2009年8月31日月曜日

進歩か、後退か 25

「進歩か、後退か」シリーズ?も、
今回をもってひとまず終わることにします。
2月のスタートから、長々とお付き合いいただき、
(そんな物好きいるか?)

ありがとうございました。

〆の言葉?と言ってはナンですが、
今回の自民党から民主党への政権交代をもって

「歴史が動いた!」

と言う論調が見られますが、ワタシ的には

それはチガウダロッ!?

と、疑問を感じるワケですね。

「人が動いた!」

だから変化が生まれたんじゃないの?と。

人は、歴史に流されるだけの受動的な存在ではなく、
人が歴史を創ってきたことを自覚しなければ、
人はいとも容易く、どこかの誰かさんが作った
安っぽい「物語」にまた絡め取られてしまうんだろうなぁ。

私事で恐縮ですが、ワタシも心機一転して
新しい生活のスタートを切ることになりました。
もちろん新しい生活には不安がてんこ盛りなワケですが、
時として、「ヤルしかない」局面というのが
人生においてはままあるワケで、理屈じゃなく

ヤルしかない場合には、ヤルしかない。

ワケですね。

で、今回の選挙の場合、もうみんながね?

ヤルしかない!

という状況に追い込まれていたように思うわけです。
だからこそ、勇気を出して前へ一歩踏み出した。
その勇気に敬意を表す次第です。はい。

ただ、勇気と言うのは、正しい知識があって、
進むべき道がシッカリ見えてこそ、その力が
最大限に発揮できるものの様に思うわけです。

その点で、インターネットの恩恵によって
多くの情報を得られるようになった時代に生きている
今のワタシたちはラッキーなのかも知れません。

日本も新しい一歩をを踏み出しました。
ワタシも新しい一歩をを踏み出します。

右を向いても、左を見ても、問題は山積みです。
政治と日常はかけ離れた場所にあるのではなく、
日常生活の延長が政治なのではないでしょうか。
また、そうでなくてはならないという事を 、
日本国憲法前文から汲み取ったのは
ワタシ個人の思い込みですかね・・・

ま、そんな日常の暮らしの中でいま想う事はただひとつ。

ヤラレてたまるかっ!

・・・と。


でわっ!

2009年8月28日金曜日

進歩か、後退か 24

進歩か、後退か 22

で、「生活の指標としての物語」というコトを述べましたが、
具体的にひとつ例を挙げるならば、「日本国憲法前文」
ワタシたちが寄る辺立つ「物語」のひとつに
なり得るのではなかろうか?と。



日本国憲法前文


日本国民は、

正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

われらとわれらの子孫のために、

諸国民との協和による成果と、

わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、

ここに主権が国民に存することを宣言し、

この憲法を確定する。

そもそも国政は、

国民の厳粛な信託によるものであつて、

その権威は国民に由来し、

その権力は国民の代表者がこれを行使し、

その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、

この憲法はかかる原理に基くものである。



われらは、

これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


日本国民は、

恒久の平和を念願し、

人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、

われらの安全と生存を保持しようと決意した。



われらは、

平和を維持し、

専制と隷従、

圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、

名誉ある地位を占めたいと思ふ。



われらは、

全世界の国民が、

ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、

平和のうちに生存する権利を有することを確認する。



われらは、

いづれの国家も、

自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、

政治道徳の法則は、

普遍的なものであり、

この法則に従ふことは、

自国の主権を維持し、

他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。



日本国民は、

国家の名誉にかけ、

全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

(1946年11月3日公布)


しかし、まぁ・・・アレだ・・・
読めば読むほど、サムライの「矜持」に溢れた
日本らしい?「物語」だなぁwww・・・と。

つまり、国民(有権者)一人一人に、

サムライであれ!

・・・と?



でわっ!

2009年8月27日木曜日

進歩か、後退か 23

横綱がケンシロウと闘った。
横綱は秒殺された・・・

ヒデブッ!



侍がケンシロウと闘った。
侍は秒殺された・・・

ノブシッ!



テロリストがケンシロウと闘った。
テロリストは秒殺された・・・

ゲバラッ!



ワタシ、こういうアホなことを
路上カフェでコーヒーすすりながら
ボーっと考えるのが結構好きなんです。
(ベトナムは平和でえぇなぁwww)


でわっ!

