2015年2月7日土曜日

人質事件は終わったのか?

 日本人人質がテロリスト?によって殺害されてしまったのだとしたら、とても残念な結果を迎えたことになり、お二人のご冥福をお祈りする他ありませんが、お悔やみを言うにはまだ早いですよね?その前にひとつ・・・

一番大切なことが残っていますよね?

 それは殺害されたと見られる湯川氏後藤氏両人の・・・

遺体の本人確認作業です!


政府・与党、邦人安全確保へ総力=安倍首相「テロには屈せず」-人質事件

 政府・与党は2日午前、過激組織「イスラム国」に後藤健二さんが殺害されたとみられる映像が公開されたことを受け、安倍晋三首相も出席して臨時の連絡会議を首相官邸で開いた。首相は、テロ封じ込めのため国際社会と協力する意向を重ねて強調するとともに、「日本がテロに屈することは決してない。政府・与党の総力を挙げて日本人の安全を確保する」と表明した。

 連絡会議で首相は、国内テロの未然防止に向け、水際対策や重要施設警備の強化に全力を挙げる考えを示すとともに、「残虐非道のテロリストたちを絶対に許さない。罪を必ず償わせるため、国際社会と連携する」と改めて訴えた。

 首相はさらに、「今回の事件によって、テロの恐怖におびえ、わが国の(国際社会との)足並みが乱れるようなことがあれば、卑劣なテロリストたちの思うつぼだ」と指摘、安倍政権の外交姿勢に変化はないことを強調した。

 首相は2日午前の参院予算委員会でも、民主党の那谷屋正義氏の質問に答え、「湯川遥菜さん、後藤さんの2人がテロの犠牲になられたことに哀悼の誠をささげる。日本人の命が奪われたことは無念であり、痛恨の極みだ」と表明。「日本人の安全確保にさらに全力を挙げるとともにテロ対策、海外の邦人保護に万全を期す」と述べた。

 一方、米軍主導の有志連合による対イスラム国空爆作戦に自衛隊が後方支援を行う可能性について、首相は「考えていない」と否定。空爆への参加も「あり得ない」と述べた。

(2015/02/02-10:23)


 人質解放交渉が残念な結果に終わったにしても、遺体の引き取りは世界的な・・・というか宗教を超えた普遍的な風習であり、これを拒否することはイスラム教徒をも含めた世界的な世論のバッシングを浴びることになり、「イスラム国」らしきグループはイスラム教徒としての正統性を一瞬で失うワケで、イスラム教徒からも・・・

アラーを利用する、反イスラム集団

・・・と認定されることになります。それ故日本政府としては今後の「イスラム国」対策への「布石」としても、必ず遺体の返還を要求する必要があるということです。

 目的を達成したのなら遺体を返還するのがスジであり、日本政府は先ずこの点で、「イスラム国」らしきグループに「強い態度」で臨むことができるワケで(交渉パイプを持っていれば)、まさか?要求しないなんてコトはないですよね?

 事件の結果はどうであれ、ケジメを付けなければお亡くなりになった?湯川氏、後藤氏も浮かばれませんし、日本の墓地に埋葬してあげなければカワイソウです




 政府、マスコミは「怒り」という感情を煽り、直情的に「テロとの闘い」に突き進もうと「プロパガンダ」を展開しているかのよう?ですが・・・

その前にやることがあるだろう?

・・・という話です。はい。


【主張】後藤さん殺害映像 残虐な犯罪集団を許すな 対テロで国際社会と連携
産経ニュース 2015.2.2 05:02更新

 過激組織「イスラム国」に拘束されていたジャーナリストの後藤健二さんが殺害されたとみられる残忍な映像が、インターネット上に公開された。

 後藤さんとともに拘束されていた湯川遥菜さんも、すでに殺害されたとみられている。残虐で卑劣な犯罪行為である。どんな主張があるにせよ、暴力や恐怖によって相手を屈服させようとするテロリズムを許すことはできない。

 安倍晋三首相は「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携していく」と述べた。

 日本の歩むべき道は、テロと戦う国際社会とともにあることを強く再確認したい


≪覚悟持つ社会の醸成を≫

 後藤さんはこれまで、主に紛争や貧困など厳しい環境にある子供たちの姿を追い、書籍や映像で伝えてきた。後藤さんを知る多くの人が、彼の生還を待っていた。彼の新たな報告や作品を待っていた。殺害が事実なら、それもかなわぬこととなる。

 後藤さんと湯川さんが拘束された映像が流れたのは1月20日だった。ナイフを手にした男は身代金として2億ドル(約236億円)を日本政府に要求した。安倍首相が中東歴訪中に表明した、避難民に対する人道支援の額と同額である。

 金額の多寡に関係なく、これを受け入れるわけにはいかなかった。テロに屈すれば新たなテロを誘発する。身代金は次なるテロの資金となり、日本が脅迫に応じる国であると周知されれば日本人は必ずまた誘拐の標的になる。

 音声は日本政府を批判し、日本国民には政府に圧力をかけるよう要求した。これに呼応する形で国内の野党や一部メディアから同様の批判の声が相次いだが、日本の国民は冷静だった。

 産経新聞社とフジニュースネットワークが実施した合同世論調査によると、イスラム国による脅迫事件への政府の対応について58・9%が「取り組みは十分」と評価し、67・3%が身代金を「支払うべきでない」と答えた。

 後藤さんを殺害したとみられる映像は再び音声で日本政府を批判し、「日本にとっての悪夢の始まりだ」と脅した。理不尽な脅迫に対峙(たいじ)するためには、政府が毅然(きぜん)とした態度をみせるとともに、国民一人一人がテロに対して揺るがぬ心を持つ、覚悟を持った社会の醸成が必要となる。事件の責任を日本政府に求めるのは誤りだ。憎むべきは、テロ集団である

 イスラム国は2度目の脅迫画像をネット上に公開した際に身代金の要求を引っ込め、イラク人死刑囚の釈放を要求した。3度目の画像で後藤さんはイスラム国に捕らわれたヨルダン軍パイロットの写真を持たされ、パイロットの殺害も予告していた。

 死刑囚は2005年にアンマンで60人以上の尊い生命を奪った連続爆破テロの実行犯である。逮捕されたのは自爆装置の起爆に失敗し、不発に終わったためだ。釈放には多くのヨルダン国民が反対し、ヨルダン政府もパイロットの生存確認を最優先させた。

 ヨルダンの懸命の対応には感謝すべきで非難することは誤りだ。テロに屈しない。自国民の保護を優先させる。いずれも批判の対象とはなり得ない。両国の立場が逆だったとしても同様である。


≪日本として責任果たせ≫

 オバマ米大統領は「安倍晋三首相や日本国民と連帯し、この野蛮な行為を糾弾する。われわれは中東や世界の平和と繁栄を前進させるため、日本が着実に取り組んでいることを称賛する」などとする声明を発表した。

 キャメロン英首相「人命を一顧だにしない悪の権化」だと、イスラム国を強く非難した。

 中東やアフリカなどイスラム圏の20カ国・地域からなる「在京アラブ外交団」は1月27日、「イスラムの気高い教えや原則をかたってこのような野蛮な行為が行われたことに対し、遺憾の意を表する」と声明を発表していた。

 忘れてならないのは、「イスラム国」は国ではなく、犯罪集団であり、イスラム社会にとっても敵であるという事実だ。

 安倍首相は改めて「日本がテロに屈することは決してない」と述べ、中東への人道支援をさらに拡充することを表明した。今後もイスラム諸国を含むテロと戦う国際社会と連携し、日本としての責任を果たさなくてはならない。


 繰り返しますが湯川氏、後藤氏両人のご遺体の引取りと本人確認は・・・

絶対にやらなければならない!

・・・ということで、それなくしては今回の事件そのものが・・・

本当にあったのか?

・・・ということにもなりかねないワケです。なぜなら先般も述べたように・・・

犯人すら特定されていない

・・・というのが実態なワケで、テロリストに誘拐されたのは確かでも、それが「イスラム国」であると確定されたワケではなく、また湯川氏、後藤氏にしてもネット上の動画を根拠に・・・

殺害されたらしい

・・・と結論付けているだけで、「証拠」として確実なものは何も無いワケです。アレですか?裁判所ではこんなものを証拠として採用するんですか?だとしたら・・・

都市伝説を証言として採用する

・・・ようなもので、とても論理的かつ合理的な人間の振る舞いとは思えず、日本の裁判において「冤罪」が頻発するのも頷けます。

 そしてそうした「冤罪」の発生にマスコミが一役買っているとしたら・・・

その罪は重い!

・・・と言わざるを得ません。はい。


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ビンラディン容疑者殺害:米政権の説明にぶれ 不自然さも
毎日新聞 2011年5月8日

【ワシントン白戸圭一】国際テロ組織アルカイダの最高指導者、ウサマ・ビンラディン容疑者(54)の殺害を巡り、オバマ米政権の説明がぶれている。遺体の扱いなどイスラム教の常識とは相いれない措置もあり、当局者の発言内容が食い違うなど不自然さが際立っている

 オバマ大統領は6日夜放映の米CBSテレビのインタビューで、ビンラディン容疑者を殺害した場合、「どのように遺体を処理するかを事前に考えておくことが重要だと思った」と発言、イスラム法の専門家らに相談して水葬に付す方針を作戦前に決めていたことを明らかにした。当初は、遺体を引き受けるイスラム国がなかったため水葬されたと伝えられていた。

 遺体の扱いを巡っては、ブレナー大統領補佐官(対テロ担当)が2日の記者会見で「複数の(イスラム教の)専門家に相談し、全員が海に葬ることに賛成した」と述べていた。だが、土葬が常識のイスラム社会では海へ葬ったことへの反発が強まっており、墓所がテロリストの「聖地」になることを懸念した政権の作為が疑われている。

 一方、ビンラディン容疑者殺害の状況について、ブレナー補佐官は2日の会見で「抵抗しなければ生きたまま拘束する準備をしていた」と述べたうえで、同容疑者が「銃撃戦に加わっていた」と明言した。ところが、カーニー大統領報道官は翌3日の会見で、同容疑者は「武装していなかった」と発言。「他に武装した人物が多数おり、銃撃戦が発生した」と釈明し、殺害を正当化した。

 しかし、各国メディアによるパキスタンでの取材などで、米特殊部隊が一方的に容疑者を殺害した疑いが浮上。米NBCテレビは5日、米政府高官の話として、部隊の任務は当初から「殺害」だったと伝えた。NBCによると、部隊が潜伏先の建物を急襲した際、ビンラディン容疑者側で発砲したのは1人だけだったという。

 4日発表された米紙ニューヨーク・タイムズとCBSテレビの世論調査では、ビンラディン容疑者の殺害を受け、オバマ大統領の支持率は57%と、4月の前回調査から11ポイント上昇した。だが、作戦に関する政権側の不自然な説明に、米メディアは殺害は計画的だったとの疑念を深めており、批判の矛先が政権に向かえば、支持率上昇は一過性の現象に終わる可能性がある。


知力勝負だw!






人間ナメんなよ!


でわっ!


追記:

イラク邦人殺害: 香田さんの遺体が福岡空港に到着
毎日新聞 2004年11月3日 21時05分

 イラクでイスラム過激派の人質となり殺害された香田証生(こうだしょうせい)さん(24)=福岡県直方市出身=の遺体が3日、日本に到着した。父真澄さん(54)、母節子さん(50)、兄真生さん(26)らが福岡空港で迎え、証生さんが旅に出た今年1月以来となる無言の対面をした。

 遺体は同日夜、福岡県警直方署に運ばれた。実況見分の後、4日にも司法解剖される。通夜は4日午後7時、葬儀は5日正午、同市頓野の善光会館直方会場で行われる。

 現地時間の2日午後(日本時間3日未明)に民間機でクウェートを出発した証生さんの遺体は、アラブ首長国連邦のドバイ、関西国際空港を経由し、午後8時28分、福岡空港に到着。遺族らとの対面後、9時半すぎに郷里に向かった。遺体に同行していた現地対策本部長の谷川秀善副外相や麻生渡福岡県知事、向野敏昭直方市長が空港内で家族と面会し、お悔やみを述べた。 【清水健二】


◇香田証生さんが無言の帰国

 「見聞を広めたい」と旅立った息子の無言の帰国。3日夜、福岡空港に到着した香田証生さんは、やっと両親のもとに戻った。だが「また日本に戻りたいです」という香田さんの望みは、生きてかなえられなかった。

 「一人の若者のために国を挙げて努力していただき、ありがとうございます」。父真澄さんは、空港で面会した谷川副外相らに、こう言って頭を下げたという。

 家族らは緊張した様子で、テーブルの飲み物にも手をつけない。谷川副外相は「残念なことになりましたが、やっと日本に連れて帰ることができました」と話し、アンマンのホテルにあった香田さんの遺品とみられる死海の石と紙ナプキンを手渡した。

 約10分の面会を終え、濃い色のスーツの真澄さんと、黒いワンピースの母節子さんは、うつむき加減で固く手をつなぎ、息子のもとへ向かった。

 証生さんの遺体は午後8時半、長さ約2.5メートルの銀色のコンテナに入ったまま機体から降ろされ、トレーラーで貨物エリアに運ばれた。遺族の意向で、ひつぎの霊きゅう車への移し替えは、シャッターが下ろされた格納庫内で行われ、9時半すぎ、カメラのフラッシュを浴びながら、遺族とともに空港を出発した。直方署に着いたのは午後10時43分。10カ月ぶりの“帰郷”だった

 真澄さんはこの日午後6時半、自宅前に姿を見せた。そのひじに、節子さんがつかまるように腕をかける。約100メートル離れたマイクロバスまで、ゆっくりとした足取りで進み、兄真生さん、叔母由美さん(40)らとともに乗り込んだ。



菅長官「遺体の帰国、実質的には難しい」
日本テレビ系(NNN) 2015年2月2日(月)12時6分配信

 国会では2日、参議院の予算委員会が始まり、イスラム過激派組織「イスラム国」による日本人2人の殺害事件を巡り、野党側は今回の事件を巡る政府の対応をただした。首相官邸前から槻木亮太記者が中継。

 官邸の玄関前には、弔意を表すため、半旗が掲げられている。予算委員会の質疑でも、安倍首相は、「テロに屈することはない」と改めて強調した

 民主党・那谷屋正義参院議員「これまでの政府の対応について、安倍総理に説明を求めたい」

 安倍首相「結果として2人の日本人の命が奪われたことは誠に無念であり、痛恨の極みであります。テロに決して屈してはなりませんし、テロに屈することはありません。テロの脅かしに屈すれば、さらなるテロを招きかねない

 さらに安倍首相は、アメリカなどの「有志連合」が行っている「イスラム国」への空爆について、「日本が参加することはあり得ないし、後方支援をするということも考えていない」と明言した。

 一方、菅官房長官は2日午前の会見で、2人の遺体の帰国をどう実現させるかについて次のように述べた

 菅長官「あのようなテロ集団相手の極めて危険な箇所でありますので、政府としてはご遺体についても最善の情報収集、最大限、詰めてまいりたい

 菅長官はこのように述べ、帰国の実現は実質的には難しいとの認識をにじませた


このちがいはナンなのよ!?


