2007年9月24日月曜日

「光る風」のこととか

さっそくですが、ヤラレましたワ。
スリに・・・orz

先週の木曜の夜、土砂降りの中を家に帰る途中
レズアン通りのソフテルサイゴンホテル近くを歩いていると、
ノンラーをかぶり、アオババを着たおばさんが近づいてきました。
すぐ近くには旦那さん?らしき男が歩道の脇にバイクを駐車していたので、

「田舎から出てきた夫婦が道に迷ったのか?」

とも思ったのですが、おばさんの口から出た言葉は・・・

「マッサーどう?」

近年、ホーチミン市内はどこもかしこも風俗の取締りが厳しく、
いまでこそフツー?の街並みの風景に見えるのですが
チョッと前までは、薄暗くなるといたるところに
”その手”の関係者が出没してました。
いまや伝説?となりつつある「ホンダガール」とか、
(チョッと前にレタントンで遭遇!)
グエンティミンカイの「立ちんぼオネエチャン」は
ホーチミンの風物詩だったのでわ?

レズアン通りも「ホンダガール」が出没するホットスポットだったのですが、
最近は公安によりほぼ絶滅状態にあるといえるでしょう。

んで、おばさんの口から「マッサー」という言葉を聞き、
遠い昔の思い出が走馬灯のように一瞬で通り過ぎて行ったのですが、
ワレに戻っておばさんの顔をマジマジと見ると・・・

確かに、「昔」はそこそこ「売れた」んだろうなぁw
という顔立ちではあるのですが
いかんせん、そこはやはり積み重ねてきた年輪は隠しようも無く、
それを無理に隠そうと厚化粧を重ねているから、はっきり言って

「お化けw」

しかも目だけは獲物を狙う獣の如く異様にギラギラしている。

「ヒェ~、け、結構です!家で妻が待ってますからぁ~!」

おばさんから目をそむけて(怖くて直視できない)立ち去ろうとすると・・・

「アナタ~、気持ちよくしてあげるわぁ~♪」

ナンと!いきなりワタシの愚息にちょっかいを出してくるではあ~りませんかっ!

「やめてくれぇw!」

と空いている左手で(右手には傘)おばさんの魔の手を振り払い
急ぎ足でその場を後にしたのですが、ものの10メートルも歩かないうちに

「ハタ!」

と気付き、お尻のポケットのサイフをまさぐってみると・・・

「ない・ナイ・99・無いィw!」
(被害金額≒600USD也・・・orz)

失った金も惜しいのですが、それに加え日本を出る前に母親から渡された
「御守り」も一緒に失ってしまったのが、もぅ~口惜しくて、口惜しくて。(キィw!)

「金はくれてやる。が、御守りだけは返せ!」

と、言いたい。(それと免許証もネ・・・)

 
失意のどん底で家に帰り妻にコトの始終を報告すると

「プノンペンだったら銃で撃たれるとコトもあるから、無事なだけまだマシ。」

との優しいお言葉。
しかし妻も内心ガッカリしていたのは想像に難くないワケで。
というのも、2日後に妻はプノンペンに里帰りする予定だったので、
妻に多少なりともお小遣いを渡すつもりだったのがオジャンに。
それどころか妻は、

「ワタシのヘソクリの中から少しお金を置いて行こうか?」

嗚呼・・・花の料理人。じゃなくて、不甲斐ない亭主でスミマセン。

これじゃイカン!というワケで、次の日ソッコーで友人に借金しました。
こういう場面で「社会」のありがたみを痛感する次第です。はい。
人間は一人では弱い。あまりに弱い。お互いに助け合ってナンボ。(でしょ?)
妻よ、****さんには感謝しなくちゃイカン!

ま、借金は働けば返せるからいいのですが、
信頼関係は一度壊れると修復することがヒッジョwに難しい。
まずは人を騙さず、裏切らず。ということですか・・・
しごく当たり前のことなのですが、
当たり前のことを貫き通すのがムズカシイのも世の中。
それでも「基本」を踏み外すと「社会」はドンドンおかしな方向に行ってしまうワケで、
その辺を

「どう折り合いをつけるか?」

が、子供と大人の違いですかネ。
キチンとした「大人」になるのは案外タイヘン?
ま、自分への慰めとして、

「生活に困っている一家がこれで首をくくらなくて済んだ。

とでも思うことにします。
(ただし「御守り」は返してほしいなぁ~)

 