2009年8月25日火曜日

進歩か、後退か 22

<貼付>

カスタマーレビュー
ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論


流石だとは思いますが, 2009/7/11
By OH - レビューをすべて見る

どうも理想の天皇像、あるべき天皇像を設定し、それを通し都合よく歴史を解釈し「物語」を創っているように思えてなりません。 国民には「物語」が必要であると彼は別著でいっているので確信犯なのかもしれませんが。

まず「記紀」及び古代天皇に関するものと明治以降の天皇に関する記述が多い。

明治以降の天皇制については問題提起される事がしばしばですが、彼は「記紀」に天皇本来の理想形を見出し、明治以降の天皇が如何にそれに合致しているのかを言い訳がましく述べているようにみえて仕方がない。

それ自体に異論はないが、平安期から江戸期の天皇についての記述が余りに少ないのはバランスを欠いたものであろう。
何か古代からいきなり近代に天皇像が直結してしまうイメージ。その間の国家体制を否定しているかの如きの印象を受ける。
これでは武家政権を否定し「神武創業に還る」と宣言した明治維新政府と同じスタンスではないか?
彼らにとって「天皇の伝統」以外は建国に遡ってまでも否定されなければならない対象だったのである。

また「祭祀王」についての解釈も「神道」の最高権威であるかの記述であるが、それも疑問である。

「神道」(こう言っていいものか微妙であるが)は当然「記紀」以前よりあるものである。
「神道」は本来非常にレンジの広い信仰形態であり民間の神社神道も皇室祭祀もそれぞれ一つの側面とみたほうが妥当ではないだろうか。そこに当然仏教も入ってくる余地があるのだが、庶民が八幡大菩薩のバックに天皇の威光を感じていたかは微妙なとこだろう。

皇室祭祀については相当数ページをさいてその意義を強調している。
民の安泰を祈るっておられる事について異論はない。
しかしその本質は日本国の祭祀王たる天皇の「魂・ミタマ」の強壮・増進、再生=タマフリ・ミタマノフユにある(この辺りはフレイザーや折口を読まれたし)。しかも秘儀であり、ローマ教皇が公開ミサをやるのと意味が違うのである。

また、国や民の安泰を祈るといえば記されるべきは仏教の「鎮護国家」思想であるが、それも無い。

奈良以降の仏教・仏法と天皇の抜き差し成らない関係が全く記されていないのは恣意的と言わざる得ない。
仏壇もあれば位牌もあったのである(当然明治政府が縁切りさせた)。
それらの考察もなく古代以来の「祭祀王」といわれてもなんか説得力がない。

また「禁秘抄」の 順徳天皇を登場させてますが、この御方、後鳥羽上皇と一緒に承久の乱で倒幕しようとした当事者ですよ。

皇統意識が特別強いこの御方を例にとられましても、という感じがします。光格天皇にしてもしかりです。

ただ色々屁理屈申しましたが、やはりこの人の力量は相当なもんだと思います。この力技は流石です

</貼付>

ワタシ、かの本は読んでいないので
本について評論する気はないのですが、
すでに読んだ人のレビューを見て気になったのが
「物語」という視点なのですわ。

人は物語を求める。

これはもう、人間の本能と言っても
差し支えないんじゃないでしょうか?

身近な?例(あまり適当ではないかもしれませんが)でいうと
夫や、恋人にDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けているのに
それでも分れられない女性に対して、周りから見れば
「何で分かれないのか?」
と客観的に見れるワケですが、本人にしてみると
「ワタシがいなくなったらこの人はダメになってしまう。」
「この人にはワタシが必要なのよ!」
という「物語」が頭の中にあり、それに縛られているが故、
自分の現状が理解できない、受け入れられない
ということはないでしょうか?

ま、あくまでも一例なので他にも理由はあるでしょうが、
「この人にはワタシが必要なのよ!」
のウラ返しは、自分の存在理由の確認でもあるワケで、
自己の存在理由を求めるのが、人間という生き物の

性(さが)

であるのは、だれでも自分の思春期を思い起こしてみれば
何となwwwく思い当たるフシがあるんじゃないでしょうか?

つまり、「物語」を与えられることによって人は安心し、
(自己の存在理由を見出し)
その「物語」に沿って行動しようとするのではないでしょうか?