『1984年』 3-6

『1984年』
ジョージ・オーウェル


第三部
第六章


(01) チェスナットツリーにはほとんど人がいなかった。埃っぽいテーブルの上に窓から陽の光が射している。人気のない15時。テレスクリーンからは安っぽい音楽が流れていた。

(02) ウィンストンはいつもの隅の席に座り、空のグラスを見つめていた。自分を見つめる向かいの壁の大きな顔にときおり目をやる。ビッグ・ブラザーがあなたを見ている、見出しにはそう書かれていた。頼んでもいないのにウェイターが近づいてくると彼のグラスにヴィクトリー・ジンを満たし、コルクに細い管の付いた別のボトルを振ってそこに何滴か落とした。それはこのカフェ自慢のクローブで香りづけしたサッカリンだった。

(03) ウィンストンはテレスクリーンを聞いていた。今は音楽が流れているだけだったがいつ平和省からの速報があるかもわからなかった。アフリカの前線からの報道は非常に不穏なものだった。寝ても覚めても一日中、彼はその心配をしていた。ユーラシア軍(オセアニアはユーラシアと戦争状態にあった。オセアニアはずっとユーラシアと戦争しているのだ)は恐るべきスピードで南下していた。正午の発表でははっきりとした地域の名前はでなかったがコンゴ川の河口は既に戦場と化している可能性もあった。ブラザヴィルとレオポルドヴィルは危険に瀕している。確認するために地図を見る必要もない。それはたんに中央アフリカを失うかどうかという問題ではない。開戦以来初めてオセアニア自体の領土が脅かされているのだ。


(04) 恐怖とは異なる、興奮ともつかない暴力的な感情が彼の中で燃え上がり、また消えていった。彼は戦争について考えるのを止めた。最近では一つの事について一度に長く考え続けることができなくなっていた。グラスを取り上げると彼は一息に飲み干した。いつものようにジンが体の震えとわずかな吐き気を催させる。この物質は恐ろしいものだった。クローブとサッカリンはそれ自体でも十分にむかつきを覚えさせるものだが、それでも気の抜けた油臭い匂いをごまかすことはできていなかった。最悪なことに四六時中体に染み付いて離れないジンの匂いが、彼の頭の中で奴らの匂いと結びついてしまっているのだ・・・

(05) 彼はたとえ頭の中でも、決して奴らの名前を呼ぶことはなかったし、可能なかぎりその姿を思い浮かべないようにしていた。奴らとは彼がうっすらと憶えている、顔の近くに浮かびながら鼻孔を刺すあの匂いを発していたあれのことだ。ジンが食道を逆流し、彼は紫色の唇でげっぷをした。釈放された時に比べると体重は増え、昔の調子を取り戻していた・・・いやそれ以上だ。その姿は肥満体そのもので、鼻と頬の皮膚は真っ赤、はげ上がった頭皮は深いピンク色を帯びている。頼んでもいないのに再びウェイターが来て、チェス盤とチェスの問題が書かれたページを折った「ザ・タイムズ」の最新号を置く。それからウィンストンのグラスが空いているのを見ると、ジンのボトルを持ってきてグラスを満たした。注文する必要は無かった。彼の習慣を知っているのだ。チェス盤が常に彼を待ち構え、隅のテーブルはいつだって彼のために空けられていた。たとえ満席の時でも彼はそのテーブルを占領することができた。彼の近くに座っているところを見られたい者など誰もいない。何杯飲んだかなど気にすることさえなかった。ときたま勘定書だという薄汚い紙切れを渡されたが、実際の値段より割り引かれているのではないかといつも彼は感じていた。実際の値段より高くても別に違いはなかっただろう。今では十分な金があった。職さえあったのだ。閑職だったが以前の職よりも給料は良かった。

(06) テレスクリーンから流れる音楽が止まり、声が聞こえてきた。ウィンストンはよく聞こえるように頭を上げた。しかし聞こえてきたのは前線からの速報ではなかった。ただの豊富省からの短い告知だ。前四半期において第十次三カ年計画での靴ひもの生産高が98パーセント超過の見込みだとのことだった。


(07) 彼はチェスの問題をにらみながら駒を並べていった。二つのナイトがもつれ合う奇抜な終局面だ。「白の先手で二手以内にメイトする」ウィンストンはビッグ・ブラザーの肖像画を見上げた。チェックメイトするのは常に白だ、彼はぼんやりと秘密めいた気持ちで考えた。いつでも例外なくそう配置されているのだ。世界が始まって以来、黒が勝つようなチェスの問題などあったためしがない。これは善の悪に対する永遠不変の勝利を象徴しているのではないだろうか? 巨大な顔が静かな力に満ちて彼を見返していた。いつだって白が勝つのだ

(08) テレスクリーンから流れる声が一度止まり、打って変わった深刻な調子になって続いた。「15時30分から重大発表がありますので注意してください。15時30分です!これは最重要ニュースです。聞き逃さないよう注意してください。15時30分です!」鈴がなるような音楽が再び流れ始めた。

(09) ウィンストンの心臓は高鳴った。前線からの速報に違いない。発表されるのは悪いニュースに違いないと彼は本能的に感じた。興奮を抑えきれずにアフリカでの壊滅的敗北の想像が一日中、彼の頭に浮かんでは消えていった。決して破られることのなかった前線を分断し、アリの隊列のようにアフリカの端に殺到するユーラシア軍が目に見えるようだった。どんな方法で彼らを出し抜くことができるというのか? 西アフリカの海岸線が鮮明に彼の頭に浮かんだ。彼は白のナイトをつまみ上げるとチェス盤の上で動かした。急所は存在した。黒い大群が南部へ殺到している一方で後方に潜んでいた別の部隊が忽然と現れ、陸と海の連絡路を断つ。自分が念じればその別の部隊が現実のものになるような感覚さえ彼は持った。しかしすばやい行動が必要だ。もし相手がアフリカ全土を支配下に置いたり、喜望峰に飛行場や潜水艦基地を持てばオセアニアは二分されることになる。それが何を意味するのか。敗北、破壊、世界の再分割、党の崩壊だ!彼は深く息をした。途方も無い感情が錯綜した・・・しかしそれは正確には錯綜ではなかった。それは積み重なった感情の層で、その中でどの層がもっとも底にあるのか断言することはできなかった・・・それが彼の中でせめぎ合っているのだ。

(10) 衝動的な興奮が止まった。彼は白のナイトを元の場所に戻したが落ち着いてチェスの問題を考えることはできなかった。ほとんど無意識のうちに、彼はテーブルの上の埃に指で文字を書いていた

(11)
2+2=5

(12) 「彼らはあなたの内側には立ち入れない」彼女は言った。しかし彼らは内側に入りこめたのだ。「ここで君に起きたことは永遠に続く」オブライエンは言った。それは本当のことだった。決して元通りにすることのできない物が、自分自身の行いが存在するのだ。胸の中で何かが殺され、燃やし去られ、麻痺して消え去ってしまうのだ

(13) 彼女を見かけることもあったし、話しをしたことすらあった。別に危険なことでもなかった。自分の行動に彼らがほとんど関心がないことを本能的に感じていた。もし二人のうちのどちらかがそう望めば次に会う約束もできたはずだ。実際のところ彼らが顔を合わせたのは偶然だった。3月のひどく寒い日の公園でのことだった。地面は鉄のようで芝生は枯れ果て、風の前で縮こまるわずかなクロッカスの他には草の芽もなかった。10メートルも離れていない所に彼女を見つけたのは、凍える手とかすむ目で道を急いでいる時のことだった。まず彼を驚かせたのは彼女の姿が変わり果てていたことだった。二人は表情も変えずに通り過ぎるところだったが、彼は気が進まないながらもきびすを返すと彼女を追った。何の危険も無いことはわかっていた。誰も彼のことなど関心を持たない。彼女は何も言わなかった。まるで彼を振り払うかのように芝生を斜めに突っ切ったが、その後は諦めたように彼が近づいてくるのを待った。二人がいるのは葉を落として荒れ果てた低木の茂みの間だった。姿を隠すことも風を避けることもできない。二人は身じろぎもしなかった。気分が悪くなるほど寒かった。風が枝の間を吹き抜け、ときどきみすぼらしいクロッカスを揺らした。彼は彼女の腰に腕をまわした

(14) テレスクリーンは無かったが隠しマイクがあることは確実だった。ともかく監視されている可能性は十分にある。問題はない。何も問題はない。もしそうしたければ、地面に横たわってあれをやることもできた。そう考えた時、彼の体は恐怖で強張った。彼が抱きしめているというのに彼女は何の反応もしなかったのだ。逃れようとすらしなかった。今になって彼女の何が変わったのかを彼は理解した。彼女の顔は土気色で、髪で部分的に隠されているものの額からこめかみにかけて長い傷跡があった。しかし変わったのは顔ではない。変わったのはその腰が太くなり、驚くほど固くなっていることだった。かつてロケット弾の爆発の後で瓦礫の中から遺体を運び出す手伝いをした時に、その信じがたい重さと硬直具合に驚き、思うように取り扱えなかったことを彼は思い出した。それは肉体というよりむしろ石の塊のように思えたものだ。彼女の体の感触はそれに似ていた。同時に彼は彼女の肌が昔と全く違うことに気がついた。

(15) 彼は彼女にキスしようとはしなかったし、二人はしゃべりもしなかった。芝生を横切って戻る時になって初めて彼女は彼をまっすぐに見た。一瞬目をやっただけだったがそこには軽蔑と嫌悪が満ちていた。この嫌悪は純粋に過去の出来事に由来するものなのか、それとも彼の膨れ上がった顔と風に瞬く潤んだ目に対するものなのかと彼は考えた。二人は並んで二つの鉄製のいすに座ったが体を近づけようとはしなかった。見たところ彼女は何かを言おうとしていた。彼女はぎこちない様子で靴を数センチほど動かし、落ちていた小枝を踏み折った。彼女の足が太くなっていることに彼は気がついた。

(16) 「私はあなたを裏切った」彼女はそっけなく言った。

(17) 「僕は君を裏切った」彼は言った。

(18) 彼女はもう一度、軽蔑の視線をすばやく彼に投げた。

(19) 「ときたま」彼女が言った。「彼らは耐え難い、考えることすらできない方法で脅した。そうすると言ってしまうの。『そんなことしないで。別の誰かにやって。誰々にそれをやればいい』って。その後でそれはたんなる作戦で、ただ彼らを止めるために言ったこと、本当にそんなことを思っていたわけじゃないと自分をごまかす。だけどそれは真実じゃない。その瞬間には本当にそう思っていた。それ以外に助かる方法はないと思っていたし、本当にその方法で助かるつもりだった。他の人がそうされればいいと願っていた。他の人がどれだけ苦しもうが知ったことじゃなかった。気にしていたのは自分のことだけ

(20) 「気にするのは自分のことだけだ」彼は答えた。

(21) 「その後ではその人に対して前と同じ感情は抱けない」

(22) 「ああ」彼は言った。「同じ感情を抱くことはできない」

(23) それ以上、言うことは無いように思えた。風が彼らの体にまとわりつく薄いオーバーオールをひるがえした。黙ったままそこに座っているのはばつが悪いと二人とも思ったのだろう。とにかく、じっとしているには寒すぎた。地下鉄の時間があると言って彼女は立ち上がった。


(24) 「また会おう」彼は言った。

(25) 「ええ」彼女は言った。「また会いましょう」

(26) 彼は立ち去る決心もつかず、なんとなく距離を置いて彼女の半歩ほど後ろをついて行った。もう話すこともなかった。彼女はあえて彼を振り切ろうともしなかったが、横に並んで歩くことを避けるように少し早足に歩いた。彼は地下鉄の駅までは彼女に付き添うべきだろうと思っていたのだが、この寒さの中でそうすることが突然、無意味で耐え切れないことのように思えた。ジュリアから離れてチェスナットツリーカフェに戻りたいという欲求が彼を襲った。あの場所がそんなに魅力的に思えたのは初めてのことだ。彼は新聞とチェス盤が用意され、ジンが絶えること無く出される彼専用の隅のテーブルを懐かしく思い出した。とりわけあの暖かさだ。次の瞬間、彼と彼女の間を隔てるように小さな一団に割り込まれたのは全くの偶然とは言えないだろう。彼は追いつこうと早足になりかけたが、やがてゆっくりときびすを返すと、反対の方向に離れていった。50メートルほど離れたところで彼は後ろを振り返った。通りに人影は少なかったがもうどれが彼女なのか見分けることはできなかった。十人ほどの急ぎ足の人影のどれもが彼女に見えた。おそらく彼女の太って強張った体を後ろから見分けることはもうできなかったのだろう。

(27) 「その瞬間には」彼女は言ったのだ。「本当にそう思っていた」彼は本当にそう思っていた。ただ口でそう言っただけではなく、そうなることを願ったのだ。彼ではなく彼女があれに差し出されるようにと願ったのだ・・・

(28) テレスクリーンから流れる音楽が変わった。かすれた嘲笑うような声色が流れてきたのだ。そして・・・おそらくは本当にそんなことが起きたわけではなく、似たような音楽で記憶が呼び起こされただけだろうが・・・歌声が流れたのだ

(29)
大きな栗の木の下で
あなたと私
仲良く裏切った・・・

(30) 彼の目に涙がこみ上げてきた。通りがかったウェイターがグラスが空なのに気づき、ジンのボトルを持って戻って来た。

(31) 彼はグラスを取ると匂いを嗅いだ。一口飲むたびにそれはどんどんまずくなる。しかし彼はそれに溺れていったのだった。それは彼の生であり、死であり、復活だった。ジンによって毎晩意識を失い、ジンによって毎朝蘇る。11時前に起きることは滅多に無かったし、起きる時にはまぶたは重く、口はひりひりと痛み、背骨にいたっては折れたのではないかと思うほどだった。もし前の晩にベッドの横に置いておいたボトルとティーカップが無かったら、体を起こすことすら不可能だっただろう。昼の間は生気のない顔をしてボトルを片手にテレスクリーンを聞きながら座り込み、15時から閉店時間まではチェスナットツリーに居座った。彼が何をしているのか気にする者はいなかったし、起床を告げる笛も無く、警告を発するテレスクリーンも無かった。そして週に二回ほど、ときおり真理省の埃っぽい忘れ去られたようなオフィスに出勤して少しだけ仕事を、あるいは仕事と呼ばれている何かをするのだ。彼はニュースピーク辞書第11版の編集作業で発生したちょっとした問題を取り扱う、数えきれないほどある委員会の分科委員会の下部委員会に任命されていた。その委員会は中間報告書と呼ばれる物の作成に携わっていたが、自分たちが作っている物が何なのかをはっきりと理解することが彼にはできなかった。それはカンマはカッコの中に書くべきか外に書くべきかといった問題に関することなのだ。委員会には他に四人の人間がいて皆、彼と同じような人物だった。その日になると集まり、やるべきことなど何もないということを互いにあけすけに認めた上で、またばらばらに別れていくのだった。しかし日によっては熱心に仕事に取り組み、これみよがしに議事録を書き上げ、決して終わることのない長い覚書の草稿を書き続けることもあった・・・自分たちが何を議論すべきかについての議論は異常なまでに入り組み、難解なものになりがちだった。定義に関する分かりにくい論争、たびたび起きる話の脱線、言い争い・・・脅しや、上層部へ訴えることまで見られた。それから唐突にその活力が消え去り、彼らはテーブルの周りに座って死んだような目で互いに顔を見合わせるのだ。その様子はまるで雄鶏が鳴くのを聞いて消えていく幽霊のようだった。

(32) テレスクリーンはさっきから静かなままだ。ウィンストンは再び顔を上げた。速報だ!しかし違った。たんに音楽が変わっただけだった。彼はまぶたの裏にアフリカの地図を思い浮かべた。軍隊の動きが図になって浮かび上がる。黒い矢印が垂直に南へ伸び、白い矢印が水平に東へ伸びたかと思うと先端が重なった。まるで確証を求めるように彼は肖像画に描かれたあの冷静沈着な顔を見上げた。二つ目の矢印が存在しないなどということがあり得るだろうか?

(33) 彼の関心がまたそれた。ジンを一口飲むと白のナイトをつまみ上げ、ためらいがちに動かした。チェック。しかしそれは明らかに正しい動きでは無かった。なぜなら・・・

(34) 不意に、彼の頭にある記憶が蘇った。白いベッドカバーがかけられた大きなベッドのある、ろうそくの灯で照らし出された部屋。床に座り込みサイコロの入った箱を振っては興奮したように笑う9歳か10歳ぐらいの少年は彼自身だ。母親は彼の向かいに座り、同じように笑っている

(35) それは彼女が姿を消す一月ほど前の光景に違いなかった。絶え間ない空腹を忘れ、彼女への以前の愛情がつかのま蘇った仲直りの瞬間だった。その日はひどく激しい雨だったことを彼は思い出した。窓ガラスを雨が伝い落ち、部屋の中は文字も読めないほど薄暗かった。暗闇の中でベッドルームに閉じ込められた二人の子供は、退屈で耐えられないほどになっていた。ウィンストンは泣いてぐずっては食べ物が欲しいと無駄な要求をし、部屋の中を歩きまわっては物を引っ張り回したり、隣人が壁を叩くまで羽目板を蹴り飛ばしたりした。幼い妹はときどき声を出して泣いていた。ついに母親は「いい子にしなさい。おもちゃを買ってあげるから。かわいいおもちゃよ・・・きっと気にいるわ」と言うと雨の中、近くでまだときどきは開いていた小さな雑貨屋まで出かけていって「蛇と梯子[1]」の道具一式の入ったボール紙の箱を持って戻ってきた。湿ったボール紙の匂いを彼は今でも思い出すことができた。みすぼらしい道具だった。ボードにはひびが入り、小さな木製のサイコロは歪んでうまく転がすのも難しかった。ウィンストンはふてくされて興味なさそうにそれを見た。しかし母親が小さなろうそくに火をつけると、ともかく二人は床に座って遊びはじめた。すぐに彼はとても興奮して駒が意気揚々とはしごを駆け昇ったり、スタート地点の近くまで蛇の上を滑り落ちていくたびに、笑いながら叫び声を上げた。二人で8回もやってそれぞれ4回づつ勝った。小さな妹はゲームの内容を理解するには幼すぎたので、枕を背に座っていたが他の皆が笑うので一緒になって笑っていた。彼が本当に幼かった頃のように、午後の間、皆が一緒になって幸せに過ごした


(36) 彼はその光景を頭から追い出した。これは偽りの記憶だ。彼はときどき偽りの記憶に悩まされることがあった。その正体が分かっている限りは問題ない。実際に起きていることもあれば、実際には起きていないこともある。彼はチェス盤に戻ると再び白のナイトをつまみ上げた。次の瞬間、それが音を立ててチェス盤の上に落ちた。まるで針を突き刺されたかのように彼ははっとした。

(37) けたたましいトランペットの音が空気を切り裂く。速報だ!勝利だ!ニュースの前のトランペットはいつだって勝利なのだ。カフェに電撃のようなものが走った。ウェイターさえ、はっとしたように耳をすましていた。

