と、古代ユダヤ人と無理やり?結びつける必要は無いように思うワケです。
それよりも、大秦寺の石碑に「シリア文字」が刻まれていたいた事実からは、迫害を逃れて東方に移動したネストリウス派の大部分は、「古代シリア人」であった可能性の方が高いくらいです。
してみると、現在の日本人の中には秦氏の血を引く・・・つまり古代シリア人の「DNA」を宿す人が必ずいるワケで、神奈川県の秦野が秦氏縁の地であるならば、スグ近所の多摩の人間にも秦氏の血が少しぐらいは混じっているかも知れません。
ひょっとしたら?ワタシの中にも混ざってて、それが故に欧米のシリアに対する不当な介入に腹が立つのかも?・・・などと一瞬、思ったりもするワケです。
ま、歴史は侮れません。・・・と、いうオチで。orz
人間ナメんなよ!
でわっ!