2007年1月7日日曜日

差別の心理 2

まず・・・

「差別する側と、差別される側の、共通の了解があって、差別という状況が表面化する。」

ということに定義しておきますが、じゃあ差別するとは?

「めくら」という言葉は身体的特徴を表す言葉です。
それがナゼ?使用禁止用語となってしまったのか?
そもそもが、生活の中から生まれた実用語だったはず。

Aさんは「つんぼ」です。=Aさんは「聴覚障害者」です。

なら差別にならないというのが現代の学校教育の成果なのでしょう。

Aさんに向かって、「つんぼ!」となじれば、そりゃ立派な差別です。
Aさんの人格よりも「つんぼ」という身体的特徴のみを強調してますから。
それじゃ、Aさんを「聴覚障害者!」となじるのはOK?
当然「NO」ですよね?
じゃあ、じゃあ、もしAさんに向かって「めくら!」となじったら?

(え?そう言われてもボク、「めくら」じゃないし・・・)

と、Aさんも別に気にしないかも知れません。
「めくら」を差別的に使っても、Aさんの身体的特徴には合致しないので
Aさんがそれを不快に感じる確率は低いでしょう。

そこには差別側からの一方的な差別のベクトルが存在するだけで、
双方の間に差別という状況は恐らく成立しないですよね?
あと、農家の人に向かって「百姓!」となじったら

(そうだよ。「百姓」だけど何か問題?

というパターンも考えられます。

この一方的な差別のベクトルを問題化して一般化するのが
被差別側の当事者ではなく、人権擁護団体だったりするんですよね。

「人権意識が高い」人間が教養のある人間である。
という学校教育を否定する気はありません。
明治維新以降、先の世界大戦終了まで政府の富国強兵政策によって
多くの国民が個人の人権を虐げられた事を思えば

人権擁護活動、大いに結構です。

し・か・し・・・

今日、人権擁護活動家はその本来の趣旨を全うしているのでしょうか?
過剰な人権意識?から些細な言葉のアヤからでも訴訟・裁判を繰り返した結果、
「放送禁止コード」などのような企業側のガイドラインを生み出し、
「差別用語」は取り除いてきましたが・・・

本当の差別は取り除いているのか?と。

いままで「差別用語」だと思ってもいなかった言葉がある日突然使えなくなる。
意識していないだけに不条理感も多少生まれます。

ま、それでも決められたことには一応従うのが日本人の「和」の心。
それに差別の心は自己のアイデンティティーと表裏一体でもあり
誰の心の中にも大なり小なり必ずは存在するもの。
教養の有る人たちにとっては「臭い物には蓋をしろ。」となる。

「土人」という呼称は不適切であり、聞いて(見て?)不快である。

の理由は、自分は教養がある人間だという自尊心と、
「和」を乱すなという日本人特有?の感性によって
「土人」という差別用語が生理的に受け入れられないのでは?

時に真実は「和」を乱します。
「和」を尊ぶ心と、「和」を守ろうとする心は別でなければ
「和」は時として人を縛り付けるクサリにも変わるのだなぁ。
と思った次第です。・・・はい。


でわっ!