(38) トランペットの音は盛大な騒がしい音でかき消された。すでにテレスクリーンからは興奮した声が溢れ出していた。しかしそれが聞こえるよりも早く、外からとどろくような歓声が流れこんできた。そのニュースは魔法のように町中を駆け抜けたのだ。彼はなんとかテレスクリーンから流れる内容を聞き取り、まさに自分が予測していた通りのことが起きたことを知った。巨大な海上艦隊が密かに結集し、敵の後方部隊に奇襲を仕掛けたのだ。白い矢印が黒い矢印の尾と重なった。やかましい騒音の間から勝利を告げる言葉が切れぎれに聞こえた。「大規模な作戦行動・・・完璧な連携・・・敵は徹底的な敗北・・・五十万の捕虜・・・敵は完全に士気を喪失・・・アフリカ全土を掌握・・・戦争終結の目処がつくところまで前進・・・勝利・・・人類史に残る偉大な勝利・・・勝利、勝利、勝利!」

(39) テーブルの下でウィンストンの足は震えていた。彼はいすから一歩も動かなかったが、頭の中では走りまわっていた。勢いよく走って外の群衆に混じり、耳が聞こえなくなるほどの歓声を上げていた。再びビッグ・ブラザーの肖像画を見上げる。この世界を統治する巨人!この巨大な岩の前ではアジアの大群と言えども何もできない!10分前まで・・・そうほんの10分前だ・・・前線からのニュースが伝えるのが勝利か敗北か彼には決めかねていたことを彼は思った。まったく。消し去られたユーラシア軍よりも愚かなことだ!愛情省に入ったその日から、彼の中では多くのことが変わった。しかし遂に必要不可欠な回復を意味する変化は起きなかった。この瞬間までは。

(40) テレスクリーンから聞こえる声はまだ捕虜や戦利品、殺戮の話を続けていたが、外から聞こえる歓声は少し収まってきたようだった。ウェイターは自分の仕事に戻り、一人がジンのボトルを持って近づいてきた。ウィンストンは座ったまま幸福な夢に溺れ、グラスを満たされても上の空だった。もう彼は走ったり歓声を上げたりはしていなかった。彼は愛情省へと戻っていた。全ては許され、彼の魂は雪のように真っ白だった。公開裁判で皆を巻き込んで全てを自供する。そして太陽の下を歩くように白いタイルの廊下を歩いていくのだ。背後には武装した看守がいる。長い間待ちわびた銃弾が彼の脳髄へと突き刺さってゆく

(41) 彼は巨大な顔を見つめた。あの黒い口ひげの下に、どんな微笑みが隠されているのか知るのに40年もかかった。なんと悲惨で無意味な誤解をしていたことか!意固地になって愛情あふれる胸から自ら逃げ出していたのだ!ジンの匂いのする涙が二滴、彼の鼻の横を流れた。しかしもう大丈夫。全てがわかったのだ。苦闘は終わりを告げた。彼は自らを克服することができたのだ。彼は今、ビッグ・ブラザーを愛していた





[1] 蛇と梯子:欧米で古くから親しまれている子供向けのボードゲーム。蛇のコマに止まると大きく後退、梯子のコマに止まると大きく前進できるすごろくのようなゲーム。


終了


『1984年』 3-5

『1984年』
ジョージ・オーウェル


第三部
第五章


(01) 収監されているそれぞれの段階でも、彼は自分が窓のない建物の中のどのあたりにいるのかわかっているつもりではいた。おそらくはほんのわずかだが気圧に違いがあるのだ。看守たちが彼を殴りつけていた監房は地面よりも下だった。オブライエンによる尋問を受けた部屋は最上部近くの高い場所だ。今度の場所は何メートルもの地中、想像もつかないほど深い場所だった

(02) そこは今まで入れられていたどの監房よりも大きかった。しかし彼には自分の周りの様子を知ることができなかった。わかるのは正面に二つの小さなテーブルがあり、それぞれが緑色のフェルト生地で覆われているということだけだ。片方は彼からほんの1、2メートルほど先にあり、もう片方はずっと遠く、扉の近くに置かれていた。彼の体はしっかりといすに固定されている。固定がきつくて頭を動かすことさえできない。パッドのようなものが後ろから頭に取り付けられ、正面しか見えないようにされていた

(03) しばらく一人で放置された後、扉が開き、オブライエンが入って来た。

(04) 「以前、君は私に尋ねた」オブライエンが言った。「101号室とは何かと。君は既にその答えを知っていると私は答えた。誰もが知っている。101号室にある物は世界でもっとも恐ろしい物だ」

(05) 扉が再び開いた。看守が何か針金で作られた箱か籠のような物を持って入って来る。それは遠い方のテーブルの上に置かれた。オブライエンが立っている位置のせいでウィンストンにはそれが何なのかが見えない

(06) 「世界でもっとも恐ろしい物は」オブライエンが言った。「人によって異なる。生きたまま埋葬されることかもしれないし、焼け死ぬこと、溺れ死ぬこと、串刺しにされて死ぬこと、死に方なら他に50もある。命にかかわらないほんの些細な物の場合もある」

(07) ウィンストンにテーブルの上の物がよく見えるように彼が少しだけ横に動いた。それは持ち運ぶための取っ手が上についた、長方形のワイヤーケージだった。前から見るとそれは、外側に向かってへこみのあるフェンシング・マスクか何かのように見えた。3、4メートルも離れているのにも関わらず、彼にはそのケージの縦方向が二つの部分に区切られ、それぞれに何か生き物がいるのがわかった。ネズミだ

(08) 「君の場合、」オブライエンが言う。「世界でもっとも恐ろしい物は偶然にもネズミだったわけだ」

(09) 何に怯えているのか定かではなかったが、何かの前兆の震えがケージを最初に見た瞬間にウィンストンの体を走り抜けていた。そして今、目の前のマスクのような器具の意味を突然、彼は理解したのだった。彼の内臓は水に変わったようだった。

(10) 「やめてくれ!」彼は甲高いかすれた声で叫んだ。「やめてくれ、やめてくれ!なんてことを」

(11) 「君は憶えているかね」オブライエンが言った。「君がよく夢の中で起こしていたパニックの時のことを?君の目の前には真っ黒な壁があって、あたりは轟音に包まれている。壁の向こう側には何か恐ろしい物がいるのだ。それが何なのか君は気がついているが、あえてそれを思い出そうとはしない。壁の向こう側にいるのはネズミの群れだ

(12) 「オブライエン!」ウィンストンはなんとか声を出して言った。「あなたはこんなこと必要ないとわかっているでしょう。私に何をやらせたいんですか?」

(13) オブライエンは言い淀んだ。口を開いたときには、その口調はそれまで何度か見せたあの教師のようなものだった。彼は考え込むように遠くを見つめ、まるでウィンストンの背後にいる観客に演説でもしているかのように話した。

(14) 「痛みそれ自体では、」彼は言った。「常には十分な効果は得られない。致死的な痛みでさえ、時に人間は耐えることがあるのだ。しかし誰しも耐え難いものというのはある・・・考えることさえ恐ろしいものが。勇敢さや臆病さは関係ない。高い場所から落ちた時には、ロープをつかむことは臆病なことではない。深い水の底から浮き上がってきた時には、肺を空気で満たそうとすることは臆病なことではない。それは決して捨て去ることのできないたんなる本能なのだ。ネズミについても同じだ。君にとってはこいつらは耐え難いだろう。こいつらは君が耐えたくとも耐えることのできない苦痛が具現化したものだ。君は要求されていることを行なってくれるだろう」

(15) 「しかし何を、何をです?それが何なのか知らないのに、どうやってそれをおこなうというのです?」

(16) オブライエンはケージをつまみ上げると近い方のテーブルに持ってきた。彼は注意深くそれをフェルト生地の上に下ろした。ウィンストンは耳鳴りを覚えた。まるで完全に独りっきりで座っているような感覚を覚えた。巨大な何も無い平野の中央か、太陽光でいっぱいの平坦な砂漠にいて、聞こえてくる音は全て、とてつもなく遠くからのもののようだった。ネズミの入ったケージは彼から2メートルも離れていない。巨大なネズミだった。十分に年をとって鼻先は丸く、獰猛そうで、その毛皮は灰色というよりも茶色がかっていた。

(17) 「このネズミは」オブライエンが依然として見えない観客に対して演説するように言った。「げっ歯類だというのに肉食なのだよ。君は知っているだろう。おそらくこの街の貧民地区で起きていることを聞いたことがあるはずだ。ある通りでは、女は家の中で赤ん坊を一人にさせようとはしない。5分たりともだ。このネズミが間違いなく攻撃を仕掛けるのだ。ほんの短い時間でもこいつらは肉を食いちぎって骨に変えてしまう。こいつらは病人や死にかけている人間にも攻撃を仕掛ける。相手が無力かどうかということについては驚くほど頭が回るのだ


(18) ケージからきしるような鳴き声が上がった。離れているウィンストンにも聞こえたのだ。ネズミは争っていた。仕切り越しにそれぞれの領地を奪い合おうとしているのだ。同時に深い絶望のうめき声が彼には聞こえた。それもまたどこか自分の外側から聞こえてくるように思えた。

(19) オブライエンはケージをつまみ上げると、何かをその中に押し込んだように見えた。鋭いカチカチという音が上がった。ウィンストンは半狂乱で拘束を引き裂いていすから抜けだそうとした無駄だった。体のどこも、頭さえ全く動かなかった。オブライエンがケージを動かして近づけた。ウィンストンの顔からは1メートルもない。

(20) 「最初のレバーを押した」オブライエンが言った。「君にはこのケージの構造がわかっているだろう。このマスクは君の頭に被せられ、出口はない。私がこのもうひとつのレバーを押せばケージの入り口が上にスライドする。この飢えた獣は弾丸のように飛び出すだろう。君はネズミが空中を跳ねるところを見たことがあるかな?こいつらは君の顔に飛びついて、顔にまっすぐ穴を開けて進むだろう。最初に目を狙うこともある。頬に穴を開けて進むこともあるし、舌を貪り食うこともあるぞ

(21) ケージが近づけられ、すぐそばまで来た。頭上で起きる間断ない甲高い鳴き声がウィンストンには聞こえた。しかし彼はパニックと激しく戦っていた。考えろ、考えるんだ。たとえ残されている時間が半秒でも・・・考えることだけが希望だった。突然、獣の発するひどいカビの臭いが鼻孔を刺した。ひどい吐き気の衝動が襲い、危うく彼は意識を失いそうになった。全てが暗転する。一瞬、彼は正気を失い、動物のような叫び声を上げた。しかし彼は一つの思いつきをつかみ取ってその暗闇から戻ってきた。それは一つの、そして唯一の彼が助かる方法だった。他の人間を、他の人間の肉体を自分とネズミの間に割り込ませなければならない

(22) もうマスクの丸い影は周り全ての視界を遮るほど大きくなっていた。ワイヤーでできた扉がほんの2、30センチほど目前に迫っている。ネズミは今から何が起きるのかわかっていた。一匹は上下に跳ね回り、下水道の年老いた汚らしい主といった様子のもう片方は、ピンク色の手をケージの枠に掛けて、立ち上がって盛んに匂いを嗅いでいた。ウィンストンにもそのひげと黄ばんだ歯が見えた。再び黒いパニックが彼を襲った。何も見えず、無力で、気力も残っていなかった。

(23) 「中華帝国ではよく見られた刑罰だよ」オブライエンが先ほどと同じ説教臭い調子で言った。

(24) マスクが彼の顔に近づいてくる。金網が頬をこする。その時だった・・・それは安心感ではなくただの希望、本当にかすかな希望だった。遅すぎた、あまりに遅すぎたかも知れない。しかし彼は突然、自分に課せられ罰をなすりつけることのできる、全世界でただ一人の人物がいることに気がついた・・・自分とネズミの間に突き出すことのできるただ一つの肉体。彼は夢中になって何度も何度も叫んだ。

(25) 「ジュリアにやれ!ジュリアにやってくれ!私じゃない!ジュリアだ!あなたが彼女をどうしようと知ったことじゃない。顔を引き裂いて肉を剥がすなら彼女にやってくれ。私じゃない!ジュリアだ!私じゃない!」

(26) 彼は背中から落ちていった。ネズミから離れ、とても深い所へと。いすに縛りつけられたままだったが彼は床を突き抜け、建物の壁を突き抜け、地面を突き抜け、海を突き抜け、大気を突き抜け、宇宙空間へ、星々の間へ落ちていった・・・ネズミから遠く、遠く、遠く離れて。彼は数光年先まで到達したが、オブライエンは依然としてそばに立っていた。頬にはまだ冷たいワイヤーの感触がある。しかし周りを包む暗闇の中で彼はかちりという金属音を聴き、ケージの扉が開かれたのではなく、閉じられたことを知った





『1984年』 3-4

『1984年』
ジョージ・オーウェル


第三部
第四章


(01) 彼はだいぶ回復していた。一日ごとに体重が増え、体力もついてきた。一日という数え方が適切であればの話だが。

(02) 白い明かりとうなるような音は相変わらずだったが、今度の監房は今までいた場所よりもいくらか居心地が良かった。板張りのベッドの上には枕とマットレスがあり、座るためのいすも用意されている。風呂に入れてもらい、ブリキ製の洗面器でこまめに体を洗うことも許された。そのための暖かいお湯まで用意されていたのだ。新しい下着と清潔なオーバーオールを一着与えられた。静脈瘤性の潰瘍は鎮痛用の軟膏で手当された。残っていた歯は抜かれ真新しい義歯が与えられた。

(03) 数週間、いや数ヶ月は経っているに違いなかった。今ではその気になればどれだけ時間が経ったかを数えることができた。規則的な間隔で食事を与えられるようになっていたのだ。彼の見当では24時間で三回の食事が出されていた。ときどき彼はぼんやりとこれは昼食なのだろうか、それとも夕食なのだろうかと考えた。食事は驚くほど豪華で三食に一度、必ず肉が出た。一度などタバコが一箱ついてきたことさえあった。マッチは持っていなかったが彼の食事を持ってくる決して口をきこうとしない看守が火をくれた。最初にタバコを吸った時には気分が悪くなったが、長持ちさせるために毎食後、半本だけ吸うようにして節約した。

(04) 端に短い鉛筆が結びつけてある白い石板を与えられた。最初、彼はそれを全く使わなかった。その頃になっても完全な脱力状態だったのだ。食事と食事の間、ほとんど無気力状態で横たわり、眠ったり、目を開けているのも面倒なほど、ぼんやりとしていたりすることが多かった。長い間に彼は顔に強い光が当てられたまま眠ることに慣れてしまっていた。見る夢がはっきりとしたものになるということを除けばたいした違いは無かった。その期間を通して彼はたくさんの夢を見た。どれも幸福な夢ばかりだった。黄金の国にいたり、太陽に照らされた、巨大で壮麗な遺跡の中に座っていたりした。そばには母親やジュリア、オブライエンがいた・・・特に何をするでもなくただ太陽の光の中に座り、のどかに話しているのだ。目覚めているときに考えることは、もっぱらそういった夢のことだった。痛みによる刺激が無くなった今、彼は知性を働かせる力を失ってしまったようだった。退屈ではなかった。会話したり気晴らししたいという欲望も無くなっていたのだ。一人でいること、殴られたり尋問されたりしないこと、十分なだけの食事をすること、全身を清潔に保てること、それだけで完全に満足だった

(05) だんだんと眠っている時間が短くなっていったが、まだベッドから出ようという気力は起きなかった。彼の関心は静かに横たわり、体に集まってくる力を感じることだけだった。筋肉が大きくなってゆき、皮膚に張りが出てくるのが幻ではないということを確かめるように、彼は自分の体のあちこちを指で触った。最後には間違いなく体が元に戻りつつあると確信できるようになり、その頃には太ももは間違いなく膝より太くなった。その後、最初はしぶしぶだったが、彼は規則的に運動をするようになった。ほどなくして彼は、歩幅で監房を測った距離で3キロも歩けるようになり、曲がっていた肩もまっすぐになっていった。彼はもっと入念に運動をするようになり、自分ができないことの多さに気づくと驚いて恥ずかしさを感じた。歩くことはできたが走ることはできなかったし、腕を伸ばしていすを持ち上げることもできない、倒れこまずに片足立ちすることもできなかった。いったんしゃがみ込むとももとふくらはぎに痛みが走り、立ち上がるのが精一杯だった。彼はうつ伏せになって腕で体を持ち上げようとした。絶望的だった。1センチも体は上がらなかったのだ。しかし数日・・・何度かの食事・・・が過ぎるとそういった芸当もできるようになった。ついには続けて6回もできるようになったのだ。次第に彼は自分の肉体に対して確かな自信を持つようになり、顔も元通りになりつつあるのではないかという、かすかな希望を抱き始めた。ただ自分のはげた頭に触る時だけは、鏡の向こうから自分を見返してきた皺だらけのぼろぼろの顔が思い出された。

(06) 頭の働きも活発になっていった。彼は板張りのベッドに壁を背にして腰掛け、膝の上に石板を置き、自らを再教育する作業を入念におこなった

(07) 彼が降伏していることは間違いなかった。彼が今になって気がついたように、実際のところは自分でそう決断するずっと以前からそのための心構えをしていたのだった。愛情省に一歩踏み入れた瞬間から・・・いや、むしろジュリアと共にテレスクリーンから聞こえてきた彼らに指し図する鉄の声を聞きながら、無力に立ち尽くしていた時から・・・彼は党の力に対して立ち向かうおうとすることの軽薄さ、浅はかさを理解していたのだ。7年の間、思想警察が彼のことを虫眼鏡の下の甲虫のように観察していたことを、彼は今では知っていた。体の動きや口に出した言葉で彼らの目を逃れた物は一つも無かったし、思考の流れは全て彼らに読み取られていたのだ。日記の表紙においた白い埃くずさえ彼らは慎重に置き直したのだ。彼らは録音を再生して聞かせ、写真を見せた。その内の何枚かはジュリアと彼の写真だった。そう、おそらくは・・・。もはや彼は党と戦うことはできなかった。それに加えて正義は党にあった。そうでなければならなかった。不滅の集合的頭脳がどうして間違えるはずがあるだろう?どんな外部の指標を使えば、その判断力を試すことができるというのか?正気かどうかは統計の問題なのだ。彼らが考えるのと同じように考える方法を学ぶこと。重要なのはそれだけだった。しかし・・・!