さてさて、表題の「光る風」ですが、
お父さんたちには懐かしい「がきデカ」の作者
山上たつひこ氏の傑作マンガ?です。
(麻生さんもお読みになったんでしょうかねぇ?)
ワタシは「がきデカ」のあとで「光る風」を知ったのですが、
順番としては「光る風」のあとに「がきデカ」が出版されています。

んで、その「光る風」の中に、こんな興味深い一節があります。


<引用>

いっぽう 外務省は
“国連協力法案”なるものを作成
国連が世界の平和および
安全の維持または回復のために
軍事力の行使を必要とみとめ
そのための措置を決意した場合は
政府は 国防隊をふくめた
人員労力の提供 飛行場 港湾その他
基地の提供 物資 輸送手段の提供
などをおこなうことができる」ーとした

・・・・・・・・・

そして 国防隊法の一部改正部分についても
海外派兵を法的に根拠づける
ため 任務規定の条文に
「国際平和と安全のために」
ということばを追加して
それらの行為を正当化し
美化しようとした
のであった

</引用>
 

この一節をチョイ♪チョイ♪とイジッてみると・・・


<変更>

いっぽう 外務省は
“テロリスト特別措置法”なるものを作成
国際社会がテロリストの脅威からの平和および安全の
維持または回復のために
軍事力の行使を必要とみとめ
そのための措置を決意した場合は
政府は自衛隊をふくめた人員
労力の提供 飛行場 港湾その他
基地の提供 物資 輸送手段の提供
などをおこなうことができる」ーとした

・・・・・・・・・

そして自衛隊法の一部改正部分についても
海外派兵を法的に根拠づけるため

任務規定の条文に
「国際平和と安全のために」
ということばを追加して
それらの行為を正当化し
美化しようとした
のであった

</変更>


・・・アレアレ?


「光る風」が少年マガジンにて連載が始まったのが1970年。
70年安保闘争真っ只中のときだったワケですねぇ。
今から40年近く前に、当時の日本人は今の日本の現状を予測か?

70年安保以降、安保闘争はおきていません。
80年安保、90年安保、2000年安保闘争が
あってもオカしくはなかった。

しかし急速に発展した経済によって国民の意識は変わってしまった。

「何よりも先ず物質的に豊かな暮らしだ。」と。

 

「光る風」の世界が現代の日本そのままだとしたら、
さらに30年後はリアル「北斗の拳」の世界になってたりして・・・

イヤだなぁw。モゥ!


ちなみに「光る風」にはヒーローは登場しません。
主人公(弦)にしても時代の奔流に弄ばれ続け最後はボロボロ。
でも、そこにアリティーがあると思うのです。

ワタシにしても、別に立派な人間でもなく、どちらかというと
スリにサイフを抜かれるような間抜け?な人間。
そんなフツーの(一部間抜けな)人間の集まりこそが「社会」なワケで、
だからこそ、お互いに助け合い、尊重し合わないと・・・でしょ?
「ヒーロー」が全てを解決してくれるような期待を抱くということは

「ヒーロー」に全てを委ねなければならないゆえ、

危険も伴なうことを理解しなければならないと思うのですよ。
(かつてはヒトラーも「ヒーロー」でしたね♪)


自分たちのことは自分たちで決める。

これからの時代に必要なのは一人一人の意識改革かも知れません。
たとえサイフをスラれてスッカラカンになったとしても、
誰かがスッと救いの手を差し伸べてくれるような「社会」
そんな「社会」がずっと続くことを、
「実感」として願って止まない次第です。はい。


<リンク>

『中春 こまわり君』,そして『光る風』(筑摩文庫 上下巻)
http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho53.htm 

道新マンガコラム 「光る風」山上たつひこ作
http://www.d3.dion.ne.jp/~yumeya/doushin-7.html 

ろんど 9 山上たつひこ『光る風』を読んだ。
http://www.janjanblog.jp/user/rondo/rondo/2492.html 

Yahoo!コミック 光る風シリーズ一覧(立ち読みアリ)
http://comics.yahoo.co.jp/10days/yamagami01/hikaruka01/list/list_0001.html 
 
</リンク>


でわっ!

2007年9月18日火曜日

我々は、我々なのだ

唐突ですが、「風の谷のナウシカ」の原版のなかで、

「オーム(王蟲)が科学者によって創造されたとしても、高貴な魂はオーム自身のものだ。」

とナウシカが語るくだりがあるのですが(記憶では)
自分自身を振り返って見るに、
「自分」という存在は自分以外の「他人」の存在によって成り立っているワケで、
いわば「自分」とは「他人」集まりである「社会」によって
産み出された「存在」とも解釈出来るのでは?