「自分探しの旅」と称して、若者が(最近は中年も?)
アッチコッチをフラフラ旅するのも「物語」を求めるが故。
んでもって、ある程度年がいくと、

探さなくても自分は常に此処に在る。

ということに思い至るワケですが・・・

もっとも大人?になったら大人になったで、
また別な「物語」を見出して、毎日を送るワケですね。
そのひとつが今回取り上げた「天皇論」の様な書籍であったり、
所謂「左翼」や「右翼」といった思想であったり、
さらに拡げるならば「宗教」であったり・・・

人間の基本的な行動って、動物と何ら変わりないワケで、

寝て、起きて、食って、出して、子孫を残して

通常、一生の間にこれを延々と繰り返すだけでしょ?
ところが大脳新皮質が発達したおかげ?で、

自己の存在理由

なんて厄介なものを求めるようになってしまい
需要に応じて「物語」の作り手も現れたワケだ。

・・・かといってね?ワタシは「物語」を全否定はしません。
ただね、間違った「物語」には注意が必要だと思うワケです。

生活の指標としての「物語」

は、健全な社会生活を築く上で必要でしょうが、

「物語」のための日常生活

になると、チョット違うんじゃないかな?
と思う次第です。はい。

・・・というのも、アレだ、ネット上では様々な人の意見が
交錯しているわけですが、中には

自分の「物語」に酔ってんの?

と、思えるような書き込みもまぁ、時には見られ、
(ワタシもその一人かもしれませんが・・・)
「物語」「自分」との境界線の線引きというのは、
一流?の哲学者でもムズカシイんじゃなかろうか?と。
いわんや、ワタシのようなフツwwwの人間であれば、

「物語」を求め、「物語」に絡めとられる。

のは無理もないことなのかな?と。

(ジッサイね?郵政解散選挙の時には・・・)
ま、「選挙」というのは、「物語」の売り込み合戦かな?
なんて、おぼろげに思う今日この頃・・・
だからこそ、ワタシたちは間違った「物語」から
目覚めなければいけないんじゃなかろうか?と。
(なんか、MATRIXの世界みたい。)


でわっ!

2009年8月23日日曜日

進歩か、後退か 21

どwwwも、ごぶさたしておりまス。
さっそくですが、本日、行ってまいりました。

第45回衆議院議員総選挙

の在外選挙に・・・
いやwww、知り合いから連絡がなかったら
ウッカリ行きそびれるとこでしたワ♪
今日が最終日だったんですよwww。ベトナムは。

なんせココんトコロ身の回りがやたらバタバタしてて、
ブログも書く気になれなかったんですケド
アレですなぁwww、庶民の生活なんてそんなもん?

とは言っても、こっちが忙しさにかまけてる間
治世を任せた連中が勝手をやり散らかしても困るんで
やっぱり行っとかないとね?選挙は。・・・でしょ?
日本という国の主権者が誰であるかを
勘違いした連中に分からせる絶好の機会ですから。

まぁ、選挙というとね?ドコの政党が勝つだの負けるだの、
政党、政治家が主役のように新聞、ニュースなどで
日々刻々取り上げられるわけですが、ワタシ思うに・・・

選挙なんて通過点に過ぎない

んじゃないの?

ドコドコの政党が政権をとったら日本がダメになるとか、
あの政党に任せれば安心だとか、
そういう他人任せ(丸投げ?)の未来しか描けない
有権者(一般庶民)の意識ってどwwなのよ?

ま、昔はね?情報が限られていたから
お上の言うことを鵜呑みにするしかなかったワケですが
今の時代、ネット上でいくらでも情報が拾えます。
もちろん珠玉混同ではありますが、
いろんな情報を比較すれば、そこそこ正確な情報を
だれでも知ることができるワケでしょ?

となれば、一昔前の政治家くらいの知識は
だれでも持てるようになり、当然、

政治についても一家言くらいはあるワケだ。

ま、回りくどくなりましたが、要は国民一人一人が
日本の、世界の未来について考え、行動するための

ポテンシャル

を、十分に持ちつつあるのが今の時代のように
ワタシ的には思うワケです。はい。

ドコが勝とうが、誰が勝とうが、これからの時代の舵取りは
間違いなく、フツwwwに暮らすフツwwwの人たちに
委ねられるべき・・・と言うか、世界中のフツwwwの人たちが
その自覚を持たにゃいかんのじゃなかろうか?
・・・と、思う次第です。

ダレもがゲバラ

になれる時代なワケですねwww。


でわっ!


追記:
在外選挙投票を済ませると、在外選挙認証にスタンプをね
こう、ポンッ!と押してくれるんですケドね、
このスタンプがたまったら・・・

ヤクルト(益多)

でも貰えないかなぁwww。(失敬!)