(08) 指で持った鉛筆がいやに太く感じられ、扱いにくかった。彼は頭に浮かぶ考えを書きだした。まず大きくて不恰好な大文字で書いた。

(09)
自由は隷属

(10) それから少しのためらいもなくその下にこう書いた。

(11)
2足す2は5

(12) しかし次に来たのは、何かを抑制するような感情だった。まるで何かから後ずさりするように彼の頭は集中できなくなってしまったようだった。次に来るものを知っているにも関わらず、しばらく彼はそれを思い出すことができなかった。次に来なければならないもののことだけを考えて彼はようやく思い出した。自然には出てこなかったのだ。彼は書いた。

(13)
神は権力

(14) 彼は全てを受け入れた。過去は改変可能だった。過去が改変されたことは決してなかった。オセアニアはイースタシアと戦争していた。オセアニアはこれまでずっとイースタシアと戦争していた。ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードは起訴された罪について有罪だった。彼らの無罪を証明する写真など彼は今まで見たことがなかった。そんな物は存在しない。彼がでっち上げたのだ。彼には正反対の記憶があったが、それは全て間違った記憶で自己欺瞞の産物だった。全てはなんと簡単だったことか!降伏するだけで全てが勝手についてきた。それはちょうど精一杯抗っているにも関わらず後ろに押し流される流れに向かって泳いでいたのを、向きを突然変えて抗う代わりに流れと共に進むようにしたようなものだった。向かう方向を変えたことを除けば何も変わっていないのだ。どっちにしろ運命づけられたことは起きるのだ。なぜこれまで反抗を続けていたのかもわからなくなっていた。全てはたやすいことだった。しかし・・・!

(15) どんなことでも真実になり得るのだ。いわゆる自然法則は無意味だった。引力の法則は無意味だった。「私がそう望めば」オブライエンは言ったのだ。「シャボン玉のように床から浮き上がることだってできる」ウィンストンはうまくやっていった。「彼が自分は床から浮き上がっていると考え、同時に私が彼がそうなっていると考えれば、それは起きるのだ」突然、水中の難破船が水面を破って現れるように、ある考えが彼の頭に沸き起こった。「そんなことは本当は起きていない。自分たちでそう想像しているだけだ。幻覚だ」彼はその考えを即座に打ち消した。間違った考えであることは明らかだった。どこか自分の外側に「本当の」ことが起きる「本当の」世界があると仮定する。しかしどうしてそんな世界があり得るだろうか?私たちの意識を通さずに何が認識できるというのだ?全ては頭の中で起きているのだ。全ての人の頭の中で起きていることはそれがどんなことであろうと、本当に起きていることなのだ。

(16) その間違った考えを捨て去ることは容易だったし、彼がそれに圧倒される危険もなかった。とはいえそんなことは決して考えてはいけないと彼は自分を諭した。頭の中にはいつだろうと危険な思想を追いやるための盲点を作っておくべきなのだ。その動作は自動的、本能的なものでなければならない。犯罪停止、ニュースピークではそう呼ばれていた


(17) 彼は犯罪停止の練習にとりかかった。自分自身に命題を提示して見せる・・・「党はこの大地は平らだと言っている」、「党は氷は水より重いと言っている」・・・そしてそれらを否定する根拠から目を逸らす、あるいは理解しないように訓練するのだ。簡単なことではない。大変な理論的思考と臨機応変の力が必要だった。例えば「2足す2は5」といった命題によって提起される数学的問題は、彼の知的な理解を超えていた。また頭脳の運動能力的集中とでも言うべきものも必要だった。ある瞬間にはもっとも繊細な論理を使い、次の瞬間にはもっともずさんな論理的誤りを見過ごす能力だ。知性と同じくらい愚鈍さが必要とされ、その達成は難しかった。

(18) その間もずっと頭の片隅には、あとどれくらいで自分は銃殺されるのだろうという思いがあった。「全ては君次第だ」オブライエンはそう言った。しかし、それを早めるためにできることは無いと彼は知っていた。今から10分後かも知れないし、10年後かも知れないのだ。何年も独房に閉じ込められるかもしれないし、労働キャンプに送られるかも知れない。あるいは彼らがときどきそうするようにしばらくの間、釈放されることも考えられた。銃殺される前に、今までの逮捕と尋問の様子全てが完全にもう一度演じられることさえ十分にあり得る。たった一つ確実なことは、死は決して予測した瞬間には来ないということだ。しきたりでは・・・口に出されることのないしきたりだ。それが語られたところを一度も聞いたことが無いにも関わらず、なぜか知っているのだ・・・彼らは背後から撃つということだった。常に後頭部を、警告なしに、監房から監房へ向かう廊下を歩いている時に撃ちぬくのだ。

(19) ある日・・・いや「ある日」というのは正確な表現ではない。それは真夜中だった可能性もあるのだ・・・彼は奇妙で幸福な空想をした。彼は銃弾を待ち受けながら廊下を歩いていた。次の瞬間にはそれが来ることを彼は知っているのだ。全てがなめらかに調和されていた。もはや疑いもなく、議論もなく、痛みもなく、恐れもない。彼の肉体は健康で頑強だった。彼は体を動かす喜びに浸って、陽の光の中を歩くような気持ちで気楽に歩いていた。彼がいるのはもはや愛情省の狭くて白い廊下ではなく、陽の光が降り注ぐ1キロもの幅の巨大な廊下だった。それは薬物によって引き起こされたあの幻覚の中で彼が歩いたように思った廊下だ。彼は黄金の国にいた。古いうさぎ穴のある牧草地を横切る踏み分け跡を歩いていくところだった。足の下の短い弾力のある芝の感触と、顔に降り注ぐ穏やかな陽の光が感じられた。草原の端にはかすかに揺れるニレの木があり、その向こうのどこかにはウグイのいる、柳の下の緑の池に注ぐ小川があるのだ。

(20) 突然、彼は恐怖でショック状態になった。背筋から汗が吹き出す。彼は自分が大声で泣き叫ぶ声に気づいた

(21) 「ジュリア!ジュリア!ジュリア!僕の愛しい人!ジュリア!」

(22) しばらくの間、彼女が目の前に存在するという激しい幻覚に彼は襲われた。彼女はただ彼と一緒にいるというだけではなく、彼の内側にいるように思えた。まるで彼女が彼の肌に織り重なるようだった。その瞬間、今まで彼女と一緒に自由の身だった時よりもはるかに彼は彼女を愛していた。そして彼女はまだどこかで生きていて、彼の助けを必要としているということも彼は悟ったのだ。

(23) 彼はベッドに仰向けになると自分を落ち着かせようとした。自分は何をしてしまったのだ?一瞬の気の緩みでこの苦役に何年の追加をしてしまった?

(24) 次の瞬間には外でブーツの足音が聞こえるだろう。彼らがこんな暴発を罰せずに見過ごすはずがない。例えさっきまで気づいていなかったとしても、もう彼が彼らと交わした合意を破っていることに気がついたはずだ。彼は党に従ってはいるが、いまだに党を憎悪しているのだ。かつては異端の思想を服従の姿の下に隠していた。今ではそれは一歩後退していた。意識の上では彼は降伏していた。しかし内心の尊厳は守ろうとしていたのだ。自分が狂っていることは知っていた。しかし狂っていたかったのだ。彼らは理解しただろう・・・オブライエンはそれを理解しただろう。たった一度の馬鹿げた悲鳴で全ては自白されたのだ

(25) 全てをまた繰り返さなければならなくなるだろう。何年もかかるはずだ。彼は自分の顔を手で撫でて、新しい形に慣れようとした。頬には深いしわがあり、頬骨ははっきりと浮き上がり、鼻は平らだった。さらに鏡で最後に自分を見たときから比べると、完全に新しい一揃いの歯が与えられている。自分の顔がどんな風かわからない時には内心を隠すことは簡単なことではなかった。たんに表情に注意するだけでは十分ではない。もし秘密を守りたければ、自分自身からも隠してしまわなければならないことを彼は初めて理解した。常にそれがそこにあることを知っていなければならないが、決して名前を与えられるようなはっきりとした形として意識に上ることがないようにする必要があった。これから先、正しく考えるだけではなく、正しく感じ、正しく夢を見なければならない。そして、常に自分の一部であるが他からは切り離された球状の嚢胞のようなものとして、憎しみを自らの内側に閉じ込めておく必要があるのだ。

(26) いつか彼らは彼を銃殺することを決めるだろう。それがいつ起きるのか言うことはできないが、その数秒前になれば察知することは可能なはずだ。それは常に通路を歩いている時に背後からおこなわれるのだ。10秒もあれば十分だろう。その時こそ彼の内側の世界を反転させるのだ。その瞬間、唐突に、一言も発することなく一歩も止まることなく、毛ほども表情を変えることなく・・・唐突にカモフラージュは消え失せ、憎しみの砲列が点火されるだろう。バン!憎しみが巨大な轟炎のように彼を満たすだろう。そしてほとんど同じ瞬間に銃弾が発射される。バン!それは遅すぎるのか、早すぎるのか。彼らは矯正する前に彼の脳髄を粉々に吹き飛ばすことになるだろう。異端の思想は罰せられも悔い改められることもなく、永遠に彼らの手の届かない場所に行ってしまうのだ。彼らは自分たちの完全性に穴を撃ち抜くというわけだ。彼らを憎みながら死ぬこと、それこそが自由だった

(27) 彼は目を閉じた。これから行うことは、知的な訓練を受け入れることよりも余程困難なことだった。それは彼を貶め、損なう質問だった。彼は汚物の中の汚物に飛び込もうとしていたのだ。もっとも恐ろしく、おぞましいものは何か?彼の頭にビッグ・ブラザーが浮かんだ。真っ黒な口ひげをたくわえ、その目で人の姿を追い回す巨大な顔(いつもポスターで見ているために自然と1メートルもの顔が思い浮かぶのだ)が彼の頭に自然に浮かび上がったのだ。彼は本心ではビッグ・ブラザーをどう思っているのか?

(28) 廊下でブーツの重い足音がした。鉄の扉が音をたてて開く。オブライエンが監房に歩いて入ってきた。彼の後ろにいるのは青白い顔の執行官と黒い制服の看守だ。

(29) 「起き上がれ」オブライエンが言った。「こっちに来るんだ」

(30) ウィンストンは彼に向きあって立った。オブライエンはウィンストンの両肩を力強い手でつかむと近づいて彼を見た。

(31) 「君は私を騙そうと考えている」彼が言った。「馬鹿げたことだ。まっすぐ立て。私の顔を見ろ」

(32) 彼は少し黙ってから穏やかな口調で続けた。

(33) 「君はだいぶ良くなった。知性面な部分では悪いところはほとんど無い。うまくいっていないのは情緒面だけだ。教えてくれ、ウィンストン・・・ただし嘘はつくな。私がいつだって嘘を見抜けることを君は知っているはずだ・・・さあ、教えてくれ。君は本心ではビッグ・ブラザーをどう思っている?

(34) 「私は彼を憎んでいます」

(35) 「君は彼を憎んでいる。いいだろう。君が最後の段階に進む時が来た。君はビッグ・ブラザーを愛さなければならない。服従するだけでは不十分だ。愛さなければならないのだ」

(36) 彼はウィンストンから手を離すと看守に向かって少し押した。

(37) 「101号室だ」彼が言った。





『1984年』 3-3

『1984年』
ジョージ・オーウェル


第三部
第三章


(01) 「君の回復過程には三つの段階がある」オブライエンが言った。「学習、理解、承認だ。これから君は第二段階にはいる」

(02) いつものようにウィンストンは背を横たえている。しかし最近では拘束も緩くなっていた。まだベッドに固定されてはいるものの膝を少し動かせたし、頭を左右に向けたり肘から先の腕を上げることもできた。あのダイヤルに対する恐怖も少なくなっていた。十分すばやく頭を使えばあの苦痛も回避できるようになっていたのだ。オブライエンがレバーを引くのはほとんどの場合、馬鹿げた言動を見せた時だった。時には会話の間、一度もレバーが使われないこともあった。尋問が今まで何回あったのか彼には憶えきれなかった。作業には長い時間がかかり、無限に続くかのように思われた・・・少なくとも数週間は続いただろう・・・時には数日、時にはたったの1、2時間の間隔で対話はおこなわれた。

(03) 「そこに横たわりながら」オブライエンが言った。「君はこう思って・・・私に尋ねさえする・・・なぜ愛情省はこんなに時間を費やしてまで自分のことを問題にするのだろう。自由の身だった時に君を悩ませていた疑問も本質的には同じものだ。君は自分の住む社会のメカニズムは理解しているが、その下に存在する動機は理解していない。自分の日記にこう書いたのを憶えているかね。『どのようにしてかは理解できたが、なぜかは理解できていない』君が自らの正気を疑うのはこの『なぜ』について考える時だ。君はあの本、ゴールドスタインの本の少なくとも一部は読んだ。あれは君が今まで知らなかった何かについて教えてくれたかね?

(04) 「あなたはあれを読んだことがあるのですか?」ウィンストンは言った。

(05) 「あれを書いたのは私だ。執筆に参加したと言った方がいいだろうな。君も知ってる通り、個人で本を書くことなどできないからな」

(06) 「真実なのですか。あれに書かれていたことは?」

(07) 「現状の説明としては正しい。だがそこで表明されている計画は無意味なものだ。知識の秘密裏な集積・・・啓蒙の段階的な拡大・・・プロレタリアートによる究極的な反乱・・・党の打倒。君はそんな内容を予測していただろう。全て無意味だ。プロレタリアートは反乱など起さんよ。千年経とうが、百万年経とうがね。彼らには無理だ。その理由を君に教える必要は無いだろう。君は既に知っている。もし君が暴力による反乱を夢見ているならあきらめたまえ。党を打倒することのできる方法など存在しない。党の支配は永遠だ。まずそれを君の思考の出発点にすることだ」

(08) 彼がベッドに近づいた。「永遠だ!」彼は繰り返した。「さて『どのようにして』と『なぜ』という疑問に戻ってみようじゃないか。君はどのようにして党がその権力を維持しているかについては十分よく理解している。さあ、なぜ我々が権力に固執しているか言ってくれ。我々の原動力は何だ?なぜ我々は権力を欲しなければならないのか?」彼は黙ったままのウィンストンに付け加えた。「さあ、答えるんだ」

(09) しかしウィンストンはしばらくの間、何も言わずに黙っていた。疲労感が彼を圧倒していた。狂ったような興奮の輝きがかすかにオブライエンの顔に戻って来ている。次にオブライエンが言うであろうことが彼にはわかった。曰く、党が自らの目的のために権力を得ようとすることはない。ただ大衆の幸福を思ってのことなのだ。曰く、権力を得ようとするのは大衆が脆弱で、自由に耐えることも真実に向きあうこともできない臆病な生き物であり、彼らより強い者によって支配され体系的に騙されなければならないからなのだ。曰く、人類の選択は自由と幸福との間にある。そして人類の大多数にとっては幸福の方が重要なのだ。曰く、党は弱者の永遠の守護者であり、他者の幸福のために自らの幸福を犠牲にしながら善を招き寄せようと邪悪をおこなう献身的な集団なのだ。ウィンストンは思った。恐ろしいのはオブライエンがそう語れば、自分がそれを信じてしまいそうなことだ。彼の顔を見ればそれがわかる。オブライエンは全てを知っている。世界が本当はどのようなものなのか、どのような欺瞞の中で人々が生きているのか、どのような嘘と野蛮によって党が彼らをそこにつなぎとめているのか、彼はウィンストンの千倍もよく知っているのだ。彼はそれら全てを理解し、考察し、そして無視しているのだ。究極の目的の前には全てが正当化されるのだ。自分よりも知能の高い狂人、自分の意見を公正に聴き、それでもなお自身の狂気を貫く者に対して何ができるというのだ?そうウィンストンは思った。

(10) 「あなた方は私たちの幸福のために私たちを支配している」彼は弱々しく言った。「あなた方は人類には自らを統治する力が無いと信じている。そして・・・」

(11) 彼は続けようとして悲鳴を上げそうになった。鋭い痛みが彼の体を貫いたのだ。オブライエンがあのダイヤルを35まで上げていた。

(12) 「馬鹿げている。ウィンストン。それは馬鹿げている」彼は言った。「君はそんなことを言うほど愚かではないだろう」

(13) 彼はレバーを戻してから続けた。

(14) 「私が質問に対する答えを教えよう。党が権力を得ようとするのは完全に自身のためだ。他者の幸福など我々は全く興味がない。我々が興味があるのは権力だけだ。富でも、贅沢品でも、長寿でも、幸福でもなく権力だけ、純粋な権力だけだ。純粋な権力が何を意味するかは君も今では理解しているだろう。我々は過去のどの独裁者たちとも違って、我々が何をしているのかをわかっている。他の者は皆、我々によく似たものでさえも臆病で偽善的だった。ドイツのナチスとロシアのコミュニストはその手法においては我々に非常に近かった。しかし彼らが自らの動機を認める勇気を持つことは決してなかったのだ。自分たちは人類が自由と平等を達成した楽園に至るまでの限られた期間だけ、仕方なく権力を持つのだという風に彼らは装った。いや、おそらく自分自身で信じてさえいた。我々は違う。手放そうという意志を持つ者が権力を掌握することなど無いと我々は知っている。権力は手段ではない。目的だ。誰も革命を保障するために独裁制を敷いたりしない。独裁制を確立するためにこそ革命をおこなうのだ。迫害の目的は迫害なのだ。拷問の目的は拷問なのだ。権力の目的は権力なのだ。さあ、君は私の言う事を理解したかね?

