2010年6月20日日曜日

人間と戦争

 ワタシの叔父はWW2の時に南方の戦場に行きました。幸い生きて帰ることが出来たのですが、帰還後、親との折り合いが悪くなり実家を飛び出してしましました。

 両親から叔父について詳しく聞かされたことも無く、ワタシもあえて訊ねなかったので想像に頼るしかないのですが、生きて戦地から戻った人たちにとって、あの戦争は一体何だったのだろう?と云う思いは多少あったのではないか?と。

 戦地に送り出される前には英雄の如く扱われたのに、終わってみれば戦争そのものを否定され、死んでいった戦友たちは一体何の為に命を落としたのか?と。

 WW2はやむにやまれぬ事情が有ったと云う論調がありますが、であれば、WW2には日本なりの「大義」があったハズ。そして「大義」とは、戦争に勝とうが負けようが折れることの無い、誇り高いものであるハズ。

 是非はひとまず置いておくとして、現在イラクで多発しているテロにしても、アメリカに侵略されようが屈しない「大義」がそこにあるからではないでしょうか?

 翻って、日本は敗戦後にその「大義」をあっさりと捨ててしまいました。その事に、実際に戦地で戦って来た叔父の様な人たちが不満を持ったとしても当然でしょう。

 ワタシは戦争を否定します。煽っているワケではありません。所詮、日本を戦争に向かわせた「大義」なんて、その程度のものだったと云う事です。どこかの誰かが「捏造」した、勝手な「大義」だったと云う事です。

 然るに、日本国民を煽り、多くの戦死者を出し、一億総玉砕などという日本滅亡のシナリオを描いていた責任者は、その責任を取ったのでしょうか?ワタシにはそうは思えません。

 確かに東京裁判で裁かれた軍部の人間はいます。が、彼らだけだったのでしょうか?他にも責任を負うべき人間がたくさんいたのではないでしょうか?GHQとの取引で恩赦となった、岸、児玉のような人間がGHQの手先となり、戦後の日本を動かしたのではないでしょうか?

 で、普天間基地・・・に限らず、日米安全保障に関る案件が常に問題を引き起こすウラには、日本人自身が先の大戦を総括していないと云う点に問題が有ると思う次第です。

 実家を飛び出した叔父も既に鬼籍に入ってしまいましたが、もしワタシが叔父と同じような立場だったら、おそらくやるせない想いで最後を迎えたのではないかと思うワケです。先に戦場で死んでいった戦友の事。背負っていたハズの「大義」を否定されてしまった事。あれだけ憎んでいたアメリカが、戦後はアメリカ様さまと拝められる事・・・

何の為に命を賭けたのだ!?

 ・・・と。

 日本の独立と云う論調がインターネット上で見受けられる様になりましたが、チョット前までは考えられなかった事です。日本人誰もが日本は独立国だと思い込んでいたのですから。でも蓋を開けてみたら、

どうも違うらしいぞ?

 ・・・と。

 しかし、この様な事態を招いたのは他ならない、日本人自身の責任なのです。軍部に騙された・・・マスコミに騙された・・・と被害者意識のみで、自分はどうなのか?と云う自らの「大義」を戦後持ち得なかったことが、こんにちの日本の現状を招いたとは言えないでしょうか?

 重ねて言いますが、ワタシは戦争反対派です。ワタシの言う「大義」は戦争とは相容れません。人間の、個人の尊厳を踏みにじる戦争、および武力紛争を断固否定します。それが、尊厳を踏みにじられたまま一生を終えた叔父に対する、ワタシが出来る唯一の供養?の様に思えるからです。


<引用>

『戦争責任者の問題』

<前略>

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

<後略>

(『映画春秋』昭和二十一年八月号)

</引用>



でわっ!