確かに「社会」があるから今の自分がある。
「社会」があるから「仕事」にありつき「生活」することが出来る。
「社会」があるから「仕事」がなくても「生活保護」や、
他人の「援助」を受けることが出来る。


人間は一人では弱い存在。


だから「社会」という共同生活単位が必要になる。

で、昔の人は行動範囲も狭かったので、「社会」の範囲も狭かったのでしょうが、
文明の進歩とともに「社会」の範囲もどんどんひろがっって
20世紀初頭には「国家」というレベルにまで
「社会」が拡張されたように思うのですよ。

民族、文化の最大公約数としての「社会」=「国家」
という体制の中で100年が過ぎ、
その間にも文明は加速度的に進歩したのにかかわらず
「社会」の単位は「国家」のまま固定されているわけです。
(もちろん異文化、異人種に対する拒否反応は動物的に自然な反応ですが。)

「国」とはなんなんでしょうか?

「愛国心」について問われるなら、まず真っ先に思い浮かべるのは
自分の家族であり、日本の表情豊かな四季の自然であったり、
幼い頃遊びまわった自分の家の近所であったり・・・
「永田町」「国会議事堂」「政治家センセイの顔」
でないことだけは確かです。

それでイイと思うんですよね。ワタシ的には。
イラクで戦死した多くの兵士も、最後に思い浮かべるのは「母親」の顔であったり、
よく釣りに行った「近所の川」だったり・・・ね。
自分の国の国旗を思い浮かべながら死ぬ兵士なんてホンの一握りじゃないでしょうか?
(まったくいないとは言いきれません。)

前置き?が長くなりましたが、現在
「麻生」さんと「福田」さんが総裁選で争っていますが、
「テロ対策特別措置法」に関するお二人のコメントで共通しているのが

「国際社会から必要とされている。」

という認識です。

この場合の「国際社会」とはイラクの国民も含まれているのでしょうか?
もとよりアメリカの国民も支持しているのでしょか?


<記事>

2007/09/16-09:23 米首都で数千人が反戦デモ=150人を拘束

【ワシントン15日時事】米国の首都ワシントンで15日、イラク戦争の即時終結を訴える反戦デモがホワイトハウス前と議会前で繰り広げられ、数千人が参加した。米メディアによると、議会前では規制のバリケードを突破しようとしたデモ参加者約150人が警官隊に拘束された。反戦デモに対抗するイラク駐留米軍支持のデモも行われ、週末のワシントンはイラク戦争をめぐる賛否の渦に巻き込まれた。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007091600019&m=rss (時事通信)

</記事>


どうやら彼ら(政治家)の言う「国家」、「国際社会」とは、「国民」を含まない

「戦略」の「カケヒキ」のための「道具」にしか過ぎないのかも。

ワタシは思うのですよ。「国」を見るのではなく、「人」を見なければならないと。

「某国が攻めて来る」とか、

「日本が乗っ取られる」とか、

まことしやかに言う人がありますが、
例えば、「北朝鮮の一般の国民」
日本に攻め込もうと本気で考えているのでしょうか?
「アメリカの一般の国民」「イラクの一般の国民」
窮状を望んでいるのでしょうか?

いま、「社会」の規模はいやおう無く拡大しています。
中国に原発が増えれば「放射能物質」
確実に日本にまで飛来します。
もとより中国国内でも大問題となるでしょう。
中国政府の「方針」で「中国国民」は甚大な被害をこうむるワケですが、
残念ながら中国国民には政府の方針に反旗を翻す
力が与えられていないのが現状なのでしょう。

しかるに日本国民は先の参議院選挙
自らの意思を政府に突きつける事ができました。

「政治家は、あくまでも国民の代理人なのだ!」・・・と。

このことは、世界中の「国家」という枠に囚われた庶民にも同様に言えることで、
まず国民どうし、庶民どうしの相互理解、協調が無くしては、
この「世界」という「大きな社会」=共同生活単位が
成り立たないように思うわけです。はい。
で、

我々は「国家」などではなく、「我々は、我々なのだ!」

と表題に戻るわけです。

にしても、こんなにいろいろ考えさせてくれる「風の谷のナウシカ(原版)」って・・・

奥が深いわぁ~。


でわっ!