(15) ウィンストンはオブライエンの顔に浮かんだ疲弊感を見て以前と同じように衝撃を受けた。力強く、肉付きが良く、厳格で、ウィンストンに無力感を感じさせる知性と抑制された情熱が満ちている。しかしその顔は疲れていた。目の下は腫れ、頬骨のあたりの皮膚はたるんでいる。オブライエンは彼の上に覆いかぶさるようにして、その疲れた顔をわざと近づけて来た。

(16) 「君はこう考えている」彼が言った。「私の顔は老けて疲れている。君はこう考えている。権力について語ったところで、自らの体の老いさえ防ぐことができていないではないかと。ウィンストン、個人はただの一細胞にしか過ぎないということを君は理解していないのか?その細胞の消耗は組織体の活力なのだ。指のつめを切ったからといって死ぬことはないだろう?」


(17) 彼はベッドから離れると片手をポケットに突っ込んでうろうろと歩きまわり始めた。

(18) 「我々は権力の司祭なのだ」彼が言った。「神は権力だ。しかし今のところ、君にとっては権力とはたんなる言葉にしか過ぎない。君は権力が意味するものが何なのかよく考えて見るべきだ。君が理解しなければならないことの一つ目は、権力とは集合的なものであるということだ。個人は、個人であることをやめることによってのみ権力を手にすることができる。君は党のスローガンを知っているだろう。『自由は隷属』。逆もまた然りということに気づいたことはあるかね?隷属は自由なのだ。一人でいるとき・・・自由であるとき・・・人は常に敗北するのだ。全ての人間に死が運命づけられている以上、それは避けようの無いことだ。それは全ての敗北の中でもっとも巨大なものだ。しかし、もし無条件の服従を完璧におこなうことができれば、もしアイデンティティーを放棄することができれば、党と融合することができれば、その人間は党になり、全ての権力を持つ不滅の存在となるのだ。君が理解しなければならないことの二つ目は、権力は人類を支配する力であるということだ。その肉体を・・・いや何よりも精神を支配するのだ。権力が物質世界・・・君が呼ぶところの外部の現実・・・を支配しているかどうかは大した問題ではない。我々の物質世界に対するコントロールは既に完全なものになっている」

(19) 一瞬、ウィンストンはあのダイヤルの存在を忘れた。彼は体を起こそうと荒々しい努力を続けたが、ただ体が痛々しくねじ曲がるだけだった。

(20) 「しかしどうやって物質世界をコントロールするというのです?」彼は叫んだ。「天候や万有引力の法則さえあなた方はコントロールできていない。伝染病や、苦痛、死だって・・・」

(21) オブライエンは手の動きで彼を制した。「我々は精神をコントロールすることで物質世界をコントロールする。現実とは頭蓋骨の内側に存在するのだ。君も徐々に学んでいくだろう、ウィンストン。我々にできないことなど無いのだよ。透明になることも、空中を浮遊することも・・・なんでもできる。私がそう望めばシャボン玉のように床から浮き上がることだってできる。党がそんなことは望まない以上、私もそんなことは望まないがね。君は自然法則に対する19世紀の考えを忘れ去る必要がある。我々が自然法則を作り上げるのだ

(22) 「それは違う!あなたはこの惑星の支配者ですらない。ユーラシアやイースタシアはどうです。あなたは彼らをまだ征服できていない」

(23) 「大した問題じゃない。我々にとって都合がよくなったときに征服するさ。それに、もしそうしなかったからといって何か違いがあるかね?我々は彼らの存在を閉めだしてしまうことができるんだ。オセアニアが世界なのだ」

(24) 「しかしそんな世界は砂上の楼閣に過ぎない。人間はちっぽけで・・・無力だ!今までどれだけ存在してきたというのです?数百万年前には、この地球は無人だった

(25) 「くだらない。この地球は我々と同じ年齢だ、我々より古いということはない。どうすれば我々より古いということになるのだ?人間の意識を通さなければ存在するものなど無いというのに」

(26) 「しかし地層からは・・・マンモスやマストドン[1]、人間が現れる前にこの地上で生きていた巨大な爬虫類の、絶滅した動物の骨がたくさん見つかっている」

(27) 「君は今までそんな骨を見たことがあるかね、ウィンストン?もちろん無いだろう。十九世紀の生物学者がでっち上げたのだ。人間の前には何も無い。もし終わりが来るとしてだが、人間の後にも何も無いだろう。人間の外側には何も無いのだ

(28) 「しかし全宇宙は私たちの外側にあります。星を見てください!あの内のいくつかは百万光年も離れたところにあるのです。決して私たちの手には届かない所にあるのです」

(29) 「星とは何だね?」オブライエンが冷淡に言った。「あれは数キロ向こうで燃えるちょっとした炎だ。我々はそれを手にすることができる。もしそうしたければだがね。あるいはぬぐい去ることも可能だ。この地球が宇宙の中心なのだ。太陽と星々はその周りを回っているのだ」

(30) ウィンストンはもう一度必死にもがいた。今度は彼も何も言わなかったがオブライエンはまるで反論に答えるように続けた。

(31) 「もちろん特定の目的においてはこれは真実ではない。航海する場合や日蝕を予測する場合には地球が太陽の周りを回り、星々は百万キロの百万倍も向こうにあるとした方が便利なこともしばしばあるだろう。しかしそれがどうした?君は我々には天文学の二重体系を作ることができないとでも思っているのか?星々は我々の必要に応じて近くにも、遠くにもなるのだ。君は我々の数学者がそれはおかしいと言うとでも思っているのか?二重思考のことを忘れたのか?

(32) ウィンストンはベッドの上で身を縮こまらせた。彼が何を言おうが棍棒で殴りつけるように即座に論破されるだろう。しかしそれでも彼にはわかっていた。わかっていたのだ。自分が正しいということが。自らの頭の外側には何も存在しないという考え・・・それが誤りだと証明する方法が確かあったのではなかったか?それは誤った推論だということがはるか昔に示されてはいなかっただろうか?彼には思い出せなかったが名前すら付けられていたはずだ。彼を見下ろすオブライエンの口の端にかすかに引きつるような笑みが浮かんだ。

(33) 「教えてあげよう、ウィンストン」彼が言った。「形而上学は君の助けにはならんよ。君が思い出そうとしている言葉は唯我論[2]だ。しかし君は間違っている。これは唯我論ではない。そう呼びたければ集団的唯我論と言ってもいいだろう。しかし全くの別物だ。実際のところ正反対の物なのだ。全ては余談だがね」彼は口調を変えて付け加えた。「我々が日夜、闘争に明け暮れる目的であるところの現実の権力とは、物事に対する力ではなく人間に対する力なのだよ」彼はいったん言葉を止め、しばらくの間、またあの将来性のある学生に質問をしている教師のような雰囲気を漂わせた。「人はその権力を他の者に対してどのように行使するかわかるかね、ウィンストン?」

(34) ウィンストンは考えた。「相手を苦しめることによってです」彼は言った。

(35) 「その通り。相手を苦しめることによってだ。服従だけでは十分ではない。もし相手が苦しんでいなければ、どうやって相手がこちらの意思に従っているのか自分の意思に従っているのか確認できる?苦痛と屈辱の中にこそ、権力は存在するのだ。人間の精神をばらばらに引き裂き、好きなように新しい形状に再構成することこそが権力なのだ。さあ、我々が創りあげようとしている世界が、どのようなものか君にはわかり始めているのではないかね?過去の改革論者が夢想した馬鹿げた快楽主義的なユートピアの対極にあるものだ。恐怖と裏切りと苦痛の世界だ。蹂躙し蹂躙される世界だ。改良されるに連れて、無慈悲な行為が減るのではなく増してゆく世界だ。我々の世界における進歩は、より苦痛の増してゆく方向への進歩だ。過去の文明は、自分たちは愛情や正義の上に立脚すると主張した。我々の文明は憎悪の上に立脚している。我々の世界には恐怖と、怒りと、征服と、自己卑下以外の感情は存在しなくなるだろう。他の物は全て我々が破壊する・・・全てだ。既に我々は、革命以前から残っている思考習慣を打ち倒しつつある。我々は親と子の間の、人と人の間の、男と女の間の絆を断ち切った。もはや誰も妻や子供や友人を信頼しようとはしない。しかし将来的には妻も友人も存在しなくなるのだ。子供たちは生まれた瞬間に母親から取り上げられる。ちょうど雌鶏から卵を取り上げるようにだ。性本能は根絶やしにされるだろう。生殖は配給カードの更新のような年中行事になるだろう。我々はオーガズムをも滅ぼすだろう。我々の神経学者は今もその研究に取り組んでいる。党に対する忠誠以外は忠誠心も存在しなくなる。ビッグ・ブラザーに対する敬愛以外は愛情も存在しなくなる。敗北した敵に向けられる勝利の笑い以外は笑いも存在しなくなる。芸術も、文学も、科学も存在しなくなる。我々が全能になった暁にはもはや我々は科学をも必要とはしなくなるのだ。美しさと醜さの区別も存在しなくなるだろう。好奇心も、生きることに対する喜びも存在しなくなるだろう。同じように全ての楽しみは打ち壊されるだろう。しかし常に・・・これだけは忘れるな、ウィンストン・・・常に権力への陶酔は存在する。常に増大を続け、その巧妙さを増していく。常に、瞬間ごとに、勝利に対する官能と無力な敵を蹂躙することに対する興奮が存在するようになるのだ。もし未来の描像が欲しければ人間の顔を踏みにじるブーツを想像しろ・・・それが永遠に続くのだ」

(36) 彼はウィンストンが何か言うのを待つように言葉を止めた。ウィンストンは再びベッドの上で体を縮こまらせるようにした。何も言えない。彼の心臓は凍りついたようだった。オブライエンは続けた。

(37) 「それが永遠に続くということを憶えておくことだ。踏みつけられるための顔は常に存在する。異端者、社会の敵は常に存在し何度でも打ち負かされ侮辱され続けるだろう。君が我々に捕まってから経験した全てが・・・継続し、悪化してゆくだろう。スパイ活動、密告、逮捕、拷問、処刑、失踪。それらが無くなることは決してない。それは勝利の世界であるのと同じくらい、恐怖の世界でもあるのだ。党は力を増大させ寛容さを失ってゆく。反対勢力は弱体化し独裁は強化されてゆく。ゴールドスタインと彼の周りの異端者どもは永遠に生き続けるだろう。毎日のように、いや各瞬間ごとに彼らは敗北し、信用を失い、嘲笑され、唾棄されるだろう。しかしそれでも常に彼らは生き延び続けるのだ。7年の間、私が君に演じてみせたこのドラマは、何度でも世代を超えて演じ続けられるだろう。いつだって巧妙な形でだ。いつだって我々は異端者をここで慈悲心と苦痛による絶叫、精神的な衰弱と軽蔑でもてなしてきた・・・そして最後には完璧な悔悟と転向があり、自らの意思で我々の足元にひれ伏すのだ。それこそが我々が用意している世界なのだ、ウィンストン。勝利に次ぐ勝利、征服に次ぐ征服に次ぐ征服の世界。権力が思いのままに行う、終わりなき抑圧、圧制、弾圧。世界がどのようなものになるのか、君も気付き始めているだろう。しかし最終的には理解するだけには留まらない。君はそれを受け入れ、歓迎し、その一部となるのだ


(38) ウィンストンはなんとか話せるようになるまで力を取り戻していた。「そんなことは無理だ!」彼は弱々しく言った。

(39) 「どういう意味だ、ウィンストン?」

(40) 「あなたが今言ったような世界を作り上げることなどできない。夢物語だ。不可能だ」

(41) 「なぜ?」

(42) 「恐怖と憎悪と残虐の上に文明を築きあげるなんてことは不可能だ。決して持ちこたえることなどできない」

(43) 「なぜできない?」

(44) 「そこには生命力が無いからです。崩壊してしまう。自ら死を選ぶでしょう」

(45) 「馬鹿な。君は憎悪は愛情よりも多くの疲弊をもたらすと思い込んでいる。しかしなぜそうだと言える?それにもしそうだとして、どんな違いが生まれるというのだ?我々が今より早く消耗してゆくことを選んだとしよう。30歳にして老齢期となるように人間の命を加速させたとしよう。それでどんな違いが生まれるというのだ個人の死は死ではないということを君は理解できないのか?党は不滅なのだ

(46) いつものようにその声はウィンストンを叩きのめし無力感へと追い込んだ。この論争を続ければオブライエンがあのダイヤルをまたひねるのではないかという不安が彼を包んでもいた。しかしそれでも黙っていることはできなかった。オブライエンが言ったことに対する言葉にならない恐怖の他には何の助けも無く、何の根拠もないまま彼は弱々しく反撃にでた。

(47) 「私にはわかりません・・・わかる気もありません。あなたたちは何かで失敗するでしょう。あなたたちを何かが打ち負かすでしょう。生命があなたたちを打ち負かします」

(48) 「我々は生命をもコントロールしているのだ。ウィンストン。その全ての段階でだ。君は人間の本質とでも呼ぶべき何かが存在し、それが我々の行いによって暴発し、我々に対して対抗すると想像しているのだろう。しかし我々が人間の本質を作り出すのだ。人間には無限の可塑性がある。あるいはプロレタリアか奴隷が蜂起し、我々を打ち倒すという以前の考えに舞い戻っているのかね。そんな考えは捨ててしまえ。彼らは無力だ。ちょうど動物のようにな。人類とは党のことだ。他の者は範疇外だ・・・考慮するに値しない」

(49) 「どうでもいいことです。最後には彼らがあなたたちを打ちのめすでしょう。遅かれ早かれ彼らはあなたたちが何者であるかを理解します。そしてその時こそ彼らがあなたたちをばらばらに引き裂く時です」

(50) 「それが起きるという証拠が何かあるのかね?そうなるという理由が何か?」

(51) 「いいえ。私がそう信じているのです。私にはあなたたちが失敗することがわかるのです。この宇宙にはあなたたちが決して踏み越えることのできない何かが・・・それが精神なのか、原理なのか私にはわかりませんが・・・存在するのです」

(52) 「君は神を信じるのか、ウィンストン?」

(53) 「いいえ」

(54) 「それでは何なのだ。その我々を打ち倒すであろう原理とは?」

(55) 「わかりません。おそらくは人間の精神です」

(56) 「それでは君は、自分のことを人間だと思っているのかね?」

(57) 「ええ」

(58) 「もし君が人間だというならば、ウィンストン。君は最後の人間だ。君の同族は絶滅した。我々が後継者だ。君は自分が一人ぼっちだということを理解しているのかね?君は歴史の外にいる。君は存在しないんだ」彼の物腰が変わり、口調は荒々しくなった。「君は自分のことを我々より道義的に優れていると思っているのかね。我々の欺瞞や残酷さを理由に?」

(59) 「ええ。私の方がまだましだと思います」

(60) オブライエンは何も言わなかった。二人の人間が話しているのが聞こえてくる。しばらくしてウィンストンはその内の片方が自分であることに気づいた。それは彼がブラザーフッドに加入したあの夜の、オブライエンとの会話を録音したものだった。嘘をつき、盗み、偽造し、殺し、薬物摂取と売春を広め、性病を蔓延させ、子供の顔に硫酸を浴びせかけることを誓約している自分の言葉を彼は聞いた。オブライエンは、まるでこんなデモンストレーションは行う意味も無いというように、わずかにいらだったしぐさを見せた。彼がスイッチをひねると音声は止まった。

(61) 「ベッドから起きたまえ」彼は言った。

(62) 拘束が自動的に解けた。ウィンストンは床に降りるとふらふらと立ち上がった。

(63) 「君は最後の人間だ」オブライエンが言った。「君は人間の精神の守護者だ。自分の姿を見るといい。服を脱ぎたまえ」

(64) 彼は自分のオーバーオールの留め具を外した。ファスナーははるか昔にねじり取られている。逮捕されてからこれまで一度でも服を脱いだことがあったかどうか彼は思い出せなかった。オーバーオールの下の体には薄汚い黄ばんだぼろ布が巻きつき、かろうじて下着の残骸であることがわかるだけになっていた。それを地面に脱ぎ落とした時になって彼は部屋の突き当たりの壁に三面鏡があることに気づいた。彼はそれに近づいてゆき、しばらく立ち尽くした。不意に悲鳴が彼の口から漏れた。

(65) 「前に進め」オブライエンが言った。「鏡の間に立つんだ。横からの様子もよく見るといい」

(66) 彼が立ち止まったのは恐怖のためだった。弓のように曲がった灰色の骸骨のようなものが自分に向かって進んでくる。自分であることがわからないというだけではなく、その外見は実に恐ろしげなものだった。彼は鏡に近づいていった。背骨が曲がっているために、その生き物の顔は前に突き出されているかのように見える。はげ上がった頭皮へと続く整った額、ねじ曲がった鼻、殴られた跡のある頬骨の上には恐ろしげで油断無い目が光る惨めな囚人の顔だった。頬にはしわが走り、口はすぼまっている。確かにそれは彼自身の顔だったが、彼には自分の内面が変わった以上に変わり果てているように思えた。そこに浮かぶ表情は彼が感じたものとは違うものになるだろう。頭はところどころはげていた。最初、彼は白髪になったのかと思ったのだが、白く見えているのは頭皮だったのだ。手と顔の周りを除くと、彼の体は時間が経って染み付いた汚れで灰色に覆われていた。汚れの下にはそこかしこに赤い傷跡が走り、くるぶしの近くでは静脈瘤性の潰瘍が真っ赤に腫れ上がって、皮膚が爛れて剥がれ落ちていた。しかし真に恐ろしいのはやせ細ったその体だった。肋骨が骸骨のように浮き上がり、足はやせ細って太ももより膝のほうが太いくらいだった。オブライエンが両側を見るよう言った意図をようやく彼は理解した。驚くほど背骨が彎曲している。薄い両肩は胸がくぼむほど丸まり、骨ばった首は頭蓋骨の重みで二つ折りになりそうだった。まるで60代の何か悪い病気に苦しんでいる人間の肉体のようだ


(67) 「君はときどき思っただろう」オブライエンが言った。「私の顔は・・・党内局のメンバーの顔は・・・年老いて疲れ切っているように見えると。君自身の顔についてはどう思うかね?

(68) 彼はウィンストンの肩をつかむと、自分自身の姿をよく見ろとでも言う風に振り向かせた。

(69) 「自分の置かれている状態を見ろ!」彼が言った。「君の体中のこの薄汚い垢を見ろ。足先の間の糞便を見ろ。君の足に走るこの吐き気を催させる傷を見ろ。君は自分が山羊のような悪臭を放っていることに気がついているのか?どうせそんなものにも気づかなくなっているのだろう。君の衰弱ぶりを見ろ。見えるか?君の二の腕なら私の親指と人差指でもつかんで指を合わせられる。首の骨をにんじんのようにへし折ることだってできる。我々に捕まってから君の体重が25キロも減っていることに君は気づいているのか?髪だって束になって抜け落ちている。見ろ!」彼はウィンストンの頭を引き寄せると髪を一房むしりとった。「口を開けてみろ。9、10、11本。残っているのはそれだけだ。君が我々の元に来たとき何本有った? そして残り少ない歯も抜けかけている。これを見ろ!」

(70) 彼はウィンストンの残っている前歯の一本を親指と人差指で強くつかんだ。鋭い痛みがウィンストンのあごを貫いた。オブライエンがグラグラとしていた歯を根元からねじって抜いたのだ。彼はそれを監房の床に投げ捨てた。

(71) 「君は腐りかけている」彼が言った。「ばらばらに崩れ落ちそうになっている。君は何だ?汚物の詰まった袋じゃないか。さあ、振り返って鏡をもう一度見るんだ。君と向かい合っている物が見えるか?これが最後の人間だ。君が人間なのだとすればこれが人間というものなのだ。さあ、もう一度服を着ろ」

(72) ウィンストンはゆっくりとぎくしゃくした動きで服を身につけ始めた。どれだけ自分がやせ細り、衰弱しているのかということに彼は今まで気がついていなかったのだ。彼の頭に浮かんだ考えは、思っていたより長いこと自分はこの場所にいたのだ、という一つだけだった。みすぼらしいぼろ布を体の周りに留めると突然、自分のぼろぼろの体に対する悲哀の感情が彼を襲った。自分でも気がつかないうちに彼はベッドの脇の小さないすに崩れ落ち、涙を流し始めていた。彼は自分が明るい白い光の下で座ってすすり泣く汚れた下着でひとかたまりにまとめられた骨の塊であることを理解した。その姿は醜く、グロテスクだ。しかし泣き止むことはできなかった。オブライエンがまるで労るように彼の肩に手を置いた。

(73) 「永遠にこれが続くわけではない」彼が言った。「いつだって君がそう願えば抜け出せる。全ては君次第なんだ」

(74) 「あなたがやったんだ!」ウィンストンは泣きじゃくった。「あなたが私をこんな状態にしたんだ」

(75) 「いいや、ウィンストン。君は君自身でそうなったんだ。これは君が党に対して反逆しようとした時点で君が受け入れたことなんだ。最初の一歩から全て決まっていたことなんだよ。君にとって予測外だったことは何も起きていないはずだ

(76) 彼はしばらく言葉を止めてから続けた。

(77) 「我々は君を殴った、ウィンストン。我々は君を粉々に打ち砕いた。君は自分の体がどうなっているか見ただろう。君の精神も同じ状態だ。私には君に大したプライドが残されているとは思えない。君は蹴りつけられ、鞭打たれ、侮辱された。痛みに悲鳴を上げ、自分の血と嘔吐物と共に床の上を転げ回った。慈悲を乞いながらすすり泣き、あらゆる人間、あらゆる物を裏切った。恥じるべきでない部分が自分に残されていると思うのかね?

(78) まだ瞳からは涙が溢れ出していたがウィンストンはすすり泣きをやめ、オブライエンを見上げた。

(79) 「私はジュリアを裏切ってはいません」ウィンストンは言った。

(80) オブライエンは考えこむように彼を見下ろした。「ああ」彼が言った。「ああ。それは確かに本当だ。君はジュリアを裏切っていない」

(81) 何ものにも壊すことができないように思えるオブライエンに対する不思議な畏敬の念が再びウィンストンの心にあふれた。何という知性。彼は思った。何という知性なのだ!自分に対して言われたことをオブライエンが理解できないなどということは、決して無いのだ。他の人間であれば誰もが彼はジュリアを裏切ったと即座に答えるだろう。彼らが拷問でも彼から搾り出すことのできなかったものとは何なのか?彼は彼女について知っていることの全てを彼らに話した。癖、性格、今までの人生。二人で会った時に起きたことはどんなに些細なことも自白した。彼が彼女に言ったこと。彼女が彼に言ったこと。闇市で手に入れた食べ物のこと、性行為のこと、党に対するあやふやな反抗計画のこと・・・全てだ。しかしそれでも彼が考える意味では、彼は彼女を裏切っていなかった。彼女を愛することをやめてはいなかったし、彼女への思いは変わらないままだった。オブライエンは彼の意味するところを説明の必要も無しに理解したのだ。

(82) 「教えてください」彼は言った。「あとどれくらいで私を銃殺するのですか?」

(83) 「おそらくはずっと後になる」オブライエンが言った。「君は難しい症例だ。しかし諦めてはいけない。遅かれ早かれ皆、治癒するのだ。それが終われば我々は君を銃殺する」



[1] マストドン:約4000万年前から11000年前まで生息していたゾウ型の大型哺乳類
[2] 唯我論:「確信できるのは自分の精神の存在だけであり、それ以外のあらゆるものの存在は信用できない」とする哲学上の考え方


『1984年』 3-2

『1984年』
ジョージ・オーウェル


第三部
第二章


(01) 彼はなにか折り畳み式のベッドのようなものに横たわっていた。ただしそれは床からだいぶ高く、その上に動けないように固定されていた。顔はまぶしい光で照らされている。脇にオブライエンが立ち、じっと彼を見下ろしていた。その反対側には白い上着を着た男が注射器を手に立っている。

(02) 目を開いた後も彼には周りの様子がゆっくりとしか見えてこなかった。自分がどこか全く異なる世界、深い水底の世界からこの部屋に浮かび上がったような印象を彼は受けた。どれだけの間そこに横たわっていたのかはわからなかった。逮捕された瞬間から暗闇も陽の光も見ていないのだ。とにかく記憶は途切れていた。眠りに落ちた時にも残っているようなわずかな意識さえ無い空白の時間があり、その後で再び意識を取り戻すということが何回か続いた。しかしその時間が数日だったのか数週間だったのか、あるいはほんの数秒だったのかそれを知るすべは無かった。

(03) 肘への最初の一撃によって悪夢は始まったのだ。後になって彼は、その時に起きたことは囚人であればほぼ全員が経験するものであり、一連の取り調べのたんなる予告に過ぎないことを知った。当然のように皆が自白しなければならない犯罪は多かった・・・スパイや破壊活動といったものだ。自白は形式的なものにすぎなかったが拷問は本物だった。何回殴られたか、どれだけの間殴り続けられたか、彼には記憶がない。いつも黒い制服を着た5、6人の男がいた。ある時は拳で、ある時は警棒で、ある時は鉄の棒で、ある時はブーツで彼は打たれた。時には身を捩りながら、動物のように恥も外聞もなく床に転がることもあった。それは蹴りを避けようという終わりも希望も無い努力だったが、たんに肋骨や腹、肘、すね、股間、睾丸、腰骨にさらなる蹴りを招くだけだった。看守が自分を殴り続けることではなく、自分で意識を失えないことが冷酷で邪悪で無慈悲なことだと考えだすほどそれが続く時もあった。神経が参ってしまって殴られる前から許しを乞う叫びを上げることもあったし、拳を見ただけで殴られたようになって自分の犯した罪についてある事ない事、次々に自白することもあった。そうかと思うと何も自白しないと決意することもあったし、全ての言葉が痛みの喘ぎ声と共に無理やり引き出されることもあった。また弱々しく譲歩を試みる時もあったし、「自白しよう。だがまだだ。痛みに耐えられなくなるまでは我慢だ。あと三回蹴られたら、あと二回蹴られたら、そうしたら奴らの好きなようにしゃべってやる」そう自分に言い聞かせることもあった。時には立っていられなくなるまで殴られ、じゃがいも袋のように監房の石造りの床に倒れこむこともあった。そうなると回復するまで数時間、放っておかれ、それからまた連れて行かれて殴られるのだった。回復のために長い期間が取られることもあった。ほとんどの場合は眠っていたり意識不明の状態だったので、その時のことはおぼろげにしか憶えていない。憶えているものは、まるで壁に取り付けられた棚のような板張りのベッドのある監房、ブリキの洗面器、それに温かいスープとパンの食事、たまに出るコーヒーだった。また理髪師があごひげを剃り、髪を刈りに来たことや、白い上着を着た事務的で無表情な男たちが彼の脈を取り、反射反応を調べ、まぶたをめくり、骨折箇所を調べるために乱暴に体に指を走らせ、眠らせるために腕に注射針を打ち込んだことを確かに憶えていた。

(04) やがて殴られることが少なくなり、彼の受け答えが十分でない場合には脅されたり、恐ろしい目にあわせられるようになった。尋問者は黒い制服を着たごろつきではなく、眼鏡を光らせた動きのすばしっこい小太りの党のインテリになっていた。彼らは代わる代わる交代で一度に・・・彼には確認しようもなかったが・・・10時間も12時間もの間、尋問を続けた。この尋問者たちは常に軽い痛みを彼に与えたが、彼らの武器は苦痛ではなかった。たしかに彼らは顔をはたいたり、耳を捻りあげたり、髪をつかんだり引きずったり、片足で立たせ続けたり、トイレに行くことを禁じたり、目から涙が流れるまでぎらぎらと輝く明かりで彼の顔を照らしたりした。しかしその目的は彼に屈辱を与え、反論したり論理的に考えたりする力を奪い取ることだった。彼らの武器は何時間も続く容赦のない尋問だったのだ。揚げ足をとり、罠にはめ、彼の言ったこと全てをねじ曲げ、恥辱と神経の疲れで彼が泣き出すまで全てを嘘や矛盾だと決めつけた。時には一度の取り調べで六回も彼が泣き出したことさえあった。ほとんどの時間、彼らは罵りの叫びを上げ続け、彼が口ごもるたびにまた看守のところに送り込むぞと脅した。しかし時には突然態度を変えて彼を同志と呼び、イングソックとビッグ・ブラザーの名前を出して訴えかけることもあった。そして過ちをあがないたいという思いを抱かせる党への忠誠心は今もないのか、と悲しそうに尋ねるのだ。何時間もの尋問の後で彼の神経がぼろぼろになっている時には、そんな訴えでさえも彼にすすり泣きの涙を催させた。最後の方にはその執拗な声は、看守のブーツや拳よりも完璧に彼を打ちのめした。要求されれば何でもしゃべる口に、そして何にでも署名する手に彼は成り下がった。虐待行為が新たに始まる前に彼らが自白させたいことを見付け出し、すばやく自白する。それだけが彼の関心ごとだった。彼は地位の高い党員の暗殺を、扇動的なビラの配布を、公的資金の横領を、軍事機密を売り渡したことを、あらゆる種類の破壊活動を自白した。はるか昔、1968年からイースタシア政府に雇われたスパイであったことを自白した。また自分が宗教信者であり、資本主義の信奉者であり、性的倒錯者であることを自白した。自分の妻を殺したことも自白した。彼も、そして尋問者も、間違いなく妻がまだ生きていることを知っているのにも関わらずだ。何年もの間、ゴールドスタインと個人的な接触があること、地下組織のメンバーであることを彼は自白した。彼の知り合いのほとんどが、同じ組織に所属することも付け加えた。そうすることでどんなことでも自白しやすくなったし、誰でも巻き込むことが容易になった。さらに言えばある意味で自白は全て真実だった。彼が党の敵対者であることは真実だったし、党の目から見れば思想と行動の間に区別は存在しないのだ


(05) 他にも憶えていることはあったが、それはまるで暗闇の中にちらばる絵のような途切れ途切れの記憶だった。

(06) 彼は暗いのか明るいのかもわからない監房にいた。彼には一対の目玉だけしか見えないのだ。近くでは何かの装置がゆっくりと規則的な音をたてている。目玉はだんだん大きく、鮮明になっていく。突然、彼はいすから浮き上がり、その目玉に向かって飛び込み、飲み込まれた

(07) まばゆい光の下で彼は計測器に囲まれたいすに縛り付けられていた。白い上着を着た男が計測器を読み取っている。外から重々しいブーツの足音が聞こえ、扉が音をたてて開くと蝋人形のような顔の執行官が二人の看守を従えて歩いてきた。

(08) 「101号室だ」執行官が言った。

(09) 白い上着の男は顔も上げない。ウィンストンの方も見てはおらず、ただ計測器だけを見つめていた。

(10) 彼は大きな笑い声と自白の叫びをあげながら、幅が1キロほどもある壮麗で黄金の光が満ちた巨大な廊下を転げ落ちていった。彼は全てを自白していた。拷問で守り通したことまでもだ。自分の生涯を既にそれを知っている聴衆に向けて語っていた。看守たち、尋問者たち、白い上着の男たち、オブライエン、ジュリア、チャーリントン氏、皆が彼と一緒に高笑いしながら廊下を転げ落ちていった。未来に必ず起きるはずだった恐ろしい出来事は、どうしたわけかいつの間にか通り過ぎ、起こらなかった。全てが順調で、痛みはもう存在しなかった。彼の人生は隅から隅まで暴かれ、理解され、許されたのだ

(11) 彼はオブライエンの声を聞いたような気がして板張りのベッドから起き上がろうとした。彼の姿は見えなかったが尋問の様子から、オブライエンが自分の肘のあたりのちょうど視界から外れている場所にいるような気がした。全ての指揮を下していたのはオブライエンだった。ウィンストンを看守の手に引き渡し、なおかつ彼らに殺させないようにしていたのは彼だったのだ。いつウィンストンが痛みに叫びを上げるべきか、休息をとるべきか、食事を与えられるべきか、眠るべきか、腕に薬物を注射されるべきか、彼が決めていたのだ。質問を尋ね、その答えに誘導していたのは彼だったのだ。彼は虐待者であり、庇護者であり、尋問官であり、友人だった。そして・・・薬で眠らされていた時だったか、普通に眠っている時だったか、目覚めている時だったかすら彼は憶えていなかったが・・・声が彼の耳につぶやいた。「心配するな、ウィンストン。君は私が守っている。七年間、君を見守ってきた。今、転換点が来たんだ。君を助けて、完璧にしてやる」オブライエンの声だったかどうか彼にはわからなかったが、それは七年前に夢の中で「暗闇でない場所で会うことにしよう」と彼に言ったのと同じ声だった。

(12) どんな風に尋問が終わったのかは憶えていなかった。暗転の時間があり、それからだんだんと彼が今いる監房、あるいは部屋が彼の周りに浮き上がってきた。彼の体はほぼ水平になっていて身動きすることはできなかった。体が要所要所で固定されていたのだ。後頭部すら何らかの方法で固定されていた。オブライエンが厳しい顔でとても悲しそうに彼を見下ろしていた。下から見ると彼の顔は疲れきって荒れ、目の下はたるみ、鼻からあごにかけて疲労によるしわができていた。彼はウィンストンが思っていたよりも年老いていた。おそらく48歳か、50歳といったところだろう。彼の手の下には上部にレバーがついたダイヤルがあり、その周りには数字がふられていた。

(13) 「また会うとしたらそれはここだろう、と私は君に言ったな」オブライエンが言った。

(14) 「ええ」ウィンストンが言った。

(15) オブライエンの手がわずかに動いただけで、他には何の警告もなく痛みの波が彼の体に流れ込んだ。それはぞっとするような痛みだった。彼には何が起きたのか分からず、何か致命的な負傷が自分に起きたように感じられた。何かが本当に起きているのか、それともたんなる電気的に生み出された結果なのかが彼にはわからなかった。しかし体は奇妙な形にねじ曲がり、関節がゆっくりと引き裂かれていくようだった。痛みで額から汗が吹き出ていたが、もっともひどいのは背骨が折れるのではないかという恐怖だった。彼は歯を食いしばり、鼻で荒い息をしながらできるだけ静かにしようと試みた。

(16) 「君は恐れている」オブライエンが言った。「今にどこかが折れてしまうことを。特にそれが背骨ではないかと恐れている。脊椎が折れてバラバラになり、そこから髄液がこぼれ落ちる様子を鮮明に思い描いている。それが今、君が考えていることだろう? ウィンストン」

(17) ウィンストンは答えなかった。オブライエンがダイヤルの目盛りを下げる。痛みの波はそれが来たときと同じくらいすばやく引いていった。

(18) 「今のが40だ」オブライエンが言った。「見ての通りこのダイヤルには数字が100まである。私たちの会話中、私はいつでも君に好きなだけの痛みを与えることができるということを憶えていたまえ。もし君が嘘をついたり、どうにかして誤魔化そうとしたり、普段と比べて物分かりが悪かったりすれば即座に君は痛みで悲鳴を上げることになる。わかったかね?

(19) 「はい」ウィンストンは言った。

(20) オブライエンの態度がすこしだけ和らいだ。彼は眼鏡を思慮深げに直すと1、2歩動いた。次に彼が話しだした時、その声は穏やかで我慢強いものだった。漂わせる雰囲気はまるで医者か教師、あるいは牧師のようですらあり、罰を与えるというよりも説明し、説得しようとしているかのようだった。

(21) 「君には十分に時間をかけるつもりだよ。ウィンストン」彼は言った。「君にはそれだけの価値があるからだ。君は自分のどこが問題か完璧に理解している。何年もの間、君はそれを知っていた。それを押し殺してきたようだがね。君の精神は狂っている。記憶障害に苦しんでいるんだ。現実の出来事を記憶できず、実際には起きていない出来事を記憶していると思い込んでいる。幸運なことにこれは治療可能だ。自分だけで治すことは決してできない。君がそれを望んでいないからだ。君ができないでいる決断は実はそんなに大変なことではないんだよ。君がその病気を美徳だと思い込んで、今でも固執していることはよくわかっている。ちょっと例をあげてみよう。今、オセアニアが戦争をしている国は?」

(22) 「私が逮捕されたときにはオセアニアはイースタシアと戦争をしていました」

(23) 「そう。イースタシアとだ。そしてオセアニアはずっとイースタシアと戦争してきたのだ。そうだね?」

(24) ウィンストンは息を吸った。彼はしゃべろうと口を開いたが何も言えない。ダイヤルから目を離すことができなかった。

(25) 「お願いだから真実を言ってくれ。ウィンストン。君にとっての真実だ。君が憶えていると思っていることを話してくれ」

(26) 「私が憶えているのは、私が逮捕される一週間前まで私たちはイースタシアとは全く戦争状態になかったということです。私たちは彼らと同盟を結んでいた。戦争の相手はユーラシアだった。それはもう4年も続いていた。その前は・・・」

(27) オブライエンが手を上げて彼を止めた

(28) 「別の例をあげよう」彼が言った。「数年前、君は非常に深刻な妄想を抱いたはずだ。三人の男、ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードという名の三人のかつての党員・・・可能な限りの全てを自白した後に裏切りと破壊活動を理由に処刑された男たち・・・が嫌疑をかけられた罪状について無罪だと信じ込んだ。彼らの自白が間違っていることを示す、疑いようのない証拠書類を見たと君は信じ込んだ。そのことを示す写真が存在するという幻覚を見たのだ。君は実際にそれを手にしたと信じ込んだ。それはこんな写真だ」

(29) 長方形の新聞の切り抜きがオブライエンの指の先にあった。5秒ほどの間、それはウィンストンの視界にはいった。それは一枚の写真で、見間違うはずもなかった。あの写真だ。それは11年前に彼が偶然手にし即座に破棄した、ニューヨークでの会合に出席しているジョーンズ、アーロンソン、そしてラザフォードの写真のコピーだった。つかの間、それは彼の目の前に置かれ、また視界から消えた。しかし確かに見た。間違いなく見たのだ!彼は上半身の自由を求めてを体をねじり、痛みを伴う虚しい努力をした。どの方向だろうと1センチも動かすことはできなかった。その時ばかりは彼はあのダイヤルのことさえ忘れた。彼の頭にあることはあの写真をまた手に取ること、それが叶わないならばもう一度目にすることだけだった。

(30) 「やっぱりあったんだ!」彼は叫んだ。

(31) 「いいや」オブライエンが言った。

(32) 彼は部屋の向こうに歩いていった。向こうの壁には記憶の穴があった。オブライエンが蓋を開ける。誰の目にも映ること無く紙切れが暖かい空気にまかれ、炎の光の中に消えて入った。オブライエンが壁の方から戻ってきた。

(33) 「灰だ」彼は言った。「灰と見分けることすらできない。塵だな。あれは存在しないし、今までも存在したことなどない

(34) 「しかし確かにあった!確かに存在するぞ!記憶の中に存在する。私が憶えている。あなたも憶えているはずだ」

(35) 「私は憶えていない」オブライエンが言った。

(36) ウィンストンの心は沈んだ。二重思考だ。彼は致命的なまでの無力感を感じた。もしオブライエンが嘘をついていると確信できれば大した問題ではなかった。しかしオブライエンが本当に写真のことを忘れているということも十分にあり得るのだ。そしてもしそうならば、彼は既に自分の記憶を否定したことも忘れているし、忘れたということも忘れているだろう。それがいかさまだと、どうやって確認すればいい?頭の中でそういった常軌を逸した変調が本当に起こることだってあり得るだろう。その考えに彼は打ちひしがれた。

(37) オブライエンが考え込むようにしながら彼を見下ろしていた。わがままだが将来有望な子供に罰を与える教師のような雰囲気を、前にも増して漂わせている。

(38) 「過去のコントロールについての党のスローガンがある」彼が言った。「よければ暗唱してくれないか」

(39) 「過去を制する者が未来を制する。現在を制する者が過去を制する」ウィンストンは素直に暗唱した。

(40) 「現在を制する者が過去を制する」オブライエンが同意するようにゆっくりと頷きながら言った。「過去は実在するというのが君の意見だな。ウィンストン?」

(41) 再び無力感がウィンストンを襲った。彼の目がダイヤルの方をちらりと見た。肯定と否定どちらが彼を痛みから救う答えなのかわからなかった。もう自分がどちらを真実だと信じているのかもわからなかった

(42) オブライエンがかすかに微笑んだ。「君は形而上学者じゃない。ウィンストン」彼は言った。「存在ということが何を意味するのか考えなくてもいい。もっと正確に言おうか。過去というのは具体的に空間上に存在するか?物質世界のどこかに、過去が今なお進行中である場所があるか?

(43) 「無いです」

(44) 「それでは仮に存在するとして、過去はどこに存在するのだ?

(45) 「記録の中に。それは書き留められています」

(46) 「記録の中。それから・・・?」

(47) 「頭の中に。人間の記憶の中に」

(48) 「記憶の中。よろしい。私たち党は全ての記録をコントロールしているし、すべての記憶をコントロールしている。それでは私たちは過去をコントロールしているのではないかね?」

(49) 「しかし人々が物事を記憶することをどうやってやめさせるのです?」一瞬ダイヤルのことを忘れてウィンストンはまた叫んだ。「それは無意識におこなわれる。自らの手の及ばないことです。どうやって記憶をコントロールできるのです?あなたは私の記憶さえコントロールできていない!

(50) オブライエンの態度がまた厳しいものになった。彼の手はダイヤルの上に置かれていた。

(51) 「反対だ」彼が言った。「コントロールできていないのは君の方だ。そのせいで君はここに連れて来られたんだ。君がここにいるのは、君が謙虚さと自制心を失ったためなんだぞ。君は正気の代償である服従行為をおこなおうとしなかった。錯乱し、少数派となることを選択した。鍛錬された精神だけが現実を認識することができるのだ、ウィンストン。君は現実とは何か実体がある、外部的な、独自の真実性を持つ存在だと信じた。さらには現実の本質は自明なものだと信じた。君が何かを見たと信じ込んだ時には、他の皆も君と同じ物を見ているはずだと考えている訳だ。しかし君に教えてやろう、ウィンストン。現実とは外部にあるものではないのだ。現実とは人間の頭の中にだけ存在するものだ。それ以外のどこにも存在しない。個人の頭の中に、ということではないぞ。それでは思い違いが起きるし、どちらにしても死ねばすぐに消えてしまう。集合体であり、不滅である党の精神の中にだけ存在するのだ。党が真実だと思うことは何であれ真実だ。党の目を通して見る以外には現実を見ることは不可能なのだ。これこそ君が学び直さなければならない事実だ、ウィンストン。そしてそれには自己の滅却と努力が必要だ。正気になるためには自分に対して謙虚でなければならない」

(52) 自分の言っていることを理解する時間を与えるかのように、彼はしばらく黙った。


(53) 「君は自分の日記にこう書いたことを憶えているか?」彼は続けた。「『自由とは2足す2が4だと言える自由だ』

(54) 「ええ」ウィンストンは言った。

(55) オブライエンは手の甲を見せながら左手を上げた。親指を折り、4本の指は伸ばしている。

(56) 「私は何本の指を立てている、ウィンストン?」

(57) 「4本です」

(58) 「それではもし党が4本ではなく5本だと言ったら・・・その時は何本だ?」

(59) 「4本です」

(60) 痛みの声で言葉は途切れた。ダイヤルの針は55まで上がっていた。ウィンストンの体中から汗が噴き出る。空気が彼の肺に襲いかかり、うめき声となって出て行く。歯を食いしばっているにも関わらず低いうめき声が漏れるのを止めることができなかった。

(61) オブライエンが4本の指を立てたまま彼を見つめていた。レバーが戻される。今度は痛みがわずかに和らいだだけだった。

(62) 「指は何本だ、ウィンストン?」

(63) 「4本です」

(64) 針が60まで上がった。

(65) 「指は何本だ、ウィンストン?」

(66) 「4本!4本です!他にどう言えばいいんですか?4本だ!」

(67) 針がまた上がったことは間違いなかったが彼はもう見ていなかった。重苦しく厳めしい顔と4本の指が彼の視界を埋めていた。4本の指が彼の目の前に柱のように巨大にそびえ立っている。それはぼやけ、震えて見えたが明らかに4本だった。

(68) 「指は何本だ、ウィンストン?」

(69) 「4本だ!止めろ、止めてくれ!どうしたいっていうんだ?4本!4本だ!」

(70) 「指は何本だ、ウィンストン?」

(71) 「5本!5本!5本だ!」

(72) 「いいや、ウィンストン。そんなのは無駄だ。君は嘘をついている。君はまだ4本だと考えている。指は何本だ、さあ?」

(73) 「4本!4本!4本!あなたの好きなだけだ。だから止めてくれ。痛みを止めろ!」

(74) 気がつくとオブライエンの腕で肩を支えられながら彼は座っていた。おそらくほんの数秒だが意識を失っていたのだろう。彼の体をつなぎとめていた拘束具は緩められていた。ひどく寒く、体の震えが止まらずに歯がかちかちと鳴って、頬を涙が伝っていった。しばらくの間、彼は赤ん坊のようにオブライエンにしがみついた。肩に回された大きな手が奇妙に安心感を与えた。彼はオブライエンを自分の庇護者のように感じた。痛みはどこか外部の別の源から到来したもので彼をそれから救ってくれるのはオブライエンなのだ。

(75) 「君は物覚えが悪いな、ウィンストン」オブライエンが穏やかに言った。

(76) 「どうすればいいって言うんだ?」彼は泣きじゃくった。「目の前にある物をどうやって見ればいいって言うんだ?2足す2は4だ」

(77) 「時には、ウィンストン。時には5にもなるんだよ。時には3にもなる。時には同時にそれら全てにもなるんだ。君は頑張らなくちゃならない。正気になるのは簡単じゃない

(78) 彼はウィンストンをベッドに寝かせた。手足の拘束がまたきつくなったが痛みは引き、震えが止まり、不快な気分と悪寒だけが残った。今までずっと動かずに立っていた白い上着の男にオブライエンが頭で合図した。白い上着の男はかがみこんでウィンストンの目を覗き込み、脈をとったり、胸に耳をつけたり、そこかしこを触って調べたりした後、オブライエンに頷いてみせた

(79) 「もう一度だ」オブライエンが言った。

(80) 痛みがウィンストンの体に流れ込んだ。針が70から75あたりを指していることは間違いない。今度は彼は目を閉じた。指がまだそこにあること、そしてまだ4本であることが彼にはわかっていた。もっとも重要なことは、この痙攣が終わるまでどうやって生き延びるかだった。自分が叫び声を上げているのかどうかもわからなかった。また痛みが引いてゆく。彼は目を開けた。オブライエンがレバーを下げていた。

(81) 「指は何本だ、ウィンストン?」

(82) 「4本です。4本あるように思います。5本に見えればいいのに。5本に見えるように頑張っているのですが」

(83) 「君はどうしたい。5本見えていると私を説得したいか?それとも本当にそう見たいと思っているのか?

(84) 「本当にそう見たいと思っています」

(85) 「もう一度だ」オブライエンが言った。

(86) おそらく針は80・・・いや90を指していた。ウィンストンの記憶は断続的に途切れ、なぜ痛みが起きているのかわからなくなった。彼の痙攣するまぶたの裏では林立する指が舞い踊り、揺らめいては他の指の後ろに消えたり現れたりしていた。彼は訳もわからずそれを数えようとしていた。それを数え上げることができないことはよくわかっていたが、どうした訳か不思議と4か5のどちらかであることはわかっていた。痛みがまた過ぎ去った。彼は目を開けたが、見えているものは同じだった。動きまわる木々のような無数の指が重なり合いながらそれぞれの方向に流れ去っていった。彼はまた目を閉じた。

(87) 「私は指を何本立てている、ウィンストン?」

(88) 「わかりません。私にはわかりません。もう一度やられたら私は死んでしまいます。4本なのか、5本なのか、6本なのか・・・本当に私にはわからないのです」

(89) 「よろしい」オブライエンが言った。

(90) 注射針がウィンストンの腕に滑り込んだ。直後に充足した癒されるような暖かさが彼の体中に広がった。痛みは既に半分忘れ去られていた。彼は目を開くと感謝するようにオブライエンを見上げた。重厚ではっきりした顔立ちはとても醜悪でありながら同時に非常に知性的に見え、彼の心はひっくり返ったようになった。もし身動き出来れば手を伸ばしてオブライエンの腕に置いただろう。今ほど彼に敬愛を感じたことはなかったし、それはただたんに彼が痛みを止めてくれたからではなかった。オブライエンが友人なのか敵なのかは心底どうでもいいという、以前と同じ感情が戻ってきた。オブライエンは会話するに値する人物なのだ。おそらく人間は愛される以上に理解されることを望むのだろう。オブライエンは彼を拷問によって狂気の縁に追い詰めた。そして近いうちに間違いなく彼を死に追いやるだろう。しかしそれも問題ではなかった。ある意味ではそれは友情よりも深いもので、二人は親友だったのだ。実際には言葉を交わしたことなど無いのにも関わらず、どこかで二人は会って話したことがあるのだ。同じことを考えていると表情で示すようにしながら、オブライエンは彼を見下ろしていた。彼がしゃべり始めたとき、それは気安い会話のような口調だった。

(91) 「自分がどこにいるかわかるか、ウィンストン?」彼が言った。

(92) 「わかりません。推測はできます。愛情省の中です」

(93) 「どれくらいの間、ここにいるかわかるかね?」

(94) 「わかりません。数日か、数週間か、数ヶ月か・・・数ヶ月だと思います」

(95) 「それではなぜ我々は人々をこの場所に連れてくると思うかね?」

(96) 「自白させるためです」

(97) 「いいや。そんな理由ではないね。もう一度、考えて」

(98) 「罰を与えるためです」

(99) 「違う!」オブライエンが声を荒らげた。彼の声が大きく変わり、その顔が突然、厳しく感情的なもに変わった。「違うんだ!たんに自白を引き出したり、罰を与えるためではない。なぜ君をここに連れてきたのか、教えてあげようか?君を治療するためだ!君を正気に戻すためだ!わかるかね、ウィンストン?我々がここに連れてきた者で、治療が終わらないうちに我々の手を離れた者は未だかつて一人もいないのだよ。我々は君が犯した馬鹿げた犯罪などに興味はない。党は目に見える活動には興味がないんだ。我々が関心があるのはその思想だけだ。我々はたんに敵を滅ぼすのではなく、変化させるのだ。私の言っていることがわかるかね?」


(100) 彼はウィンストンの上に屈み込むようにした。近づいた顔は巨大に見え、下から見ているせいでぞっとするほど醜かった。さらに言えばそこには精神的な高揚感、狂人のような激しさが満ち溢れていた。ウィンストンの心臓は再び縮こまった。もしそれができれば彼はベッドの奥深くに縮こまったことだろう。オブライエンはほんの気まぐれであのダイヤルをひねるだろうと彼は感じた。しかしオブライエンはきびすを返した。彼はその場で2、3歩行ったり来たりしてから少し落ち着いたようになって続けた。

(101) 「君がまず理解しなければならないことは、ここでは殉教は存在しないということだ。君は過去の宗教迫害について読んだことがあるだろう。中世には異端審問があった。これは失敗だった。異端を根絶するために始まったにもかかわらず長続きさせる結果に終わった。異端者を火あぶりにする度に1000もの他の者を立ち上がらせたのだ。なぜだと思う。異端審問では公開で処刑がおこなわれたからだ。そして異端者が改悛する前にそれがおこなわれたからだ。改悛しないからという理由で処刑をおこなったのだ。人々はその真の信念を放棄しないがために死んでいった。当たり前のごとく全ての栄光は犠牲者に帰され、全ての恥辱は彼らを燃やした異端審問官に帰された。後世、20世紀には全体主義者と呼ばれる者たちが台頭した。ドイツのナチスやロシアのコミュニストだ。ロシア人たちは異端審問がそうしたのよりもなお一層冷酷に異端者を迫害した。彼らは自分たちは過去の過ちに学んだと考えていた。ともかく相手を殉教者にしてはいけないということは理解していたのだ。犠牲者を公開裁判に引き出す前に彼らは時間をかけて相手の尊厳を打ち壊した。彼らが卑しく卑屈で恥知らずになり、言われたことは何でも自白し、自分のことを卑下し、他の者を非難して言い逃れし、泣いて慈悲を請うまで拷問と孤独によって疲弊させたのだ。しかしほんの数年でまた同じことが起きた。死んだ者は殉教者に祭り上げられその恥辱は忘れられた。さあ、なぜだと思う?まずあげられるのは彼らの自白が明らかに強要されたものであり、虚偽であったということだ。我々は同じ過ちは犯さない。ここで述べられた全ての自白は真実だ。我々がそれを真実にする。そしてもっとも重要なことは、我々は死者が我々の敵対者として祭りあげられることを許さないということだ。後世の人間が君の正当性を証明してくれるとは考えないことだ、ウィンストン。後世の人間が君のことを耳にすることはない。君はきれいに歴史の中から消し去られるだろう。我々は君を気体に変え、大気に送り出すだろう。君に関することは何も残されない。記録の上の名前も、生きている人間の頭の中の記憶もだ。君は過去からも未来からも消し去られる。存在しなかったことになるのだ

(102) それではなぜ自分を拷問するのだろうか?ウィンストンは少し皮肉に思いながら考えた。まるでウィンストンが考えていることを声に出して喋ったかのようにオブライエンは歩みを止めた。彼の目を少し細めた大きな醜い顔が近づいてくる。

(103) 「君はこう考えている」彼が言った。「我々が君を完全に打ち殺してしまおうとしているなら、君が何を言おうが行おうが大した違いは無いじゃないか・・・それならばなぜわざわざ君を取り調べるような面倒をおこなっているのか?君はそう考えているのではないかね?」

(104) 「ええ」ウィンストンは言った。

(105) オブライエンが薄く笑った。「君は欠陥品だ。ウィンストン。ぬぐい去られなければならない汚点だ。我々は過去の迫害者とは違うとついさっき言わなかったか?我々は後ろ向きな服従にも、もっとも惨めな降伏にも満足しないのだよ。君が最終的に我々に降伏するときには、それは君の自由意志によるものでなければならない。我々は異端者を打ち殺しはしない。相手は我々に抵抗しているのだ。抵抗を続ける限り、我々が相手を打ち殺すことは決してない。我々は相手を転向させる。内面を捕縛する。矯正する。全ての悪徳と幻想を相手から焼き捨てる。相手を我々の側に連れてくるのだ。ただの見せかけではなく誠心誠意、全身全霊でそう思うようにさせるのだ。殺す前に、我々は相手を我々の一員にするのだ。世界のどこであれ誤った思想が存在することに我々は耐えられない。たとえそれが秘密にされていようと、無力であろうとだ。死の瞬間であろうとどんな逸脱も許さない。古い時代には異端者は異端者のまま火刑へと歩み、そのさなかに歓喜と共に自らの異端を宣言した。あのロシアの粛清の犠牲者でさえ、その頭蓋骨の中に閉じ込めた反乱を手にしたまま銃殺へと続く廊下を歩んでいくことができた。しかし我々は、吹き飛ばす前にその脳をまっとうなものにしてやるのだ。過去の専制君主の命じるところは「汝、かくあるべからず」だった。全体主義者の命じるところは「汝、かくあるべし」だった。我々の命じるところは「汝、かくなり」だ。我々がここに連れてきた人間で最後まで反抗を貫いた者は一人もいない。全員きれいに洗浄された。君がかつて無実を信じたあの哀れな三人の裏切り者・・・ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォード・・・さえも我々は最後には屈服させた。彼らの取り調べには私も参加したのだよ。彼らが次第に疲れ果て、泣き言を言い、へつらい、すすり泣くのを私は見た・・・最後にはそれは苦痛のためでも恐怖のためでもなく、ただ後悔のためだった。我々の取り調べが終わったときには、彼らは完全な抜け殻だったよ。残されたものは自らの行為に対する後悔と、ビッグ・ブラザーに対する敬愛だけだった。その敬愛の深さを見ると感動するほどだったよ。彼らは自分の精神が清らかなうちに死ねるよう早く撃ち殺してくれと懇願したんだ

(106) 彼の声はまるで夢見るような調子になっていった。狂人の熱狂を思わせる高揚感が彼の顔には浮かんでいた。演技ではない、彼は役者ではないのだ、自分の言ったことを全て信じている、そうウィンストンは思った。彼を何よりも憂鬱にさせるのは自らに対する知性的な劣等感だった。彼は重厚で優雅な姿が視界を出入りしつつ歩きまわるのを見守った。オブライエンはすべての面で彼よりも大きな存在だった。彼が今まで考えてきたり、考えつく可能性のあったアイデアは全てとっくの昔にオブライエンが思いつき、調べ、却下しているのだ。彼の頭脳はウィンストンの頭脳を内包しているのだ。しかしそうであるならば、オブライエンは狂っているとは言えないのではないか?狂っているのは彼、ウィンストンの方だ。オブライエンが立ち止まり彼を見下ろした。その声はまた厳格なものになっていた。

(107) 「我々に全面降伏したからといって、自分が助かるなどとは考えないことだ、ウィンストン。一度道を外れた者が見逃されたことなどいままで一度も無いのだ。それにたとえもし君が元の生活に戻ることを我々が選んだとしても、我々から逃げ出すことなど決してできはしないのだ。ここで君に起きたことは永遠に続く。あらかじめ理解しておくことだな。我々は君を取り返しの付かない状態にまで破壊する。君がこの先、千年生きるとしてもこれから君に起きることを元通りにすることはできない。君が普通の人間と同じ感情を持つことは、もう二度と無い。君の内面にある物、全てが死ぬのだ。愛情も、友情も、生きる歓びも、笑いも、好奇心も、勇気も、高潔さも君が感じることは二度と無い。君は空っぽになるのだ。君が空になるまで絞り上げ、それから我々自身で君を満たしてあげよう

(108) 彼は口を閉じると白い上着の男に合図した。ウィンストンは自分の頭の後ろになにか重そうな装置が設置されたことに気づいた。オブライエンがベッドの脇に腰掛けたので彼の顔の高さはウィンストンの顔とほとんど同じ高さになっていた。

(109) 「3000だ」彼がウィンストンの頭越しに白い上着の男に言った。

(110) 少し湿った感じがする二つの白いパッドが、ウィンストンのこめかみに貼りつけられる。彼は怯えた。痛みが、新しい種類の痛みが来るのだ。オブライエンはまるでいたわり、勇気づけるように手を彼の上に置いた。

(111) 「今度は痛みはない」彼が言った。「しっかりと私を見ていたまえ」

(112) その瞬間、とてつもない爆発が起きた。いや爆発のように思えただけかもしれない。何か大きな音がしたかどうかは定かではなかった。目も眩むような閃光が走ったことは確かだった。なぎ倒された感覚があるだけで痛みは感じなかった。それが起きた時、彼は既に横たわっていたというのに、奇妙なことに倒れこんだような感覚に襲われたのだ。痛みを伴わないとてつもない爆風が彼を吹き飛ばしたのだ。視界の焦点が元に戻っていくに従って彼は自分が誰で、今どこにいるのかを思い出していき、自分を見つめる顔が誰なのかも思い出した。しかし、どこかに大きな空白の領域があった。まるで脳の一部が抜け落ちてしまったようだった


(113) 「時間はかからない」オブライエンが言った。「私を見るんだ。オセアニアはどの国と戦争している?」

(114) ウィンストンは考えた。オセアニアという言葉が意味することや、自分がオセアニアの市民であることはわかった。同じようにユーラシアとイースタシアについても憶えている。しかし誰が誰と戦争しているのか彼にはわからなかった。実際のところ、彼は戦争が起きているということさえ知らなかったのだ。

(115) 「思い出せません」

(116) 「オセアニアはイースタシアと戦争している。思い出したかね?」

(117) 「はい」

(118) 「オセアニアはずっとイースタシアと戦争を続けてきたのだ。君が生まれてからこれまで、党が誕生してからこれまで、有史以来、この戦争は止むこと無く続いてきた。ずっと同じ戦争がだ。思い出したかね?

(119) 「はい」

(120) 「11年前、君は裏切りを理由に死刑判決を受けた三人の男についての架空の話を作り出した。君は彼らの無実を証明する紙切れを自分が見たように装った。そんな紙切れは存在しないのだ。君がそれをでっち上げ、次第に自分でも信じるようになったのだ。今はもう初めてそれをでっち上げたその瞬間のことを君は思い出しているはずだ。思い出したかね?

(121) 「はい」

(122) 「ついさっき、私は君に指を立てて見せた。5本の指が見えていたはずだ。思い出したかね?

(123) 「はい」

(124) オブライエンは左手の指を立てた。親指は隠されている。

(125) 「ほら、5本の指だ。5本の指が見えるかね?」

(126) 「はい」

(127) 彼の頭に浮かんだ風景が変わる前のつかのまの一瞬、彼には確かにそれが見えた。少しも欠けたところ無く、5本の指が見えたのだ。それから全てが普通の状態に戻り、以前感じた恐怖や憎悪や困惑が一斉に舞い戻ってきた。しかしほんの一瞬だったが・・・どれくらいか定かではなかったが30秒くらいだろう・・・疑いのない確実な瞬間があった。そして一瞬とはいえオブライエンの新しい教えのそれぞれが空白の空間を満たし、絶対的な真実に変わり、必要とあらば2足す2は簡単に3にも5にもなったのだ。オブライエンが手を下ろす前にその瞬間は消えてしまい、再び経験することはできなかったが記憶にとどめることはできた。まるでちょうど別の人間であった時の人生を鮮明に憶えているようだった。

(128) 「君にもわかっただろう」オブライエンが言った。「どんなことでも可能なのだよ」

(129) 「はい」ウィンストンは答えた。

(130) オブライエンは満足気に立ち上がった。彼の左にいる白い上着の男がアンプルを割って注射器に吸い上げるのがウィンストンに見えた。オブライエンは微笑みながらウィンストンの方に顔を向けると、以前のあのやり方で鼻の上の眼鏡を直した。

(131) 「君は自分の日記にこう書いたことを憶えているかね?」彼は言った。「私が味方だろうが敵だろうが構わない。少なくとも君を理解し会話を交わすことのできる人物だ、と。君は正しい。君との会話は楽しかったよ。君の考えは実に面白い。私の考えとも似ている。君が正気でないということを除けばだがね。さて話し合いを終える前になにか質問があれば答えよう」

(132) 「どんな質問でも?」

(133) 「なんでも」彼はウィンストンの目があのダイヤルに向けられていることに気づいた。「スイッチは切られているよ。最初の質問は何かね?

(134) 「ジュリアに何をしたんですか?」ウィンストンは言った。

(135) オブライエンが再び微笑んだ。「彼女は君を裏切ったぞ、ウィンストン。すぐさま・・・何の躊躇もなくな。あんなに早く寝返る者はあまり見たことがない。君が彼女を見たとしても、そう見分けるのは難しいだろう。彼女の反抗心や欺瞞、愚かさや汚れた心の全て・・・全てが彼女から焼き払われたのだ。教科書通りの完璧な転向だよ

(136) 「あなたが拷問したのですか?」

(137) オブライエンは答えなかった。「次の質問は」彼は言った。

(138) 「ビッグ・ブラザーは実在するのですか?」

(139) 「もちろん彼は実在する。党が実在するようにだ。ビッグ・ブラザーは党を体現するものなのだ

(140) 「彼は私が実在するのと同じように実在するのですか?」

(141) 「君は実在していない」オブライエンは言った。

(142) 再び無力感が彼を襲った。彼には自らの非実在性を証明する論理が存在するということがわかったし、それがどのようなものか想像もできた。しかしそんなことは無意味だ。それはたんなる言葉遊びにしか過ぎない。「君は実在していない」という命題には論理的な矛盾があるのではないだろうか?しかしそんなことを言ったところで何になるだろうか?オブライエンが彼を論破するために繰り広げるであろう答えのでない狂った議論について考えると、彼の頭脳は次第にしなびてゆくようだった。

(143) 「私は私が実在すると思っています」彼は弱々しく言った。「私は自分のアイデンティティーを意識できます。私は生まれ、そして死ぬでしょう。私には腕も足もあります。私は空間上で特定の位置を占めています。他の物体が同時に同じ位置を占めることはできません。そういった意味でビッグ・ブラザーは実在しているのですか?」

(144) 「それは重要なことではない。彼は実在する」

(145) 「それではビッグ・ブラザーは死ぬことがあるのですか?」

(146) 「もちろん死なない。どうやって死ぬというのだ?次の質問だ」

(147) 「ブラザーフッドは実在するのですか?」

(148) 「ウィンストン、君がそれを知ることは永遠にない。たとえ君の処分が終わった時に我々が君を自由の身にすることを選び、君が90歳まで生きたとしてもその質問の答えがイエスなのかノーなのかを君が知ることはない。君が生きている間、それは解けない難問として君の頭の中に残り続けるだろうな

(149) ウィンストンは黙ったまま横たわっていた。胸の上下動が少し速くなる。彼はまだ一番最初に頭に浮かんだ質問をしていなかった。尋ねようとしたがまるで舌がそれを拒否しているようだった。オブライエンの顔には楽しんでいるかのような表情が浮かんでいた。その眼鏡まで皮肉を湛えた輝きをまとっているようだ。彼は知っている。ウィンストンは唐突に思った。彼は自分が何を尋ねようとしているのか知っているのだ!そう思った瞬間、言葉が彼から飛び出した。

(150) 「101号室には何があるのですか?」

(151) オブライエンの顔に浮かんだ表情は変わらなかった。彼はそっけなく答えた。

(152) 「ウィンストン、君は101号室に何があるのか知っている。誰だって101号室に何があるのか知っている」

(153) 彼は白い上着の男に向かって指を上げてみせた。会話は終わったのだ。注射針がウィンストンの腕に突き刺さった。直後に彼は深い眠りに落ちていった